原 罪 編
*
彼女と出会ったのは中学に入学して二ヶ月ほど経った日のことだった。「こんな田舎町に大阪から転校生が来る」という話題で持ち切りだった朝礼前の教室。しかし、担任が転校生を招き入れた次の瞬間、教室は沈黙に包まれた。さらには生徒の過半数が俺を振り向いた。
朝礼が終わると、教室中の誰もが彼女に群がった。転校生という属性だけでも珍しいのだが、それ以前に、彼女は数多くの属性を手に余るほど持ち合わせていた。クラスメイトがなぜ転校してきたのかだの大阪弁を教えてくれだの質問攻めにする中、俺はその中に割って入った。 どうしても気になるものがあったのだ。
『その制服、どこで買ったの?』
教室が北極のごとく凍り付いた。おそらくは、いや間違いなく全員が疑問に思っていたことだったが、まさか本当に聞く無礼者がいるとは思わなかったのだろう。
リーダー格の女子に頭をしばかれる中、転校生はおばあちゃんに縫ってもらったのだと答えた。なるほどと教室中の全員が納得する中、彼女が続けて投げた質問に落雷のごとく衝撃が走る。
『その髪、結ばへんの?』
「それに触れるのか」というショックが半分、そして「その手があったか」という驚愕がもう半分。
1
俺はパイプ椅子ごと転がり落ちた。床を這って後ずさり、ついには背中が扉に当たる。金具の鈍い音が鳴り響く。
背中を冷たい汗が流れ落ちる。顔が青ざめ、呼吸が浅くなる。
机に腰かけた彼女を見上げたまま、身体が硬直した。
紺色のセーラー服。膝下まで届くスカート、首元に巻かれた赤いスカーフ。垂れ気味の目元を隠す丸眼鏡と、緩んだ口元。
風に揺れる三つ編みのおさげ。
そして、四つに分かれた袖と、四本の腕。
間違いない。彼女は――
「もぉさっちん、そないに怖がることないやろ~? うちが可哀想だわぁ」
――嘆川 誄。
死んだはずの誄が、かつての幼馴染が、そこには居た。
「そんな幽霊でも見たような顔して。乙女に向けてええ顔じゃないよ~?」
「だ、だって、るーちゃん――」
「むふふふふ、“るーちゃん”って。ん、ふふふ……」
誄が不意に笑い出す。
「なにが、おかしいんだよ」
「だってなぁ、んー、照れ臭いやん。“るーちゃん”って……ふふ、女の子みたい」
「お前は、その、女の子だろ……」
誄は――本当に、女の子のままだった。
一九九八年、平成十年の高校生姿のまま、誄は笑っている。隠そうとしても隠しきれていないその笑い方は、まさに誄そのものだった。
あの事件から既に、三十年以上は経過しているというのに。
「ガキって恐ろしいなぁ。こーんな恥ずかしい呼び方、大人になったらアカンわぁ。そう思うやろ、さっちん?」
「……“さっちん”も、微妙だとは思うがな」
「えぇ、かわいらしいや~ん。“さっちん”。あーでも、かわいいからアカンのかぁ」
るーちゃん。
誄の中学からのあだ名は、高校に入ってからも変わることはなかった。一方で、俺を“さっちん”と呼ぶのはただ一人、誄だけだった。
「なーんで広まらんかったのかなぁ? 頑張って定着させようとしたのに~」
「定着させようとしてたのか……っていうか、なんでお前は冬服なんだ? 俺は夏服なのに……なんだこのチグハグ感は」
「そりゃあ、うちが冬に死んだからやない?」
「死んだ――から」
そうだ。誄は冬の日に――少年院で首を吊ったはず。
死んだはずの誄が、どうして目の前にいるんだ?
