05
そうして馬車に揺られ、軽い昼食を摂り、また揺られ、休憩し、またまた揺られ――そろそろ陽が傾いてきた。
窓の外から吹き込んでくる風は昼間と比べて少し肌寒い。目を向ければ空は橙に染まってきていた。
ところで今夜は早速ここで眠るのだろうか、とアイリーンに訊こうとしたところで――また馬車が止まった。
着きましたよ、と彼女は言った。今朝と比べて少しその表情は柔らかくなった気がする。
首を傾げながら靴を履かせられる。降り立ったそこにはいくつかの宿屋が並んでいた。
どうやらここは宿場町らしい。どの軒先にもぶら下がっているランプに炎が灯っている。
主に商人がこの場を利用しているのだろうか。馬車もちらほら見かける。とはいえ、私の乗っていた馬車より立派なものはないが。
「お嬢様、こちらですよ」
アイリーンに声をかけられたのでそのまま彼女についていく。
案内されたのは一帯の中でも高級そうな宿屋だった。宿内で見かけた何人かの客も綺麗な身なりをしていたので富裕層が利用する宿なのだろう。
手続き自体は先行している騎士が済ませていると聞いた通り、アイリーンは受付には寄らずにそのまま部屋へと向かっていった。
階段を登り、踊り場を抜け、廊下を進んでいけば店の人間と思しき男が扉の前にいた。男は私を視界に入れた途端にゆっくりと一礼し、手にしていた鍵で扉を開ける。
どうぞ、とアイリーンに促されて私は室内に足を踏み入れる。そこには現代のホテルとさして変わらない部屋だった。
しかし部屋の真ん中にゆったりと3人は眠れそうなベッドが鎮座しているという部分は流石としか言えないが。
正直な話、この時代背景の宿屋と聞くともっと簡素というか、言ってしまえば顔をしかめてしまいそうな劣悪な環境を想像していたのでホッとした。
病み上がりといい、慣れない馬車の旅といい、いくら休憩を挟んでいても疲れているようだ。
疲労感が溜まっている身体は、すぐさまあの大きなベッドへと身を投げさせてくれと訴えている。
私だってそうしたい。けれど汚れた身体のまま眠るのは抵抗がある。このままなら眠れはするだろうが夢見は良くならないだろう。
ちらり、とアイリーンを見る。それだけで彼女は私の言わんとすることが分かったのだろうか。お掛けになってお待ちください、と部屋を後にした。
ベッドの脇にあるドレッサー前の椅子に座る。靴くらいはいいよね、と革靴を脱いで足元に揃える。
靴の上に足を置くのは流石にお行儀が悪そうなので、座面に踵を乗っけて膝を抱えた。
手の届く範囲にカーテンがあったので様子を窺うように少しだけ開ける。宿屋の裏側らしく、厩が並んでいた。厩番や見張りの兵士らしき人影がいくつかある。
やっと1日。あとこれが2週間近く続くという。上手くいけばの話なので雨など天候が崩れればもっと伸びる可能性もあるだろう。
きっと天気予想などもないのだろう。あったとしても現代のものほど正確とは言えないはずだ。
明日も晴れますように、と夜に近づいてきた空にお願いをする。
部屋の外で微かに物音が聞こえた。きっとアイリーンが戻ってきたのだろう。私は慌てて革靴を履き直して何事もなかったかのように彼女の帰りを待つ。
お待たせしました、とアイリーンと何人かの女性従業員がお湯を抱えて浴室へとなだれ込んでいく。私はその後に続いて浴室へと向かった。
ゆったりと旅の服とあってコルセットは締められていない。軽装とあってボタンをいくつか外すだけで下着姿が灯りの元に晒される。
緩く纏められた髪も解かれ、白金の毛先が背中をくすぐった。
まずはお湯に浸した布で全身と髪を拭かれる。その間に座っても胸あたりまでの深さしかなさそうな小さな鉄製の浴槽にお湯が注がれ、時に水を加えて風呂の温度の調整をしているようだ。
拭き終わったらその浴槽に浸かりながら石鹸で上半身を洗われていく。水深は座ってお腹あたりまでしかない。
