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こっそりと私を見上げる視線は、一体誰のものか。

猫を被った本物か、本人とは別物の替え玉か、それとも何かに憑かれているのか――。


妻となったリリアーヌ・ルゼルヴェイン嬢のここ1週間ほどの動向を第1王子に伝えた。

話を聞いた彼はこう返した。ならば彼女に接近してどう反応したか追って伝えろ、と。


ということで、今日は彼女を屋敷から連れ出してある場所へ向かっている。


今まで女をどこかに誘った試しがないので、今から行く場所も彼女が気に入ってくれるかどうか――いや、私は何を考えているんだ。

これは第1王子から言われた通りに行動しているまでだ。私の意思は関係ない。


引き寄せた彼女の身体が触れる部分がいやに熱く感じる。


夫とはいえど、まだ大して親しくもない男と密着してなぜ文句のひとつも言わないのか。

先日のように私に怯えるような様子もなく、落ち着いて身体を預けている。女とは相変わらずよく分からない生き物だ。



「綺麗、ですね」



目的地は私が以前に見つけた森の泉。

木の生い茂った深い森の中なので、ほとんど人は立ち入らない。1人になるにはうってつけの場所だ。


ヴィゴールから降ろした彼女は目の前の景色を見て、青の瞳をキラキラと輝かせている。どうやら気に入ってくれたようだ。


しかし安堵したのも束の間、嬉しそうな彼女の瞳は徐々に影を帯びていく。

今や表情を失くして、あの泉よりももっと遠いどこかを見つめる。ぼうっと、意識を飛ばすように。


このことは屋敷の使用人から聞いていた。穏やかな彼女だが、時折どこか遠いところを見つめては哀しそうな顔をすると。丁度、今のように。


声をかければまた驚かせてしまうだろうから、気にかけつつもヴィゴールに持たせていた荷物を降ろしていく。


やがて気が付いた彼女は私に駆け寄り、その手に抱えていたバスケットを差し出した。

けれどまだ昼食の時間には少し早い。それを受け取る代わりに荷物のひとつであった日傘を渡す。



「えっ、と……?」


「まだ昼食には早いだろう。少し見てまわったらどうだ」



彼女の瞳に宿っていた影はもう消えていた。むしろより煌めいて見えるのは陽射しのせいか。



「ありがとうございます、閣下もご一緒にいかがです?」



日傘を受け取った彼女はふわり、と微笑んでそう言った。穏やかな声が鼓膜を小さく震わせる。

桃色の紅を薄く引いた唇がほんの少しだけ笑みの形をつくり、きつい印象を受けるつり目も優しげに細められ。


え、と思ったのは私だけでなく彼女も同じようだった。自分でも何を言ったのか分からない、というように目を丸くしている。



「いっ、いえ、何でもありません。ここまで連れてきていただいたのに出過ぎたことを言いました。閣下はどうぞ、こちらでお寛ぎなさって下さい。暫くしたら戻りますので」



しかしそれはあの日のように一瞬の話だった。

彼女はすぐさま竦みあがって、今回は早口にそう言ったか否かで脱兎のごとく逃げていった。


渡したはずの日傘が近くに転がっていたので拾い上げる。

彼女を追ってこれを渡すべきか、と考えたところで、また逃げられてしまったら、とも考える。


しかしそんな考えを吹き飛ばす光景が目に入った。



「馬鹿……ッ! 落ちればタダでは済まんことぐらい分からないのか!!」



条件反射で駆け出し、そう怒鳴りながら瞬時に彼女の両脇に手をまわして猫の子のように抱え上げた。彼女の小さな両足がぷらん、と宙に浮く。


あれだけ大きな声を出したのに反応がないので、おい、ともう一度声をかける。その声に彼女は肩を跳ねあげて驚いた。



「へっ、あっ、え? わたし、あれ……?」



混乱しているのか、しきりに銀の睫毛をしばたたかせながら己の身体を見下ろして、振り向いて私を見て、また見下ろして、もう一度私を見る。

私をじっと見つめる瞳は恐怖の色には染まっていない。ただ困惑していて、何があったのか自分でも理解していないようだ。



「もう少し遅れれば泉の底へ真っ逆さまだったぞ。――何があったんだ」


「あ、の。私……、わたし、よく、覚えていなくて。ごめんなさい。わたし、」



抱えたままなのもアレなので地面へと降ろそうとしたが、彼女の足は力が入らないようだった。

仕方ない、とまた抱き上げて木陰に用意していた敷物の上へと降ろす。


まだ混乱したまま力なくうなだれた彼女は、ごめんなさい、とまた謝った。



「少し、考えごとをしていて……。きっと、立ちくらみでもしたのでしょうね。お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」



――立ちくらみ、か。そんなことはないだろう。


彼女は泉に落ちかけたようには見えなかった。水面に手を伸ばし、自ら落ちていこうとしたように私の目には見えた。


気のある素振りを見せながらも、本心ではやはり身を投げるほどこの婚姻を嫌がっていたのか――あるいは。


これは厄介なことになったかも知れない、とひとつの疑惑が濃厚になってきて内心で唸る。

帰ったら真っ先に第1王子へ相談しなければ。



「あの……、助けてくださって、本当にありがとうございました」



落ち着いてきたのか、彼女は私の方に向き直って深く頭を下げた。

すっきりと編み込んで纏め上げられた銀髪を飾る真紅のリボンが目に入る。


気にするな、と顔をあげさせたが、彼女はまだ納得していないような曖昧な表情を浮かべている。


その後、本来の目的であった昼食を摂って、雲行きもいよいよ怪しくなってきたので帰路につく。

その間、彼女は何も喋らなかった。私も、喋らなかった。


ぼんやりと、心ここに在らずといった雰囲気で 侍女から持たされたサンドウィッチをちまちまと食べ進め、食べ終えれば座ったまま泉を眺める。

よく微笑んではお喋りをすると使用人たちからは聞いていたが、今ばかりはそんな姿の影もなかった。


ヴィゴールに乗る前、後ろ髪を引かれるようにもう一度泉を見たがそれだけだった。



「――閣下。また、誘ってくださいね」



ヴィゴールを連れて厩へ行こうとした時、屋敷の玄関前で彼女はそう笑った。力のない、微笑みだった。

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