辺りを見渡す。ニスが剥がれた木目の床、水色の木製窓フレーム……白い壁。間違いなく。ここはかつて俺が高校生活を送った校舎だ。さらにこの教室は――この部室は。
「懐かしいでしょ――世界評論部」
『世界評論部』――なんとも立派な名前だが、実際は異端児の溜まり場であった。
「異端児とはえげつないなぁ。各教科の成績トップ5が揃った超エリート集団やんかぁ」
「ん、まぁ、確かに異端児は言い過ぎたな」
通称――『トップ・ファイブ』。
部長かつ生徒会長、国語の城楼棚 如雨露。
生まれながらの立体起動装置、保健体育の碇 伝馬。
母性の擬人化、家庭科の嘆川 誄。
頼れる門番、社会科の彼尾花。
何でも作ってみせる、美術の爪弾快刀。
こうして見ると、エリート集団に見えなくもない……か。
「言質を人質に先生すら手駒にする、ボスの城楼棚如雨露。暴れ出したら一環の終わり、狂犬の碇伝馬。セクハラの阿修羅、嘆川誄。アンタに頼るときは死ぬとき、スケ番長の彼尾花。盗聴器は作れても彼女だけは作れへん、孤島の爪弾快刀」
「やっぱり異端児の集まりじゃあねーか! っていうかお前そんな風に思っていたのか⁉」
「通称……『トップ・ファイブ』」
「なんか意味変わってるよなぁ⁉」
「ほーれ、うねうね~。われがセクハラの阿修羅だぁ~」
「うわぁ! やめろぉ! その腕を仕舞えぇ!」
自分でセクハラの阿修羅を名乗るな。
気に入ってんじゃねぇ。隠せ隠せ、そんな黒歴史。
「ゼハァ、ゼハァ……それで、結局ここは何なんだ」
「せやから、世界評論部だってば~」
「俺が聞いているのは、そういうことじゃあねぇ――」
なんで俺はかつての部室にいるんだ。
なんで死んだはずのお前が生きているんだ。
死神は――どこに行ったんだ。
この空間の何もかもがメチャクチャだ。扉はコンクリートのように硬く動かないし、窓の外は夕焼けのように真っ赤だ。棚に並ぶファイルの表紙は文字が潰れていて読めないし、それに――
『チャカチャカチャカチャカ……』
――妙な機械音が四方から聞こえる。
一度気付いてしまうと、もう頭から離れない。むしろ音は段々と大きくなっているように感じる……。
「なあ、頼むよ。るーちゃん……頭がどうにかなっちまいそうなんだ」
「それは困るなぁ、さっちんは我が部の『頭脳』やもん」
そう言うと、誄は机から降りてきた。スタスタと俺の前まで歩み寄り、しゃがみこんでは顔を目と鼻の先まで近づける。
覗き込まれる。視線を絡み取るように、眼底の奥深くまで。彼女の目は白く混濁していた。
心臓が――はち切れそうだ。
誄が口を開く。甘くささやくように。
「ここはなぁ――走馬灯だよ」
2
走馬灯――影の写し絵。
二重の筒になっており、中央にはロウソクが燈されている。ロウソクの熱によって風車が回り、フィルムを回して影絵を写し出す。
人は死ぬ間際、過去の記憶が次々と溢れ出て――まるで、走馬灯のようだという。
「ここが……その走馬灯の中だって?」
「うん、そうだよぉ。ここはぜーんぶ、さっちんの記憶の中。色あせてビリビリに破れたフィルムのつなぎ合わせ」
「ビリビリに――それじゃあ、つまり、目の前にいるお前も、俺の記憶でしかないってことなのか……?」
「つまりはそういうことやなぁ~」
誄は俺から離れると、その場で足を軸に回り出した。遠心力でスカートが膨らむ。走馬灯のつもりか。
「うちはただの記憶。在りし日の幻影。よみがえった悪夢。イマジナリーフレンド。本物の“嘆川 誄”はとっくのとうに転生して、新たな人生を謳歌しとるんやないかなぁ。いわばさっちんは、自分の無意識と対談しとるような状態。いつもの『独り言』ってわけ」
誄は――“偽りの誄”は、回るのをやめると、二組のうち一組の手を後ろに回し、もう一組の手は前に組んだ。
「むふふ……ガッカリした?」
その姿は、手を持て余したときによく見せるポーズだった。
彼女はよく、こうして片組の腕を後ろに隠していた。四本のうちの二本、である。
「別に、ガッタリってことは、ねーよ」
「むふ、そうやろうなぁ。むしろホッとしとるもん」
「ホッとしているだなんて、そんな……」
「うちに嘘はアカンよ。言うたやろ、うちはさっちんの無意識だって。うちが言うすべては、さっちんの自覚無き本心なんだよぉ」
俺の無意識。自覚無き本心。
それが走馬灯、生前の写し絵……。どうして俺が、走馬灯の中に?
「まあ、これも『無間地獄』の一種やなぁ」
「『無限地獄』……? それは、あれか。俺の暴走を止めるための……」
Reset, Random, Reuse.
