真黒な雨雲に押し潰されて窒息しそうだ
小説は、時間を忘れさせてくれる。辛い時間も、悲しい時間も、まるで最初から無かったかのように、自分を騙してくれる。
それは、とても優しくて、愛おしい、虚構。しかし、嘘でも救われる者がいるのなら、小説はただの娯楽に留まらない。いわば、生きる糧である。
小説は心の飯だ、と誰かが言った。
言い得て妙だと、真中一平は思う。
心躍るファンタジー、手に汗握るミステリー、――ジャンルは問わない。何でもいいから、ぐいぐいと読者をひっぱるリーダビリティをもった小説が、一平は好きだ。彼の、読書に関する食指は、ホラーからコメディ、SF、エッセイ、文学と、多岐に渡った動きをみせる。ジャンルという区分けがいかに無粋で無意味かということに、彼は早くも気付いていた。
一平は、松戸市のK中学校に通う、中学三年生。勉強は、不得意ではないが、好きでもない。きっと、親や教師に強制されなければ、自主的にはやらない、そんな具合である。だからと言って、体を動かすことが、好きなわけでもない。むしろ、嫌いだと言い切れる。理由は明快。体を動かせば、疲れる上に、周囲より身体能力の低いことが、浮き彫りになってしまう。彼は、世間一般で言うところの、肥満児なのだった。
そんな、思春期には嘲笑の的となる体型と、引っ込み思案な性格が災いして、彼には友達がいない。それどころか、一部の心無い生徒からは、いじめを受けていた。
直接、殴る蹴るの暴力こそ無いものの、身体的揶揄、誹謗中傷は当たり前。酷い時には、彼の学校鞄に、刃物で、悪態や、幼稚な落書きを刻まれた。正直なところ、それの何が面白いのか、一平にはまったく分からなかった。しかし、嫌がらせは一向に収まらず、今日まで続いている。そのエネルギーを、原子力発電に利用すれば、いったいどれだけの電力を発電できるのだろうと、彼は考えずにいられない。
そんな一平が、唯一、心の拠り所としているのが、小説なのだった。
クラスメイトと話さず、だからと言って勉強に集中するわけでもなく、ただ茫漠とした空白時間をやり過ごすのに、小説は最適だ。彼は、いつでも読書ができるように、常に一冊は文庫本を持ち歩いている。最近では、一冊も鞄に入っていないと、不安に襲われる。読書中毒、小説依存、とでも言うべき体質になってしまった。
現実逃避という邪な願望のために、小説に頼るようでは、心血を注いで執筆した作者に申し訳ないと思う一方、こうでもしないと心がパンクしてしまうのだと、開き直っている自分もいる。読書量は多い方だが、こんな自分に、読書愛好家を名乗る資格があるのだろうか……。悩みどころである。もっとも、特別、読書愛好家を名乗りたいわけでもないのだが。
強いて、自分のアイデンティティを挙げるとすれば、読書愛好家になるのだろうな、という程度である。それは、裏を返せば、個性らしい個性が何もないことを、認めることになるのだが、事実、そうなのだから、仕方ない。
〇
四月十七日。その日も、一平は学校の図書室で独り、昼休みに読書をしていた。
高校受験を控えた年でも、まだ春先のためか、勉強に励んでいる生徒の姿はない。そもそも、普段から利用者の少ない図書室に、彼以外の人影はなかった。本来、受付に居なければならないはずの図書委員も、今は役割を放ったらかしにして、行方を眩ませている。朝から降り続けている雨の建物を打つ音だけが、薄暗い、だだっ広い空間に、微かに浸透していた。
その静寂を、男子生徒達の無遠慮な声と足音が、犯す。南校舎側のドアが開かれて、六人程の男子が姿を現した。
彼等の内の一人――一際大柄な男子は、バレーボールを、バイクヘルメットのように脇に抱えている。クラスメイトの、首藤だ。
大勢の手下を引き連れる彼は、典型的なガキ大将である。
「よっしゃ、良い感じの場所ハッケーン」
ガキ大将は、「雨で外遊びができなくて退屈」というようなことを手下に愚痴ると、バレーボールをアンダーパスした。
その球を、図書室の方々に散った男子達が、ギャアギャア喚き立てながら、打ち返す。それは加速度的な盛り上がりをみせ、室内に漂っていた静謐な空気は、ものの数秒で破壊し尽くされた。
あまりの傍若無人振りに、一平は身が竦む想いで、席を立つ。しかし、首藤は目敏く彼に視線を向けると、「あれ、真中じゃん。何してんの?」と、わざとらしい笑みを浮かべた。
「別に、読書……」一平は、恐る恐る応えた。口の中が渇いて、喉の内側がぴったりとくっついてしまったかのように、声が掠れた。
