第9話
異世界に召喚された時、女に会った。
神官のような恰好をしていた女だ。
女は自分のことを魔法使いだと言った。それも召喚師として王宮に仕える身だと。
僕を呼び込む為の魔方陣を組み、その指揮を取った人間だそうだ。
僕をこんな状況に追い込んだ張本人である。
しかし女は澄んだ顔に丁寧な挨拶でもって僕を迎えた。他人を身勝手に異世界に召喚した人間だとは思えない。
女は僕が何かを言い淀んでいる様子を見てクスリとその能面のような顔に笑みを張り付けた。
「それは出来ませんよ。勇者様。貴方を元の世界に戻すことは出来ません」
王の命に逆らうことは出来ない。貴方には勇者としての業務を全うしてもらわなければならないと。
そうか。その通りだと僕は頷いた。
女は僕の反応がどうやら気にかかったようだ。
目を細めて僕を凝視する。
「ああ、それは猫に現れる古代の呪文ですね。魔法使いが使い魔に使う呪いの一種です。
いや失敬。これは理解できぬこともしょうがないことです。失礼千万でしたね。
誠に申し訳ございません。いや、それにしても妙ですね。あの呪文は特に高度な技術が必要な呪文でもなく、呪われる者が承諾して初めて成立する呪文なわけでございます。いや実に不思議ですね。これは、どういった経緯で呪われたのか調べてみたいものです」
女はまるで実験体のモルモットでも見るように僕の足から顔まで舐めるように見る。僕はそこ視線に身震いする。
気持ちが悪い。
意味がわからない。
この女は表面上、礼儀をもって僕に接するがその実、僕を全うな人間として取り合わない。僕の言葉を置き去りに自分の言いたいことを上げ連ねて終わる。
礼節を欠いているわけではない。
しかし物事を理解する大人として扱わず、それは子供相手に説明をするように。それも子供には分らぬことは特に無視して説明は続く。
「召喚の儀は成功し、貴方は勇者になったということですが。どうにも具合がお悪いご様子。
あちらの方は勇者というものに憧れる者だと聞き及んでおりましたから、もっと目に見えてはしゃぐ様を予見していたわけです。私たちには理解できぬ感情ですが。
ああ、私がいま長々と話しているのが鬱陶しいと。ですがご安心ください。もう長話する機会はないと思いますので、疑問はここで解消されるといいでしょう。
過度なストレスは仕事の障害となりますので。
そういった配慮を王は私に命令されたのです。ですから、何でも聞くといいですよ。ああ、疑問が多すぎて特に浮かびませんか?」
この女の言うことが理解できない。
言葉は分かるのだが。意味が分からない。
単語は理解できるのだが、やはり女の話が理解できない。
とすると、またあの目で女は僕を見る。
僕は何か話さなければと女に問いかける。
「あの、分からないのです。分からないことが分からないのです。
えっとなぜ僕は召喚されたのですか?またなぜ眠ったときだけなのですか?意味はあるのですか?分からないのです。
ああ、分からないのです。
あの聞いてますか?聞いていてください。分からないことを人に聞くことで精神を保っているのです。
もう意味が分からない。それでいて僕はなにかに侵されたようにどこか判断が覚束ない。
異世界に来て、善悪の判断が出来ない。
なにがおかしいのか分からない。
人を殺め、魔物を屠り、敵を討つ。もう何が敵かも分からない。剣を振るい、頭にある不安や疑問は、瞬く間に消えていくのです。
ああ、これはおかしくないのか………。
ああ、おかしくないですね。
では何がおかしいのですか?
え?おかしいことはおかしいのですか。
では何が?
