02
そのままぼんやりとしていたら控えめにノックが聞こえた。ドアが遠いので返事をする代わりに真鍮のベルを鳴らす。ちりん、と音が静寂に響く。
まず扉を開けたのはステラだった。次に父であるグスタフ公爵が部屋に入ってくる。
リリアーヌの記憶があるので公爵の顔はもちろん知っていた。しかし記憶と実物は似て非なるものである。
はっきりと言おう。なんだこのダンディな紳士は。すごく好みなんですけど。ほんと、あの王子様もそうだけどこの世界の遺伝子どうなってるの? これが高貴な方ってやつなの?
「話は聞いたぞ、リリアーヌ」
ああ、やっぱり声まで素敵なんですね!ぞくぞくします!
先ほどの昏い感情はどこへやら。ポーッと実の父親に見惚れていると、厳格につり上がっていたはずの彼の眉がへにゃりと垂れ下がる。
「リ、リリアーヌ、どうしたんだ。まだ熱があるのか? それともどこか身体が痛むのか?」
おろおろ、と。子供の扱いに慣れていない新米パパが我が子を前にどうしていいのかわからずに狼狽えるそれと同じように、厳しい顔つきだった紳士は慌てていた。
ああ、そうだった。このパパはリリアーヌ大好きだったんだ。
「い、いいえ。もうどこも悪くありませんわ。ご心配をおかけいたしました。――この度は、申し訳ございませんでした。お父様、お兄様の、ひいてはルゼルヴェインの名に泥を塗ってしまったことに」
謝罪をする格好とは言えないが、寝台から上体を起こしていた私は深く頭を下げた。
どこも悪くないのは本当だが、1週間も寝込んでいた身体は軋んでいて動かすのも一苦労だった。今も折った背中が痛い。復帰したらまずはストレッチから始めよう。
などと思っていたら一向に声がかからない。やっぱりいくら甘い父と言えど、これには大目玉か。でもそろそろ背中が悲鳴を上げそう。
窺うように顔だけ上げれば、そこにはぽかん、と間抜けにも口を開けた父がいた。控えていたステラも全く同じ表情で。
父と視線がかち合う。あの、と声をかける前に抱きしめられた。
「リリアーヌ、どうしたんだ! 本当に何かあったのか!? あの王子に何を言われたんだ! お父様怒らないから言いなさい!」
あっ、これ話通じないやつだ。本当にパパ公爵は目に入れても痛くないほどあんなワガママ娘が大好きだったようだ。
それと一緒にリリアーヌはことごとく生意気な娘だったと分かる。まさか謝罪ひとつでここまで驚かれるとは。ある意味すごいね、リリアーヌ嬢よ。
怒りながらも今にも泣きそうな父を宥めながら、記憶を頼りにあの日のことをポツリポツリと話し出す。
父が領地にいる間に起こしたご子息ご令嬢の通う学園での問題。自分が使用人たちにしてきたこと。自分がどれだけあの王子の隣に立ちたかったかということ――。
王子を想う気持ちを吐き出した途端、涙が落ちた。あの日ブレた王子の姿が、いつかの誰かと重なっては心が苦しくなる。
しかしそれはリリアーヌの話ではない。真理の話だ。そのことはぐっと喉に押し込めた。
「それで、私はどうなるのでしょうか。俗世を捨て、修道院にでも行くのですか?」
締めくくるように今まで俯いていた顔を上げて父を見た。父は悲痛な顔をしていた。ステラは声もなく泣いていた。
目が覚めてからずっと気になっていたことだ。私はここからどう生きていけば良いのだろうか。やはりここで死ぬ運命なのか。
「いいや、お前は――オルサーヴ王国のヴィンフリート・グリュンタール将軍に嫁ぐことになった」
ああ、私としたことが普通すぎることを忘れていた。お貴族様といえばこれ、政略結婚だ。
「オルサーヴの将軍……? 戦でも、起こるのですか」
「いいや、その逆だ。お前は今後戦争を起こさせない両国の親善の証として、嫁ぐこととなったのだ」
なるほど。それもそうだ、私は公爵令嬢。中身は馬鹿な小娘だとしてもその名前だけは一丁前。
表ではブランドをチラつかせつつ、裏では良い厄介払いとして他国に嫁がせるなど、私が王でもするだろう。
生憎どちらの国も王族同士の婚姻は結べない。なぜなら、お互い適齢期の息子も娘もいないからだ。
となれば上流貴族に白羽の矢が立つのも当たり前。しかも丁度良く他国へ送れる令嬢がいたじゃないか。そう、自国で問題を起こした私、リリアーヌ・ルゼルヴェイン公爵令嬢が。
謀られた、というべきか何というべきか。しかも親善の証ときたものだ。これでは世を恨んでおちおち自殺もできない。
なんせ相手は軍事大国のオルサーヴ。これを断ったらこの国が滅びかねない。滅ばないにしても国土はめちゃくちゃになるに違いない。
「分かりました、謹んでお受けいたします。――それで、出立は?」
オルサーヴはファズマレールから別の小国を一個跨いだ土地にある。しかもただの観光ならともかく、嫁入りときたものだ。準備に時間がかかるだろう。
あまり世間からはいい目で見られないかもしれないが、その準備期間中にこの国を目に焼き付けるようにこの国の各地を巡りたい。
あと目の前の紳士の血を引くお兄様方をもう一度この目で見ておきたい。リリアーヌの記憶ではアテにならないからね。さぞかし眼福もののお顔立ちなのだろう。
いや、とはいえお貴族様の嫁入り事情とかよく知らないのでそんな暇はないのかも知れないが。
が、そんなことは父の無情な一言で砕け散った。
「それがなぁ……。明日、なんだよね」
――はい? 今なんと仰いましたかねぇ?