20
心の病気に関する描写がありますのでお気を付けください。
というより、まずは聞きたいことが山ほどある。控え室にいる訳知り顔の旦那様たちからここまでで何も私に伝えられていないからだ。
本人が1番この状況を把握していないとは驚きだ。まあ、大方予想はついているのだが。
「初めまして。私、リリアーヌ・ル……グリュンタールと申します。お恥ずかしい話ですが、私、今なぜここにいるかよく分からないんですの。もしや貴方様が祈祷師様、なのですか?」
壇上の彼を見上げて、私はそう言った。
名前を言い間違えそうになったのは失敗したが、何も知らないといった顔をしてあざとく首を傾げる。
「ええ、いかにも。私はこの教会ネクタリオスの教皇、レイモンド・ゲオルグ・グレーフェンベルグです。どうぞよろしくお願いします」
「あら……、まあ。た、大変失礼致しました。無礼をお許し下さいませ……!」
――ちょっと待った、教皇だと?
高位聖職者どころかまさかの教会トップの人物が出てきた。
思考停止しそうな頭に鞭を打って全力で非礼を詫びる。淑女が何だとと構っていられるか。不敬罪で殺されてしまう。
「いえ、お気になさらず。まだまだ私は若輩者ですから」
教皇様は声色を柔らかくしてそう否定した。
気を悪くしていないようだったので私は胸中で安堵のため息を吐く。
では本題だ。まずは基本情報から訊いていこう。
「ええ、と。教皇様、ご存じかもしれませんが私はファズマレール王国から嫁いできた身なのです。その、悪魔とは、一体……?」
――悪魔とは。人の心の弱い部分につけ込んで誘惑し、気と呼ばれる生命力を奪う存在である。
悪魔に憑かれた者は日を追うごとに健康的な生活を送ることが困難となり、やがて彼らに生命力を奪われて死に至る。
きっかけは些細なものである。無意識下の夢で誘惑の言葉を囁かれ、それに頷いてしまったケースがほとんどだ。
その中には怪我や病気で心が弱った際に彼らがつけ込んでくる、といったものが多い。
唆された人間の初期症状は主に気分の落ち込み、軽度の睡眠障害や摂食障害などが見受けられる。
症状の進行は人によってまちまち。時には1週間と経たずにそれらの症状が重症化する場合もある。
さらに症状が重くなると明らかに精神の状態が健康なものから逸脱し、何も受け付けられず寝たきりとなってしまう――。
ここまで聞いて、ああ、と私は感嘆した。
「では、祓う方法とは?」
――悪魔祓いに効果的なものは祈祷師から祓いの言葉を賜ること。
他には祈祷師が指定した香を焚いたり、祈祷師の気が封じ込められた装飾品を身に付けること。あるいは教会の一室で定期的に瞑想すること。
また積極的に清浄な空気を吸い、養生することも効果があるといわれ、多くの人と関わり善行を行うことも重要視されている――。
「ご説明、ありがとうございました。教皇様」
「いいえ、悪魔について理解していただけたようで幸いです」
ここまではジョセフのおじいちゃんから聞かされていたことがほとんどで、それを少々小難しい言い方をしたような感じだった。
「私の前に祈祷師様がいる、ということは、私は既に悪魔に憑かれているのですね」
「はい。まだ絶対とは言えませんが、グリュンタール将軍の話によるとその可能性は大きそうです」
確かに睡眠不足なのは否めないが、果たしてそれはもう既に旦那様に知られてしまっているのか。
とはいえ食欲はあるし、積極的に外にも出ているし、至って健康体だと思っている。
やはりあの日の奇行が決定打になってしまったのだろうか。他に原因があるとすれば本来のリリアーヌらしからぬ行動についてか。
思い当たるフシがないようであるのが困りものだ。
けれど悪魔なんていない。現代脳で今までの情報から考えれば、悪魔憑きとは精神病のひとつに近いと言える。
つまり、快方に向かうか否かは周りの理解が必要といえど結局は自分次第。
そもそも悪魔を信じていない自分に祈祷師様の有難いお言葉が通じるとは思えない。
その時、胸の奥がさざめいた。
頭の片隅から嫌な感情が溢れ出て、脳内が侵食されていく。それは血の巡りとともに身体中を侵していって、私を狂わせていく。
「では、教皇様。なぜ私たちは悪魔に取り憑かれるのですか?」
お願い、やめて。もう何も言わないで。
そう止める感情はどんどんと押し流されて、判断力という堤防を決壊させていく。
辛うじて残る理性で震える手を喉元に添えた。声を出せぬように喉を閉めた。
滲んだ視界の彼は私の異変に気が付いたのか、こちらをじっと見つめていた。
何かを言いかけたが、その続きを止めたのは私が次に何を言うか待っているからだろうか。それとも返答に困ったからだろうか。
閉められた喉は、はくはく、と声にも息にもならない言葉を零す。
やがて息ができない身体は限界を迎え、生きるために素早く空気を取り込み、吐き出す。
その隙をついて、ついに言葉が声として落ちてしまった。
「――そんな悪魔に唆された私が、悪いんですの?」
声といっても吐息混じりの小さな囁き。
言ってはならないそれ。遠くの彼に、聞かれなかったことを祈る。
ぽろり、と涙が瞳から零れていった。
「――貴女はほんとうに、とんでもない悪魔に取り憑かれてしまったようだ」
彼が、漸く口を開いた。
しかし酸素の足りない頭では、その声色が怒りなのか、呆れなのか、悲しみなのか、それとも別の何かなのかは判別できなかった。