記憶を消して、無作為に、転生。
本来、死を迎えた者は3Rに従って適切に処分されなければならない。
しかし俺の場合、記憶を消しても罪悪感で復元され、罪悪感を切っても記憶からよみがえるというスパイラルに陥っていた。
記憶を消されないまま俺はついに暴走し、猫の身体に封印することでようやく治まったのである。しかし、再び死ねば再度暴走するだろう。
そこで編み出された作戦が『無限地獄』だ。死ねば直ちに転生させ、また死ねば転生させ……それを永遠と繰り返す。記憶が消されることもないまま、無限に死と生を与える。まず発狂することは想像に難くない。
「でもなぁ、さっちん、駄々をこねたやろ~? 死にたくない~って」
「うん、まぁ……そうなるけれども」
もっと他に言い方があるじゃん?
駄々をこねたって、そんな子供みたいな……。こう見えて三十歳は超えているんだぞ。
「毎回駄々をこねられたら、流石に面倒だなぁって思われたんだよ。せやから転生そのものをカットすることにしたんやねぇ」
「は……? ま、まてまて。転生そのものを、何だって? カットした?」
カットしたって――スキップしたってことか⁉
3Rのうち、Resetは執行不可になった。それでも残ったRandom, Reuseだけは実行するはずじゃ……。無作為に転生させるはずじゃ。
それなのに、カットしただと……?
「だって、そもそも生まれなければ死ぬこともないわけやろ~? 殺すのが面倒になったから、転生そのものを無期限延期にしたんやね~」
「じゃあなんだ? 俺は、走馬灯に永遠に閉じ込められるってことか⁉」
転生することなく、永遠に死んだまま?
いや、いやいやいや……そもそも3Rの執行が死神の仕事なんだろ? そんな職務放棄みたいな真似をしていいのか?
「判例法主義ってヤツやねぇ。あるいは前例主義。だって、そもそもResetが失敗に終わったわけやろ~? いくら失敗とはいえ、“諦めて転生させます”って判断を下したのは死神なんだから。そんな不正が曲がり通っている時点で、“転生も諦めます。ずっと死んでいてください”という主張だって認められてしかるべきやなぁい?」
ぐうの音も出なかった。
というより、既に判決は下されているのだ。現にこうして閉じ込められている以上、どんな反論も意味を成さない。
「クソッ、早く狗尾を助けないといけないのに……」
「まあまあ、そんなカリカリピリピリしないでよぉ。そのうち脱出の糸口は掴めるはずやからさぁ」
だって永遠だし。
彼女は無責任にそう言うと、辺り一周を見渡した。
誄が周りを見るときは大抵、腰を落ち着かせる場所を考えているときだ。腕が多い分、脚が疲れるらしい。とはいえ、この部室では候補地が限られている。
「この机ほんまにジャマやなぁ。どうやってこの部屋に入れたんや」
「当時の俺ってそう思っていたのか……?」
「よっこらしょっと」
誄は、この窮屈な部室を窮屈たらしめている広大な机によじ登ると、丸眼鏡を外してゴロンと横になった。飼い猫のように。
そして手招きをする……招き猫のように。
「…………今度は、何もしないよな」
「むふ、ふふふ……いいから、おいでおいで」
誄に誘われるがまま机に登る。そして仰向けになって彼女の隣に並んだ。
そのときになって初めて、自分が髪を結んでいることに気が付いた。後頭部でずっしりとした髪の束をまとめ上げているヘアゴムに軽く触れ、仕方なく頭を横に倒す。
「グ、ホォ、オオオォ……背中が伸びる」
思わず声を漏らし、ハッとして目を開いた。
案の定、誄はとろんとした瞳でニヤニヤと笑みを浮かべている。
「……なーに笑ってんだ」
「んふふ、いやぁ、別に? おっさんみたいなこと言ってんなぁ思うて」
「人の身体は久々なんだよ……これが脊髄の痛みか」
「猫も脊髄動物やでぇ、さっちん~」
「猫の身体って、すげー快適だったんだな……」
「風呂に溺れるとか、散々いちゃもんをつけとったやろ。調子のいいやつやなぁ」
「るーちゃん、そんな辛辣な子だっけ……?」
「うちはさっちんの無意識の擬人化やからなぁ。さっちんの自己嫌悪まで反映されてしまうんだわ。けっこー抑えているつもりなんやけど……」
「えッ、もしかしてるーちゃん、俺のこと嫌い?」
「乙女かアンタ……おっといけない。せやから、さっちんがさっちんのことを嫌っているんやってば」
「んじゃあ、しょうがねーか」
「いやいやいや、よくないよくない。“んじゃあ”じゃあないし、“しょうがねーか”でもない!」
誄はガバッと上半身を起こすと、四本の腕をぶんぶん振り回して暴れ出した!