「ふうん」首藤が、鼻を鳴らす。「相変わらず、地味だな」
その言葉が、胸に刺さった。何度も何度も、繰り返し言われているワードだが、一向に慣れそうにない。「地味」と言われると、何故か、彼はいつも、自分を全否定された気分になった。自分という存在を、一気に、台無しにされた感じがした。
鼻の奥に、熱いものが込み上げる。
「おいおい、地味とか言うなよ。可哀想だろ」半笑いの男子が言う。「ほら、見ろ、真中泣いてんじゃん」
「え、マジ、泣いてんの? なあ、ちょっとこっち向いて。顔見せて」首藤が、素早く一平の前に回り込む。「うわ、マジじゃん! 超泣いてんじゃん! キモ!」
「お前が地味とか言うからだろ」
「だって、本当のことじゃん。昼休みに、こんなじめっとしたところで、ボッチで本読んでるとかさ。マジ根暗すぎでしょ」
「おいおい、本人目の前にして……」
「別にいいじゃん」一平の肩を叩く。「な? だって、本当のことだもんな?」
一平は、目の前の男子生徒を突き飛ばしてやりたかったが、両手の拳は、ポケットの横で硬く握られたまま、ぴくりとも動かなかった。ただ、悔し涙だけが、とめどなく流れていた。
自分の体なのに、コントロールがまるで利かない。それが酷く、もどかしい。
「おい、無視すんなよ、ブタ。何とか言えよ」
首藤が詰め寄る。
言い返したいが、貼りついた喉が開かない。声が、出ない。
「へっ、ガチビビリじゃねえかよ。雑魚だな」
幸いにも、この時は、この程度で済んだ。
しかし、残念ながら、いじめっ子は首藤だけではない。
〇
午後の授業が始まった時、雨天のためか、どんよりと暑いクラス内で、一平は大粒の汗を掻いていた。
黒板を睨みつけてはいるが、それは滾る学習意欲のためではない。迫りくる睡魔を、何とか振り払おうとする足掻きが、目つきを鋭くさせているに過ぎなかった。
うつらうつらと揺れる背中を、細い棒状の物で突っつかれて、一平は覚醒する。
誰かと思えば、後ろの席に座る、岡崎の仕業だった。
「てめえ、汗掻きすぎだろ。目障りなんだよ」周りに聞こえない、ぎりぎりの声量で、彼は言った。「汗、すぐ、止めろ」
理不尽だ。
彼自身も、一平程では無いにしろ、小太りで、玉の汗を掻いているところが、なお理不尽である。
いや、だからこそ、突っかかってくるのかもしれない。自分より太っている人物を攻撃することで、自分が攻撃されることを、避けているのかもしれない。そうだとすれば、自己保身の塊だ。言いなりになる必要は無い。
「おい、聞こえてんだろ。目障りなんだよ、臭ぇんだよ」
だが、一平は、やはり何も言い返せない。胸の内には負の念が堆積し、理不尽に対する抗議の言葉は、幾通りも思いつくのだが、喉はぴったりと閉じられたまま、肝心の発声が伴わない。
「あーあ、真中の後ろとか、ホント最悪―」
一平と岡崎、それぞれの左隣に座る女子二人に、彼の悪口は完全に聞こえているのだろうが、興味なしと言った感じで、顔は黒板に向いている。
興味が無い理由は、一平の机と、隣の女子の机とが、少しだけ離れていることからも察せられる。どんな事情があるにせよ、思春期の女子にとって、肥満体型で多汗症の異性は、原則敵なのだ。
女子が喜ぶことを言えれば、少なくとも嫌われることは無いが、当然、一平はあがり症の、口下手。
周りに人は居ても、擁護の手を差し伸べる者は居ない。
「汗ダラダラの背中見てると、俺まで暑くなんだよ。汗掻くな。OK? 汗掻くな」
余程、授業が暇らしく、岡崎の攻撃は、終業のチャイムが鳴るまで続いた。
また、いじめっ子という存在と同等か、それ以上に苦しめられる事象、――理解者の不在に、一平は悩まされていた。
〇
帰り道、重い雨が降り、路面で弾けた水滴が霧のように煙る街中を、彼は独り傘を差しながら、歩いていた。街は、雨粒の破裂音が隅々まで響き渡る程の、深い沈黙に包まれている。まるで、眠っているか、死んでいるかのようだった。たとえ眠っていたとしても、それはきっと、絶対的な死よりも深い、眠りだ。
そこへ、パシャパシャと人工的な、それでいて場違いな足音を立てる集団が現れると、あっという間に一平を囲い込んだ。
その顔触れには、見覚えがあった。今日も先程、悪口を言われたばかりだ。
「あれ、やっぱ真中じゃん。何? 一人で帰ってんの?」首藤が、腰を屈めて、顔の下から覗き込む。「そっかあ。一緒に帰ってくれる奴も、いねえんだもんな? 友達が、一人もいねえんだもんな?」