ああ、また頭が痛くなってきました。すこし寝かせてください。頭が痛いのです」
「判断能力の欠如はその呪いによく現れる症状ですね。それは、術者の意向に反する気持ちを封殺する呪いにもなりうるものです。その呪いについて今は詳しく話せません。私には 」
「眠い………。ああ、たまらなく眠い」
僕は一度眠りについた。
次に女に会ったのはいつかわからない。
多分、彼女と出会って数カ月が経過した頃だと思う。
女は少し柔らかい笑みで僕を部屋に迎えた。
四畳半ほどのせせこましい部屋に僕を招き、女は古い作りの椅子に腰かけ挨拶する。
女は妖艶な雰囲気を見に纏い、こちらを見る。
僕は年頃の男であるがこの女には劣情など抱かない。
それは蛇に恋する蛙などいないということと同義である。
しかし、あの目ではない。一瞬、前会った女とは違う女かと思ったほどだ。
「またお会いしましたね。
どうやら貴方の精神状態がお悪いということで王が私に命を出したのです。これは珍しいことなのですよ。
王は勇者と召喚師を会わすことを嫌いますから。もしくは対象者同士というのは、ある種の解呪の道へと繋がるからかもしれません。
よほど貴方の精神状態がお悪いのでしょう。私は勇者の精神安定の処置をしろという命を受けてここにきたのです。
それは、本来ならばまた貴方のどこまで行っても理解できぬ疑問への苦し紛れの解をただ並べるだけのことです。
その愚かな回答から貴方は一番納得できる回答を一つ選んで、精神衛生上の安定を図るというものなのですよ。
え?どうしてそこまで包み隠さず話すのか?私はいま嬉しいのです。
私は貴方のおかげで自分の自由を確保できたのですから。貴方を見ていると分かることがあるのです。私はその呪いと付き合いすぎてしまいもはや自分が呪いにかけられていたことも忘れていたのです。しかし、貴方と初めて会った時、気づいたのです。
ああ、これは私の呪いと類似していると。貴方ももう少しその呪いと付き合えば分かると思いますよ。なぜなら私とあなたはある意味同じですから。だから分かるのです。ん?何が同じなのか?ならあなたが言えないことを言ってあげましょう。私はもう言えますから」
「あちらの世界に戻りたい。人など殺したくない。勇者なんてしたくない。王よ。あなたは間違っている」
「ほら簡単なことです」
また頭が痛い。頭の中に蟲でも這っているのかと思うほどガサガサと音がどんどん大きくなり、激痛が走る。
僕の言えない言葉をいとも簡単に言ってしまう女を見ていると頭痛が襲う。
「それは抗っている証拠なのです。それは正しい行為なのです。
それを教えてはいけないことだと王は憤慨するでしょうが、私はあの子には甘いんですよ。あの子は貴方が傷つくと悲しむでしょ?
抗いなさい。それが………帰るために必要なことです」
何を言っている?意味が分からない。
「分からないということは分からないことを理解している。
それでいいのです。頭の痛みは一瞬でも、勇者の業は続きますよ。ならば切り開かないと。あなたが正しいと思うものはなんですか?」
正しさ?全く理解できない。この女はなぜに禅問答ような会話を続ける。
こんな狂った女に付き合っている暇はない。早く帰してくれ。
もう眠い。もうたまらなく眠いのだ。
体が言うことを効かず、その場に倒れこむ。瞼も重く、睡魔に襲われる。
しかし、女はそれを許さない。耳元でささやく。
「駄目です。眠っては駄目です。今、眠っては貴方と話したことも、今までのことも無意味になります。
私は貴方を解放したいのです。召喚しておきながら虫の良い話ではありますが。それは、あの子の願いです。さあ、目を開けなさい。寝てはいけません」
僕はふらつきながらも、女の手をつかむ。
そのか細い手には小さい傷がいくつもある。まるでリストカット痕のように。
「頷くだけでいいので聞いていてください。今のあなたは私に疑問をぶつけることも出来ないでしょう」
僕はどうにか女の言う通り、起きるよう努める。
「いいですか?この呪いは制約の呪い。またの名を服従の呪いというのです。
しかし、あまりに脆い魔法なので古の魔法となったのです。
なんの魔力も持たない素人にもその呪いは解呪できてしまうのです。
ではなぜそんな呪いを王は貴方に使ったかですか?それはこの魔法の解呪が他の魔法と少し違うからですね。この魔法は第三者の手助けがあって初めて解呪可能な魔法なのです。それは、相互信頼と魔法の認知。
そして承諾です。
分かりませんか?それはそうでしょう。この世界に来た貴方は誰も信用できない。急に異世界に放り込まれれば心から他者を信用するなんてことは出来ない。それは当たり前のことです。