わあ、あぶねぇ!
「うぅわあ! さっちんの、さっちんの自己嫌悪がなだれ込んでくるぅ!」
「えぇ……そんなに?」
「きらい、嫌い嫌い嫌い、大嫌い! さっちんの顔なんか見たくもない!」
「おいやめろ! 傷付くの俺じゃあねーか!」
そんなにか!
そんなに俺のことが嫌いかァ!
「う、うう、グググううぅ……」
誄は背中を丸め、四本の腕で頭を抱えたまま唸りだした。歯を食いしばっている。
る、るーちゃん……大丈夫?
思わず手を伸ばすが、触れる寸前になって思いとどまり、手を引っ込めて尋ねた。
少女が顔を上げて言う。
「殺してやる……みんな殺してやる……」
「自己嫌悪のベクトルが世界に切り替わった⁉」
自己嫌悪の末に人類を滅ぼそうと決意したヴィランがそこにはいた。
「アカン……このままだと、首を吊って死にかねない!」
「そのブラックジョークは笑えないぞ、るーちゃん」
「そもそもの話、さっちんはどうしぃ、そないに自分が嫌いなん?」
……明らかに誘導されている。
「何を言っているんだ、俺は俺のことをこの世でいっちばん愛しているんだぜ」
「大丈夫よさっちん、この世のみんながさっちんのことを嫌っても、うちだけは隣に居てあげるわぁ。せやからお願い、どこにも行かんとって」
「誰にも愛されなかったせいで自分で自分を愛するしかなかったナルシストを慰めているように見せておきながら、本当は自分が依存しているメンヘラ的な⁉」
「誰にも渡さへんわ」
「メンヘラかと思いきや実はヤンデレ的な⁉」
怖い怖い怖い。
独占欲ゆえの優しさなんよ。お互いに依存し合いながら身を亡ぼすしかないんよ。もはや見捨てているんよ。
そこは「うちに嘘はアカン言うたやろ~?」って呆れながらも見捨てないでほしかった。
「さっちん」
誄はニヤニヤした表情から打って変わって、神妙な面持ちになった。急にそんな顔をされると、どこを見ていいのか分からなくなる。
お前は、いったい、どういうつもりなんだ。
「大好きだよ」
「お前は一体全体どういうつもりなんだ⁉」
この女は俺を狂わせるつもりか? 嫌いだと言ったり好きだと言ったり、好感度が反復横跳びをしている。
生前の誄は確かにセクハラの阿修羅ではあったが、それはあくまでも同性の女子に対するものだった。何人もの乙女が誄の甘くささやく大阪弁に振り回され、ついには学級裁判が定期的に行われるほどだった(裁判の結果、誄は『みんなの彼女』ということになった)。
俺に伝馬とのいちゃつきを見せつけることはあっても、俺自身にダイレクトアタックすることはなかったはずだ。
「それはなんだ、俺の妄想がそう言わせているのか?」
「ん、んー? そうかな? そうだよ?」
「なんでお前が曖昧な返事をするんだ……」
「い、いやぁ、でもな、夕焼けに照らされた部室で幼馴染に好きだと長年秘めていた思いを打ち明ける展開もなかなか良いんじゃないかなぁ? かなぁ⁉」
「なんでお前が恥ずかしくなっているんだ……!」
誄は夕焼けのごとく耳まで真っ赤になった顔を四本の手で覆い隠し、ジタバタと悶絶している。
………………。
「誄……お前、本当にかわいいよな」
「やめろォ! とどめを! 刺すなぁ!」
「実は俺、ずっと前から思っていたんだ。誄は本当にかわいいって」
「骨すら残さないつもりかァ⁉」
普段はあだ名で呼んでおきながら、口説くときは名前で呼ぶ。誄から教わった“落とすテクニック”である。
誄は四本の腕のうち二本で俺の両肩を掴み、もう二本で俺の頭部を鷲掴みにして抗議した。腕が他人の二倍あるから、描写も二倍長くなる。
はぁ……誄に揺さぶられながら、自然とため息が出た。
「んー? どうしたんさっちん、ため息なんかついちゃって。文字数が多くなりすぎないか心配?」
「いや、そうじゃあねーよ。俺がする心配でもねぇだろ」
「じゃあ、疲れちゃった?」
疲れ――なのかもしれない。
夕焼けに沈む天井を眺めながら思う。あの頃は、本当に楽しかった。