髪も適温になったお湯をかけられながら泡立てられていき、それらを流されれば今度は浴槽の縁に腰掛けて下半身を洗われる。
自分の意思とは反して身体に布が滑っていく感覚はやっぱりくすぐったくて、自分でやります! と声を張り上げたかったのが本音だ。
疲れを取るはずの入浴なのに疲れた気がする。でも半身浴程度とはいえお湯に浸かれただけ十分だろう。これ以上ワガママは言えない。
げっそりとしながら乾いた布で全身を拭われ、夜着を着せられる。
七分袖のワンピースのようだ。裾はふくらはぎの中頃まで隠れるものだ。襟もそこまで詰まったものではないので寝苦しいことはないだろう。
寝る時の格好としてはズボンがよかったけどこれが寝巻としては普通らしい。私が倒れた時も似たような服だった。
部屋に戻ると食事の用意がされていたのでありがたく頂く。
生憎と料理には詳しくないがパンとスープと茹でられた野菜。そして牛肉のステーキのような豪華なメニューだった。
日がな一日座っていただけだったので、正直なところ昼食と休憩の際に摘んだお茶菓子によってお腹はそこまで空いていない。
しかし出されたものを残すのは失礼だし、体力が落ちてる今はしっかりと食べて栄養を補給するべきだ。
とはいえ明日のことを考えると、夕食のせいで酔ったりするのは、なあ……。
本当に申し訳ない、と心の中で謝罪しつつステーキの半分は残すことに決めた。
味としては想像より美味しいのだが、濃いの一言だ。ステーキのソースだけでいくらでもパンと野菜が食べられそう。
そういえばお茶菓子も甘かった。本日のティーブレイクでお茶に砂糖を入れたのは間違いだったと思い出す。明日からは砂糖なしにしよう。
食事が終わり、寝支度を整えたところでアイリーンが声をかけてきた。
「それでは私はここで。良い夜をお過ごしください」
詳しく話を聞けば侍女であるアイリーンの仕事はここまで。
宿屋の一室といえど、今やここは主人であるリリアーヌの私室だ。夜である今では長居はおろか、同じ部屋で眠ることはない。
アイリーンは隣の部屋で休むらしい。何かあった時は公爵家の時のようにベルを鳴らればいいと教えられた。
おやすみなさい、と声をかければアイリーンは少しびっくりした顔をした後、同じように挨拶を返してくれた。
そうして彼女は扉から出ていく。廊下に繋がる扉ではない。どうやら彼女のいう隣の部屋とは接続部屋のことだったようだ。これならベルの音も聞こえやすいだろう。
食事を終えてからまだ間もない。このまま眠りたいところだが、身体のことを考えるとまだベッドに潜るのはよろしくない。
けれど灯りはもう最小限に抑えられている。アイリーンがそうしたからだ。
そういえば、と私はカーテンを開けた。ガラスに映るリリアーヌの向こうの世界では月が煌めいていた。星もよく見える。
お腹が落ち着くまで夜空でも見上げようじゃないか、とドレッサー前の椅子を引っ張り出す。
やはり室内履きを脱いで膝を抱える。今度は頬づえをついて視線を上げた。
あの空では下界でたくさんの人工の星が瞬いていたので滅多に本物の星は見えなかった。見たとしても液晶越しに拡大された光ぐらいだ。
本物の星の群れはとても綺麗だった。あの星たちにも名前があるのだろうか。――私が聞いたことない名前が。
余計なことを考えるのはやめよう。考え込んだら眠れなくなる。明日もきっと朝早いんだ。
この星は眺めるだけ。綺麗だと愛でるだけ。何も考えてはいけない。私は何も知らないから。覚えていないから。
力が抜けてきた代わりに眠気がやって来たようだ。お腹のことを思うともう少し横になるのは控えたいが、せっかく眠たいのだから眠る他ないだろう。
「おやすみ」
ベッドに潜り込んでそう呟く。目を閉じればすぐに眠気が両手を広げて私を包み込んでいった。