信用がないなら理解もない。貴方は一生呪われ続けるわけです。かくいう私もこの呪いとは何百年とともに過ごしてきました。
まあ、解けましたがね。ん?ああ、この腕の傷ですか?これは違います。これはその呪いではなく、ある魔法を使った際に出来たのです」
そこで女は一旦咳払いを挟む。
僕は先ほどから眠い目をこすりながらなんとか女の話に耳を傾ける。
「そうです。召喚の魔法です。一度試して失敗したのですが、どうやら魂の召喚は睡眠を合図に呼び戻される不完全な呪いのような魔法だったようです。二度目にようやくこの魔法の真意を理解した次第でございます。
また、術者には大きな負担と、またその魔法行使の為の材料が必要なようですね。まあ、これは聞かなくてもよい話ですね。
では元の話に戻りましょう。先ほども述べた通り、解呪の方法はいたって簡単です。しかし具体的な解呪方法は流石に言えません。
私も舌の上にその言葉が乗っているにも関わらず言えないもどかしさというものがございますが、どうにも言っては意味がないものなので。
ですが、一つだけヒントを。あの子を頼りなさい。それだけですべて解決いたします。ああ、もう時間ですか。」
女は時間だというと僕の手を放した。
途端に僕の瞼は下がり、意識は闇の中に沈んでいく。
深く深く沈んでいく。
次に会ったのは闇の中。
もういつかなんて覚えてもいない。
ただただ眠い。
これは今までの睡魔とはわけが違う。
すっと寒気が体を襲い、瞼が重い。
たまらなく眠いのだ。
眠くぼんやりした僕の頭に気持ちの良い歌が流れる。
ギターの音をバックに女性の声が何度も頭の中をリフレインする。
今、眠りにつけばそれはさぞ気持ちの良い夢を見れるに違いない。それはまるで甘露を味わう夢見心地。
誘われるように眠りにつこうとする。
しかし声が聞こえる。
誰かの声が。
誰の声か。
これは女の声だ。
「そうです。眠ってはいけません」
聞こえた。
やはり女の声だ。
「そう、抗わないと。そうしないと。駄目なんですよ。あの子の歌を思い出して。そして、戻るのです。ここで眠ってはいけません。ここは貴方の夢の世界なんですよ。今眠ってはいけないのです。ほら歌が聞こえるでしょう?誰の歌ですか?知ってるでしょう?」
ああ、その歌は知ってる。
その歌は彼女の歌だ。
この歌を聴くと今まで重たかった体がまるで綿のように軽く、フワッと宙に浮く。夢心地に聴こえてくるのだ。
ああ、これはうつらうつらと漂う夢のよう。
ああ、これは時の随に消えていく夢。
ああ、これは彼女の歌に溺れる良き夢。
ああ、貴方に会いたいと願う追憶の夢。
「さあ、目をシャンと開けてみなさい。そこには望んだ世界があるはずです」
これは夢なのか…………。
僕は引きちぎれそうなもうひとつの僕の体を引きずり、女に言う。
「貴方はどうするの?一緒に来ないのか?」
「ここでお別れです。さあ、いきなさい」
それは、どちらにもとれる言葉。僕は不意に涙があふれて、女に言う。
「あの子が悲しむことはしないんだろう?なんでだ………?君も一緒に来ないと彼女は悲しむだろう」
「馬鹿ですね。もうわかっているくせに。本当に卑怯な方です。だからあの子も貴方だったのかしら」
女の声は震えていてところどころ聞こえなかった。しかしその瞳に悲哀の情が映し出されて女の真意を悟った。
「なんて礼をしたらいいのか………。わからない。そうわからない。僕はあなたの犠牲の上に彼女に再会するのか?君はまだあちらに居たいのに」
涙が止まらない。
涙が体を圧迫して、どうにも抑えられない。
どう報えばいいのか。
「いいんです。あの子もそう言いました。でも、私はこれで満足です。それに、また同じ愚行をしでかす王が生まれるとも限りません。私は見守らないといけない。これは胡蝶の夢。貴方は夢を見ていたのです。そう私も貴方も」
「では、さようなら」
女の声はか細く聞き取りずらいが、最後の言葉はきっちり僕に届いた。
「ああ、さようなら。そして、ありがとう」
私は勇者を送り出すと、ふと自分の小さい手を見た。
そこには仄かな温もりが残っていて、あの子のことを思い出す。
すると頬に小川が流れ、体が震えた。
私がもう会うことが出来ない子。
ああ、貴方。
その子を泣かせたら許しません。
大事な子。
もし、泣かせたら貴方を呪います。
そういう呪いもあるのです。
冗談ですよ。
でも、あの子は喜ぶのでしょう。
貴方と再会し喜ぶ彼女の姿が見える。
ああ、よかった。
本当によかった。
バイバイ。
またね。