部室で予定もなく集まっては、誰かのしょうもない話題からバカ騒ぎに発展して。学校で事件が起きれば駆けつけて探りまわり。ちょっとしたすれ違いで鬼ごっこに展開して。その度に城楼棚部長に叱られて。その度に誄や快刀がフォローしてくれて……。
「この机だって、いったい何度壊したことか」
「どんなバカ騒ぎやねん。だからこんなに継ぎ接ぎだらけなんか、この机」
「その度に快刀がフォローしてくれて……」
「フォローって“修復”のことかい。美術の才能をもっと有効活用せい」
「元の部分……あ、このネジか」
「テセウスの船やん。もはや“再現”なんよ」
「だって学校の備品だし。壊したのバレたら気まずいだろ」
「空気が重くなる程度で済んだらええなぁ」
「ケハハ、こーんなどうでもいい会話だって、今じゃあもう走馬灯の中でしかできねぇのか!」
自分で言ったくせに、気持ちが落ちる。
胸にぽっかりと穴が開いた感じだ。にも関わらず心臓が締め付けられる感覚もある。矛盾する胸部をさすりながら、俺は笑った。
「なぁ、るーちゃん。俺は本当に、このままずーっと死んだままなのか?」
「うん、そのとおりだよ~」
誄は自分の身体を側まで動かすと、俺の右腕に四本の腕をからませてきた。
身体が密着する。布ごしにやわらかな体温を感じる。
俺の右肩に、彼女は頭をうずめる。
「さっちんとの思い出話なら、例え千年でも百万年でも、ずーっとできるよ!」
「……そこまで共に生きてねーだろ? せいぜい五年か六年程度だ」
「五年だろうと五秒だろうと、楽しかった思い出は勝手に増えるものなんやで、さっちん」
「それは、それで……怖ぇよ。怪奇現象じゃあねーか」
「むふふ、そこまで言うならさ――」
誄はうずめていた頭を上げると、上目遣いで俺をのぞき込んできた。
その目は白く濁っている。
「――試してみる?」
心臓が跳ね上がる――かと思ったが、しかし予想とは裏腹に、気持ちがスッと落ち着くのが分かった。
顔の熱が引いていく。冷めていく。
「………………やめだやめだ、こんな茶番」
俺は彼女の腕を振り払い、上半身を起こしてあぐらをかいた。
彼女はキョトンとしている。鳩が豆鉄砲を食らったかのように。
俺は後ろ髪をまとめているヘアゴムを取り払い、投げ捨てようとして――結局シャツの胸ポケットにしまった。垂れ下がってくるクネクネとした前髪を掻き上げて言う。
「いいか、誄はな――俺に『色仕掛け』なんてしねぇんだよ。絶対に、だ」
セクハラの阿修羅。
みんなの彼女。
散々な言われようだが――誄は決して尻軽ではない。
むしろ身持ちは堅い。彼氏がいたという話すら聞かない。
自分の意見ははっきりと言えず、いつもニコニコ笑みを浮かべていて何を考えているのかは分からないが――しかし、放っておくと、ちょっかいをかけてくる。
一人はさびしいのだ。かまって欲しいのだ。
そのくせ、人の気持ちを代弁して世話してばかり。
自分の本心は、決して口には出さない女の子だった。
「そんな猫みてぇにかわいい誄が、自分から『大好き』だとかありえねーし、さらには積極的に腕をからませてくるなんてもっとありえねぇんだよ!」
「えええええええええぇ!」
「せめて上目遣いする程度だ! それも無意識になぁ! “男はこれが好きなんだろ”ってこれ見よがしに上目遣いしたりしねぇんだよ‼」
「ええええええええええええぇ‼」
「なにもかもがわざとらしいんだデメェはよ! いいかよく聞け。誄はな、かまって欲しさのあまり無意識に甘えてくるところが良いんだろうがぁ!」
「えええええええええええええええぇ⁉」
「誄のかわいいところ全部潰しやがって! この下手‼」
「ええええええええええええええええええええええぇ……」
彼女は驚愕の声を挙げ、机から転がり落ちた。落ちていく彼女の顔は、さながらフレーメン反応を起こした猫のようだった。
俺は彼女が転がり落ちた机の端まで這いつくばり、地面に倒れた彼女の襟元を掴み上げて言い放った。
「それに、誄はな――俺の親友だ! 親友に本気で色仕掛けするほど、誄はバカじゃあねーんだよ!」
