08
ぐらりぐらり、と視界が揺れる。
歪んだ世界が何を表しているかは分からない。ぐにゃりと曲がったそこに何があるのかすら分からない。
まるで崇高な画家が描いた抽象画のように、教養のない自分には何を伝えられているのか理解できない。
いいや、分かるはずだ。自分には。でも心がそれを受け入れないからきっと見えないままなのだ。
――では、それを飲み込むにはどうすればいい?
「ッ! あ、ああ……」
「お嬢様!」
心臓がバクバクと暴れ回るのに対して身体は痺れたように動かない。指先のひとつでさえ、いくら呼びかけても働こうとしなかった。
息が荒い。心臓が大きく波打つ。全身が気だるい。胸が苦しい。喉がつかえる。
目の前でアイリーンがぼやけて映っては暗闇に掻き消され、また映っては掻き消されていく。
暫く大きく深呼吸を続ければ、チカチカする目路は日常を取り戻していった。身体の痺れも消えていく。
どうやらアイリーンの膝の上に頭を置いて眠っていたらしい。いわゆる膝枕だ。
これが平素なら、美女の膝枕とか役得だぜぐふふ、とかアホなことを考えたが今の自分はそこまで余裕はない。
「心配かけて、ごめんなさい。も、大丈夫、よ」
大丈夫じゃないのに大丈夫と、つい言ってしまうのは日本人の性だろうか。
けれどこれしきのことで立ち止まるのは納得できない。私が自分の足で歩いているのならともかく、涼しい顔で他人に運ばれている身としては。
それにこんなことなら、よくあったではないか。
「大事をとって今日はここで休みましょう。御者に伝えてきますのでこのまま横に――」
「アイリーン、」
私の頭をそっとクッションに移動させ、彼女は素早い動きで扉へと向かう。しかし私は硬い声でそれを止めた。
アイリーンは振り返って心配そうに私を見下ろしていた。
「気遣いなんて結構よ。変わらず進めるところまで馬車を進めるように伝えなさい」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
そうだ、そんな気遣いなんて要らない。私は大丈夫なんだから。
しかし、ああ、なんて可愛げのない言い方だろうか。せっかく彼女は私を心配してくれたのに。
相反する感情がごちゃ混ぜになって不快感が募る。
けれどここで折れるわけにはいかない。もう一度、アイリーン、と諭すように彼女の名前を呼んだ。
「――かしこまりました」
と、彼女は一礼して馬車から出て行った。
それを横目で確認したと同時に涙が落ちる。やっと落ち着いてきた呼吸がまた乱れて、自分がどうやって息をしていたのかが分からなくなる。
ああ、と殆どが吐息の声が漏れた。条件反射でそれを押し殺すように嗚咽を堪えれば、喉が引きつって焼けるように熱くなる。
固く目を瞑った。閉じた瞼から絞り出されたように涙が流れていく。それは頬を伝って、耳へ入り込んでより一層、不快感を増幅させた。
アイリーンが戻る前にこの姿をどうにかしなければと思うが、身体は動いてくれない。
震える指先を叱咤し、指で引っ掛けた袖口で涙を拭った。嗜みとして薄く施された化粧を崩さないように、そっと。
そうすれば、ほら。何も変わらない。
アイリーンが戻ってきた。もう何も言わない代わりに、ちらりと気遣うような視線を一瞬だけ巡らせた彼女はいつものように椅子に座る。
背筋を伸ばし、目を閉じて。淑やかに、けれど凛として。
私もああなれたらいいのに、と手触りの良い掛布の下で背中を丸めた。己を抱きしめるように。
「――ごめんなさい」
きつく当たってしまって、と。
この小さな声が遠くの彼女に伝わったのかは分からない。けれどこんなか細い声では、きっと馬車の車輪が回る音に埋もれてしまっただろう。
「いいえ、気が動転されても仕方のないことですよ。ですが、何も知らないということも不安でしょう。お嬢様さえよろしければ、先ほどのこと――お話ししても構わないでしょうか?」
返答を躊躇った。大方予想はつく。何があったのか、そしてどうなったのか。けれど、お願い、とはすぐに言えなかった。聞くのが怖かったのだ。
少しして、のそり、と上体を起こす。頭がくらくらした。そうして掛布に包まり、己を抱き締めるように膝を抱えた。
「教えてちょうだい。何があったのか――」
もう旅路は半分を過ぎたくらいである。つまり今通っている道はもうとっくにファズマレールのものではない。隣国、バックルンド王国のものだ。
バックルンドでの道は本当に横切る程度とは言え、通り抜けるにも数日はかかる。
現在のバックルンドはファズマレールやオルサーヴに比べて治安が悪い。
整備されていない道も多く、街道とかろうじて呼べる道の周辺も管理が甘いようで旅の者が盗賊に襲われる事件もままある。
そんな中でファズマレールの王家の紋章が描かれた馬車が襲われない筈がなく。
護衛の騎士ももちろんいるが、人数は最小限に抑えられていたので尚のこと狙われたのだろう。
軽い怪我人はいたが幸い死者や重症人は出なかった。手練れの騎士が多いらしい。
しかし盗賊の人数が予想以上に多かったので、アイリーンも戦闘に駆り出されたという。
「ちょ、ちょっと待って。アイリーンも?」
ちょっと、いや、かなり引っかかる言葉が出てきたので話を止める。
アイリーンはその服装の通りただの侍女だ。そんな彼女が荒くれ者の相手を出来るわけ――。いや、まさか。
「申し訳ありません。怖がらせてしまうだけと思って秘密にしていていましたが――私はファズマレール第3王宮騎士団 銀の騎士のアイリーン・マクベスと申します」
彼女、アイリーン・マクベスはそう言って流れるように騎士の礼をとった。
そのまさかだった。開いた口が塞がらないとはこのことか。きっと今の私は阿呆な顔をしていることだろう。
普通の侍女だと思っていたが彼女の本職は騎士様だったとは。しかも一般騎士かと思いきや銀の騎士である。
銀の騎士――ファズマレール国で身分に関係なく優秀な人材に贈られる称号のことだ。
一つ下の称号は銅の騎士、一つ上の称号は金の騎士といった具合に。銅の騎士でも並みの技量ではなれないと聞く。
これはもう少し話を聞く必要がありそうだ。
旅に慣れてきた分、今や退屈さに苛まれる毎日である。
これはいい暇潰しを見つけた、と私は密かに笑みを深める。身体を蝕んでいた恐怖心はもう消えていた。