プロローグ
水面に抱かれたような浮遊感。波が引いては返すような心地よい感覚は、揺りかごで安らかに眠るかのよう。ゆらゆらと揺蕩って、意識が遠のいていく。幸せな眠りがやってくる。
沈みゆく心を引き止めるように、遠くで声が聞こえた。聞き覚えがあるような、ないような声だった。
「――なぜ黙り込む。いいや、ここから逃れるための策略でも巡らせていたのか?」
よく通る若い男の声によって、私の意識は唐突に引き上げられた。ざぱり、と水中から物をいきなり取り上げたかのように。無理やり覚醒させられた思考は現状をうまく飲み込めない。
おい、と頭上からもう一度声をかけられた。先程と同じ声だった。出所を見上げた。瞬間、目を疑った。
遠目でもわかる。目を見張るような精巧な顔付きの男だった。20歳前後だろうか。しかしそんなことは今はどうでもいい。問題は持つ色だ。
黄金の髪、瑠璃の瞳。都心ですれ違う観光客でちらりと見たような色だった。身に纏うのはまるでおとぎ話の国の王子様のような、外の国の時代映画のような貴族服。
いいえ、違うわ。何の話かしら。こんな格好、私たちには普通じゃないの。このお方は我が国、ファズマレール王国の王子であらせらる方ではないの。私の愛する、オズワルド第3王子よ。いやだ、私は何を考えていたのかしら。
「まあ良い。だがそろそろ本人の口から聞こうではないか。お前は王妃候補の令嬢たちに、特にこのレティシア・アルバーン男爵令嬢に数々の嫌がらせを仕掛けたのだろう?」
問うているようで確信めいた声は空気を凍らせるほどに冷たいものだった。端整な顔立ちだからこそ表情を消した真顔は恐ろしい。
ああ、これ、知ってる。断罪イベントってやつだ。つまり私はその嫌がらせとやらが嘘か真かは分からずとも、本来あるべき恋の当て馬の――悪役令嬢と呼ばれるものか。
「答えはひとつしか受け付けないぞ。リリアーヌ・ルゼルヴェイン公爵令嬢」
違う! 違うわ、オズワルド様! 私はただ、あなた様の傍にいたかっただけなのです! 私だけを愛してほしかっただけなのです!
決して、決して、彼女らに悪意があったのではありません! どうか、どうか、私の話を聞いてくださいませ……!
冷静な感情と、苛烈な感情とがせめぎ合う。
私は誰なのだろうか。いいえ、私はリリアーヌ。ルゼルヴェインの名を持つ、公爵令嬢。いいや、違う。そんなもの、知らない。
項垂れた視線に映る自分の手。真白の手袋に覆われて、大きな宝石が散りばめられた細い指。
結い上げられていた髪は少しもつれてしまったようで、俯いた視界の隅から顔をのぞかせる色は白金。
緩やかなウェーブは天然のものか、それとも仕上げられたものか。頭が重いのは察するに華美な装いで飾られているからだろう。
それを目にした途端、冷静だったはずの心が悲鳴を上げた。
ここはどこ、私は誰? 私はどうして、ここにいるの? なぜ、なぜ、なぜ。何故。
滲む涙を誤魔化すように視線を上げた。未だに唇を一文字に締めた男が私を一直線に睨んでいた。ひたすらに悪意を向けられていることが心に刺さり、さらに涙が溢れた気がした。
男の姿がより一層ぼやけていく。そんな色も形もブレた姿が、ほんの一瞬だけある男を思い出させた。
「――ほんとうに、すきだったの」
それが恋とか愛とかなのかは今となっては分からない。分からないけれど、きっとそれは彼女を支配していたそれと同じだったのだろう。
けれど後悔してももう遅い。その話はもう終わってしまったことだから。
なぜ私がここにいるのか。なんとなく分かった気がした。
意識が混濁とする。融け出した何かが別の何かと混ざり合う。ゆったりと、あたたかい手で優しく撫でられるように。
「ほんとうに、ごめんなさい――」
私はあなたを否定しないよ。成したことは間違いだったとしても、その気持ちは。根っこにあったその純粋な想いは。だから今は――。
「――処遇は如何致しましょうか、王子」
「何を今更。もう決まっているではないか」
王子はニタリ、と微笑んだ。
その眼下で倒れ込むように眠る美しい銀髪の少女の頬から一筋の涙が伝っていった。