彼女は、苦しかったのか、持ち上がる上半身を地に両手を付けて支えて、襟元を掴み上げる俺のこぶしに片手を重ねた。
『チャカチャカチャカチャカ……』と妙な機械音がやけに大きく聞こえる。
「うちは、偽物やけど、それでも“るーちゃん”だよ」
「そうか。お前は、それでも“るーちゃん”だって言い張るんだな。だったら答えてみろよ――」
これ以上は不味い。
これ以上は、これ以上はお互いを傷付けるだけだ。
傷付け合って後悔して、それ以上の進展はない。後退するばかりだ。そんなことは分かっている。
「お前は――」
分かってはいるんだ。
「お前はどうして――」
これだけは、このセリフだけは。
「お前はどうして――死んじまったんだよ!」
このセリフだけは、『禁句』だって分かっていたはずじゃないか。
3
「でも、さっちん……人はいつか、死んじゃうんだよ?」
「お前が――言える口じゃ、ないだろう?」
「人はさ、自分で死ぬ時を、選べないんだよ?」
「お前は……」
「自分では、選べないんだよ」
「お前は――! 勝手に死んだだろうが‼」
大声で怒鳴って、ハッとする。
そこで初めて、彼女の表情が分かった。
いつものようには、口元は笑っておらず、歪んでいる。本人は精一杯微笑んでいるつもりだろうが、その目は今にも涙をこぼしそうになっていた。
「あ、あ……」
彼女の襟元を締め上げている手をゆっくりと放した。
机の上から呆然と彼女を見下ろす。
彼女は自分の手足を抱き寄せ、体育座りの姿勢で床の一点を見つめていた。あるいは何も見てはいなかった。
お互い、何も言わず、その場を動かず、ただただ時間が流れる。
四方からの妙な機械音と、彼女の浅い呼吸の音だけが、微かに聞こえるのみだった。
何千万年もの時が流れ、次に口を開いたのは……。
「ごめんな」
……彼女のほうだった。
抱えた膝を眺めたまま、彼女は続ける。
「わかるよ、さっちん」
誄はよく、口癖のように言っていた。
“わかるよぉ、悲しかったねぇ”
“せやなぁ。本当はこんなつもりじゃ、なかったもんな”
“さっちんは――”
「うちが死んで、悔しかったんやなぁ」
誄は、いつもこうして、人の気持ちを量れる優しい女の子だった――。誄に慰められれば、誰だって心の重みが溢れ出しそうになる。
俺はよく知っていた。
誄と出会った頃から、何度も見てきたから。
だから、だから俺は、根元からねじ曲がった髪をさらに掻き乱して抵抗した。溢れ出ないように、これ以上傷付けないように。
彼女の顔を見て耐えきれるとは到底思えず、仰向けに倒れる。髪を掴む指と指の間から、わずかに白い板張りの天井が見えた。
「襲って、トラウマになるようなことして」
それでもなお、彼女は続ける。
「謝罪の一言もなく、ろくに罪も償わず、死んで逃げて――うちが許せないんや」
「ちがう……違う、違う! そうじゃねぇ! そうじゃ、ねーんだよ」
「それじゃあ、うちのこと、恨んでない?」
“恨んでない”
そう言うべきだった。否定するべきだった。
だがしかし、あの怪物が――黒い怪物が。
「俺は、お前が許せねぇ。許せねぇんだ。でもそういうことじゃあない!」
黒い怪物が、喉を支配する。
「あの夏の日のことも――お前らが俺にしたことだって、本当は、本当は許せないんだ。でもよ、一番許せねぇのは、そこじゃあねぇ‼」
「うんうん、そうなんやね。じゃあ、さっちんは何が一番、許せないのかな」
俺が一番――許せないもの。
過去を思い出す。言葉を整理する。喉の怪物をなだめる。
「なあ、るーちゃん。お前のお父さんとお母さんは、一家心中で亡くなったんだって、そう言っていたよな」
首を吊り下げて、ぶらんぶらんぶら下がっていたって。
それが最後に見た、仲睦まじい夫婦姿だったって。
「うん、そうやね」
「お前はへらへら笑って教えてくれたけれど――本当は苦しかった、はずだろ。俺はなァ、苦しかったぞ?」
心臓が、ぎゅっと締め付けられるように。
聞いただけで、思い出しただけで――あれほどに、これほどに。
