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「この署名、ひとまず私の預かりにしたいところだね。してもいいと思う?」
などと第1王子は訊いてきた。私は知りませんよ、と返せば、つれないなあ、と彼はさらに返す。
先ほどの展開は彼にとっても予想外だったのか、珍しく格好を崩してため息をついていた。あからさまに疲れた顔で前髪をくしゃり、と搔き上げる姿なんて初めて見る。
「てっきり私は君に癇癪を起こして、顔を見るなり泣き出して、挙げ句の果てに気絶して……。そんなところだと思っていたのだけどね」
ひどい言われようだ。しかし普通にあり得る話なので否定はしない。現に自分もそうなると思っていたので、沈黙を貫いて声なく肯定する。
あの令嬢、リリアーヌ・ルゼルヴェインは聞いていた話とどうもズレている。これはいよいよ、何か裏があるとしか思えない。
今回の件が今までのツケだとしても、とんだ話を投げつけられたものだ。
過去の自分を恨みたいところだが、今とはなってはもう遅い。過去は過去でいろいろあったのだ。
そういったところで王城勤めの使用人がやってきた。
どうやら、例の彼女は今晩に予定されていた晩餐会を欠席するとのこと。長旅の疲れによって急に体調を崩したらしい。
それならば明日に彼女が屋敷にやってくることも延期にしてくれないか、と言いたい。
無論、そう言ったところで私の傍で笑う男に却下されるに違いないが。
「さっそくご令嬢はお疲れかな。慣れないことをして」
使用人を下がらせた後、第1王子は呆れたように皮肉を言った。
「まあ、いいや。余計な仕事がひとつ減った。君も堅苦しい場は嫌だろう? 令嬢も来ないことだし、特別に今回は免除してあげる」
一応貴族の端くれではあるが、正直マナーには自信がない。
物心ついた頃から得物を手に野を駆け回り、歳頃になった途端に軍へ入って、今までお綺麗なものとは真逆の場所にいたからだ。
今は記憶の奥底に眠った貴族のそれを掘り起こすように日々を送っている。
下手に王族の晩餐会などに参加したところで恥を掻くだけ。それどころか下手したら不敬罪で打ち首だ。
なので第1王子のその言葉は今の私にはとても有り難いものだった。
「今後彼女がどう出てくるか分からないけど、ひとまずは前に言った通りで。金はもちろん支給するよ。君自身ももう十分稼いでいるけどね」
書面のインクが乾いたことを確認した第1王子は、それを丸めながら矢継ぎ早に言葉を並べていった。
その合間で、部屋の片付けなど後のことは呼び出した使用人に言い付け、自分はさっさと扉へ向かっていく。
「ほら、君もぼさっとしていたらどんどん仕事が溜まっていくよ? また何かあったら遠慮なく言ってね」
爽やかな笑顔で、手を振って。第1王子は颯爽と消えていった。
彼は私を寡黙な奴だと言っていたが、そうではない。返す間も無く彼が言葉を吐き出すからこちらが口を出す隙間がないのだ。
きっと彼と同じくらい饒舌な者でない限り、彼の前では恐らく誰もが寡黙な奴なのだろう。
まあ、確かに自分は寡黙なのだが。口を開けば怖がらせてしまうからだ。逆にいえば、怖がらせるには自分が何か言えばいい。
――けれど、やはり他人に怯えた目で見られるのはあまりいい気はしない。まあ、戦場なら話は別だが。
翌日、彼女は昨日と似たような格好をして屋敷へやって来た。
ソファを勧め、先日第1王子から指示されたことを淡々と述べていく。
「――だがくれぐれも私に迷惑のかからない範囲と約束できるなら、だ」
今まで背けていた顔を、脅すように彼女へ向けて釘を刺す一言を放つ。
背中越しで緩んでいたはずの気配は振り向いたことで、きゅっ、と引き締まる。顔色を窺えば、昨日ほどではないとはいえやはり青くなっていた。
「や、やくそく、しみゃす」
噛んだ。彼女の顔は火がついたように朱色に染まっていく。
それも計算の内なのか、と疑念を抱きながらも他のことは先日雇った女中頭に丸投げして仕事へ向かう。
部屋を出る前に彼女は私に挨拶をしたが、それを返す気にはなれずにそのまま退出した。
どうせ、これで放っておけば本性を現して好き勝手に振る舞うつもりだろう。
そうして頃合いを見計らったところでファズマレールへ突き返して、その後どうなるか……。
なにせこの婚姻は腐っても親善の証である。お互いの出方によっては最悪の事態は免れない。
まあ、いい。難しい話は全て第1王子に任せれば。自分は彼の頭脳に従ってこの手を振るだけだ。自分の頭脳は大して必要ない。
――そう考えている内に1週間が経とうとしている。
おかしい。本当に、何もない。屋敷の侍従たちからも何も報告が上がらない。
不審に思ってそれとなく彼女の様子を訊いてみればつつがなく生活しているとのこと。
宝飾品を買い漁ることもなく、ドレスを新調したりすることもない。楽団なども呼ばないし、愛人も囲っている様子もない。
出かけるのは屋敷の庭に、王城内の開放地区、近くの王立公園のどれか。いずれも侍女をひとり付けるだけ。
あとは自室でひとり読書に耽るなり、刺繍をするなりとそれなりに満喫しているようだ。
しかし話し相手が自国から連れてきた侍女と屋敷の使用人くらいしかいないため、少し寂しそうにしているそうだ。
その報告をしたのは日中1番彼女の隣にいる、女中頭のシュゼットである。
寂しそうにしているなど、それこそ適当に男のひとりやふたりを見繕えばいいではないか!
彼女ほど若くて美人なら少し誑かせば男など簡単に釣れるだろうに!
と声を大にして言ってやりたいところだったが、それはそれで何か気に食わない。
自分が話してくれるのを待っている、などと自分より歳上のシュゼットから言い含められたからだろうか。何故か彼女には逆らえないのだ。
予定とかけ離れた現実に困惑しながらも、まずは第1王子に相談だ、と何度目かわからないため息を吐いた。