放っておいてくれ、と一平は思ったが、彼はどうやら、「地味」な奴と、「一人」で居る奴に、構わずにいられないらしい。弱った動物に複数で集る、肉食獣のようだ。そう思うと、顔も段々、凶悪な犬に見えてくる。
やっと帰宅できた時には、体も服も、雨水と泥で汚れ切っていた。無論、肉食獣の群れに、寄って集って襲われたのだった。彼は、またもや反抗できなかった不甲斐なさに、打ち拉がれた。
全身ずぶ濡れのせいで、玄関マットに上がれず、靴を履いたまま棒立ちになる。
そこへ、母が駆けつけた。「まあ、どうしたの? そんなに濡れちゃって。傘、忘れちゃったの?」
「ううん」いじめられていることは、伏せる。事情を知ったら、きっと両親が悲しむだろうから。「傘は持ってたけど、転んじゃったんだ」
「あら、そうなの? まったく、ドジなんだから!」母は、バスタオルを取ってくると、叱りながらも苦笑いで、一平の体を拭く。「どうせ、首藤君達とふざけてて、うっかり水溜りに落ちちゃったんでしょう? 仲良しなのは良いけど、あんまり、お母さんの仕事を増やさないでね」
「うん、分かってるよ」
「いい子ね」そう言って、にっこりと笑う。
母は、一平と首藤の仲が、良好だと信じている。小学生の時から、二人は同級生だったのだが、その頃はまだ、今のような関係性では無かった。むしろ、他の友人を交えて、一緒に遊ぶ仲だった。しかし、中学校に進学して、思春期を迎えた一平は、人見知りで臆病に成り、対する首藤は、自信家で暴力的に成った。そのことを、母は知らないのだった。
また、憎らしいことに、首藤は、大人の前では凶悪な犬の顔を隠すという、狡猾さを秘めている。この、一平から見ればわざとらしいだけの体裁を、意外と大人は見抜けない。中学生ごときが、自分達を騙すスキルは持たないと、高を括っているのかもしれなかった。
だが、それは大いなる過信だと、彼は思う。大人が想定する程、中学生は純粋では無いのだ。
一平が沈黙していると、怪訝そうな顔をした母が、「どうしたの?」と首を傾げた。
「べつに」彼は、努めて何気ないふうを装って、応える。「ちょっと、考え事してただけ」
「あらそう? 将来は、科学者か、詩人かしら」
母が笑うと、少しだけ安心するが、それ以上に、虚無感が募った。
〇
自室に行くと、一平は通学鞄を床へ投げ出して、ベッドの上にうつ伏せになった。「自分を変えねば」と、一念発起して入部した剣道部には練習の厳しさに心が折れたのと、部員達との不調和から、最近はまったく顔を出せておらず、時刻はまだ午後四時半を廻ったくらいだった。
雨は、一定のリズムで部屋の窓硝子を叩き、時折、癇癪でも起こしたかのようにビュウビュウと吹き荒れている。
一平は考える。十四時間後には、嫌でもまた通学しなければならない。あの乱暴者の首藤と、卑怯者の岡崎と、無関心な女子達と、不調和な部員達の居る学校に、向かわなくてはいけない。ああ……。想像しただけで、頭が割れそうだ。
どうして自分ばかりこんな目に遭わなくてはいけないのか?
いや、何も自分以外の人間まで不幸になれと、望んでいるわけではない。
ただ、何故善人では無い代わりに、極悪人でも無い自分が、こんな目に遭わなくてはならないのか?
何故他の奴らは、大きな不幸一つ無く、自由な学校生活を過ごせているのか?
そこの差はいったい何なのか?
彼らには備わっていて、自分には欠けているモノとは何なのか?
そもそも、そんなモノが、存在するのか?
存在しないとすれば……、いや、存在するとしても……。
不平等である。不条理である。
納得できるはずが無い。
いや――。それも、これも、考えるだけ無駄か。
この手の思考から、有意義な解決策を見出せた試しが無い。悩みつつも、彼は心のどこかで、不条理から脱することを諦め、現状を受け入れようとしている自分を、ぼんやりと見つけていた。
今自分が置かれている環境を変えるためには、莫大なエネルギーを消費する。そして、そんなエネルギーが有れば、そもそもこんな状況には陥っていない、という矛盾に突き当たる。
結局、思考は、如何に現状を打破するかでは無く、如何に災難の被害を最小限でやり過ごすかに費やされた。
「隅っこで生きるしかない。……どうせ僕は、このどうしようもない世界の、更にどうしようもない、余りなんだ」
ゴロゴロゴロ……と、遠くの方から、徐々に雷の轟きが近づいてくるのを感じる。
一平は、湧き起こる睡魔に身を委ねた。