そしてなにより。
「“許せない”って、部外者の俺がそう思ったんだ」
ひどいって。
こんなことあっていいはずないって。
理不尽で――酷だって。
「そっか、そっか。さっちんは、優しいんやね」
「るーちゃん……お前はどうなんだよ。当人であるお前が、るーちゃんが、一番許せなかったはずだろ?」
寄り添っているつもりだった。
幼馴染のつもりで、親友のつもりで、すべてをわかっている気になっていた。だが実のところ、他人である俺はなにひとつ理解していなかった。
嘆川誄が――少年院で首吊って自殺したとニュースで聞いて、やっとわかったんだ。本当の意味で理解したんだ。
るーちゃん、お前は――こんな気持ちで毎日を、過ごしていたんだな。
寂しくて、切なくて、呼吸が止まりそうで――そんな毎日を。
「なのに、なのにどうしてお前は――親と同じ道を選んでしまったんだ‼」
怪物を口に出して、言葉にして初めて自覚した。
そうか。
だから俺は――お前が許せなかったのか。
「わかんねぇ、わかんねぇよ。そんな過去を持っているくせに、なんで同じことを、繰り返すんだ……」
その行為で苦しむ人がいることを、悲しむ人がいることを知っておきながら――どうして同じ道を歩む。
間違った道を歩む親の背中を見ながら、『自分だけは別の道を選ぶ』と、幼い心に何度も何度も誓ったはずだろ。
なんでだよ、どうしてだよ――るーちゃん。
4
「じゃあどうして、同じことをするの?」
「え……?」
突然、オウム返しのようなことを言われた。
驚いて目をやると――彼女の頬には大粒の涙が流れていた。
「お、おい……! なんで、なんでお前が泣くんだ?」
彼女は言われて初めて気付いたらしく、「あれ、あれ」と困惑しながら涙をぬぐいだした。それでもなお止まらないのか、三本、四本と拭う手を足していく。
しまいには「ひっ、ひっく」と嗚咽まであげはじめた。
俺は居ても立ってもいられなくなり、身を起こして机から這い降り彼女の両肩を掴んだ。
「どうしたんだ、どうしたんだよ。“るーちゃん”」
「ひっ、ひっ、ひっく。う、うぇ……」
彼女の――誄のクシャクシャになった泣き顔を見て、思わず俺は彼女を抱き寄せた。背中をさする。頭を撫でる。
「悪かった。俺が悪かった。言い過ぎた。あまりにも言い過ぎた。だから泣かないでくれよ、なぁ?」
腕の中で彼女の体温を感じる。静かな嗚咽とともに肩が小さく震えている。
思い出した。
昔にも――生前にも、たった一度だけ、誄の泣き姿を見たことがある。
中学の卒業が間近に迫ったある日のこと、クラスメイトの女子と男子が本気で喧嘩をしていた。とある女子の、とても大切な何かを男子が侮辱したらしかった。被害女子を取り囲む女子集団と、それに対する男子集団の言い合いが続いた。そんな中、呆然とたたずむ被害女子をなぐさめていた誄が――突然泣いた。いつの間にか泣いていた。
あまりにも突然で、しかも黙って泣くものだから教室中が困惑した。自分よりも先に泣いた誄を見て、無表情を保っていた被害女子もついに泣き出した。こうして卒業前の小さな戦争は終結に向かったのである。
ちなみに、その被害女子というのが――愛己 稚世である。その一件以来、稚世は誄を苦手としているらしかった。
“じゃあどうして、同じことをするの?”
彼女の発言を思い返す。
同じことを?
いったい何のことだ? 自分が親と同じく自殺したことか? 自分に問うていたのか?
いいや、あの言葉は間違いなく、俺に対して発せられたものだ。
同じことを――親と同じことを?
「あなただって――ずっと苦しんできたのに」
抱きしめる腕の中で、彼女の細く震える声が聞こえた。
あなただって――“あなた”って、今、そう言ったよな?
「そうか、お前――死神なのか」
そうだ。そもそもこんな空間を作れるのは、死神以外にいないじゃないか。誄に成りすましていたのは死神だったんだ。しかしなぜ、死神が――待てよ。
あの発言は、どっちのセリフだ?
“じゃあどうして、同じことをするの?”
あの言葉は――誄のセリフか?
いや違う。あれは死神の言葉だ。死神が俺に言っているんだ。
「あなただって――あなただって、ずっと親から苦しんできたのに」
親から――俺が苦しんできた?
確かに、確かにそうだ。
物心ついた頃から神童だと崇められ、祭り建てられ、『進学』以外の道を知らないまま生きた。そう生きるように、レールから決して外れることがないように育てられてきた。今思い返すと、確かに苦しい人生だったかもしれない。
しかし、それを俺が――親と同じことを俺が、繰り返した?
誰に繰り返した?
誰に同じことをしたっていうんだ?
親と同じことを繰り返すとしたら、自分の、自分の――。
そうか。
そうだったのか。
俺はようやく、すべてを理解した。
死神の涙の理由も、俺がしでかした最大の罪も。
夕暮れの妖しい光が差し込む学校の部室で、俺は彼女を抱きしめたまま告げる。
「死神、お前は――俺の娘だ。俺と、彼尾花の子だ」
5
次の瞬間、抱きしめる誄の身体が『分解』された。
『チャカチャカチャカ』と機械仕掛けの部品が展開され――中から本物の、死神の本来の姿が現れた。
真っ黒な布で身を包み、青い髪を風に揺らす少女――水色の死神。
俺の姿も同じく元に戻っていた。元の姿、それは生前の手足の短い三毛猫の姿――ではなく、転生前の姿――“わかめの千切り”のようにクネクネとした髪を伸ばす成人男性のスーツ姿だった。
学校の部室もまた機械仕掛けを露わにして分解されていき、例の白紙のような世界に戻っていく。八十万の花を吊るす水縹色の巨大な枝垂桜が風に吹かれ、壮大な音を奏でながら青い花弁を散らしていた。
「ごめんな、ごめんな――今まで、気付いてやれなくて」
死神をより強く抱きしめながら、俺は言葉を続けた。
かつての妻に――彼尾花に会った時点で、本当は気付いていたんだ。だって空耳家には、きみの写真が一枚もなかったから。
死神、お前は――死産だったんだな。
二〇〇九年十一月十日。
ブラジル、サンパウロ州サンパウロ市。
きみが産まれるあの日、ブラジルは大停電に襲われた。まともな処置を施す余裕もなかったのだろう。
『世界の定理』、死神になる条件。
世界を認知しなかったら死神になる――あれは“生まれる前に死んだら死神になる”という意味だったんだ。
「そして――本当に、すまなかった」
俺がお前にしたこと。
父親である俺が、娘であるきみに犯した最大の罪。
「きみに――無茶な期待を背負わせてしまった」
俺はその昔、親から神童として育てられ、子供には巨大すぎる責務を背負わされた。何度も「神童」だと褒められ、その度に「優秀であれ」と叩き込まれた。
でも一番苦しかったのは、期待を寄せられたことじゃない。
「きみには、幸せになってほしかった。みんなの分まで――幸せになってほしかった」
城楼棚 如雨露。
爪弾快刀。
碇 伝馬。
嘆川 誄。
愛己 稚世と、名もなき赤子。
彼尾花と――虚言 さとる。
「……むりだよ。みんなの分まで幸せになれって、そんなのむりだよぉ!」
一番苦しかったこと――それは、期待に応えられなかったこと。
親の期待を、裏切ってしまったことだ。
「すまない。本当にすまない。幼いお前に、まだ生まれもしないきみに、あまりにも大きな責務を背負わせてしまって」
俺は謝った。謝るしかなかった。
俺の声には、いつのまにか涙が混じっていた。
自分でも気付かないうちに、俺は親と同じ道を進んでいたんだ。かつての幼馴染、るーちゃんと同じように。
自分の子には同じ思いをさせない。そう誓ったはずなのに、あれほど誓ったはずなのに――!
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
そして死神も、繰り返し謝っていた。
死神を抱きしめる俺の背中に、彼女もまたすがるように抱き返す。
水色の死神は――顔面を崩しながら泣いて叫んだ。
「――死んじゃってごめんなさぁい!」
子供に、こんなことを言わせちまって。
青い紙吹雪が吹き巻く中、俺らはお互いに泣いて謝った。
お互いを抱きしめながら、お互いに、ただひたすら謝り続けた。
そして、世界は動き出す。
次回、終編。