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Green-tinted Sixteen's Mind

ひよこ色

作者: おーじ

 それは5年ほど前の6月の下旬の夕方のことだった。不意にあなたという人物を意識し始めたのは。


 俺がまだ高校を卒業する前だった。あなたに対する第一印象は「友人の知人」だったように記憶している。俺の中でのあなたは、数だけはいっちょ前に多かった友人未満の知人のひとりに過ぎず、それはつまり、取るに足らぬような存在であった。

 そんなあなたが俺にとっての最も守りたい愛おしい存在となる日が来ることを、あの日までの俺はきっと知らなかっただろう。


 あの雨の日の夕方、俺は傘を忘れてきてしまったのである。朝方はすっきりと晴れていた空も、昼過ぎには雲に覆われてしまい、その後まもなく小雨になった。授業中に窓からその様子を眺めていたが、まあどうせ通り雨だから時期おさまるだろうと楽観していた。

 授業が終わり下校時刻を迎えたが、とうとう小雨は大降りの雨に変わってしまっていた。帰りのホームルームが終わったあとにクラスメイトが「天気予報では降らないと言っていたのに」とこぼしていた。彼はどうやら家を出る前に天気予報などを確認していたらしい。親しい友人にでも頼んで駅までの帰り道は傘に入れてもらって帰ろうか、などと考えていたが、友人も忘れている可能性の方が高そうだった。とりあえず隣のクラスまで友人達を訪ねに行くことにした。

 少し歩いた所にある開いた隣の組のドアから教室を覗く。何故自分のクラスは躊躇いなく入るのに、ほかのクラスの教室にズカズカと入るのは少し抵抗を覚えるのだろう。


「あれ? お前何してんの?」


 探していた人の声が自分の背後から聞こえてきたので、少しだけ驚いた。顔も見ずに俺のことを認識してくれたのが少し嬉しかった。


「よく後ろ姿だけで俺だって分かったな」

「お前、遠くからでもお前って割とすぐ分かるんよな。髪型といい後ろ姿といい」


 そう言われて思わず自分で自分の髪を触ってみた。髪質が硬いので寝癖がつきやすい質であるから、毎朝水で寝癖を抑えて、そこにハードタイプのワックスで整髪してみたりする。それも相まってかは定かではないのだが、髪の毛がものすごくガチガチとして見えるといつぞやかにクラスの女子に言われたことがある。


「もしかしてまだ寝癖ついてる?」

「いいや。カッコよくキマってるで」


 友人の言葉に安心した俺は、帰りの道中だけでいいので傘に入れて欲しい旨を伝えた。友人は「相合傘ね! お前なら歓迎だぜ」と冗談っぽく言いながらも、快く了承してくれた。

 今思い返すと、毎朝寝癖と格闘する生活は中高生の頃から社会人になってもずっと続いているのか。一度あなたがストレートパーマの施術を受けていたのを横目に、「もしかしたら自分もあれをすれば寝癖もおさまるのでは」などと考えていたのだが……あなたには「辞めてくれ」と止められてしまったものだ。理由は忘れてしまったが。


「お前さ、駅までは俺の傘入るけど、そっから電車乗って家の近くの駅で降りてからどうやって帰るん?」

「まあバスでも乗って帰ろうかなって」

「お前の家、駅からかなり離れてるだろ。運賃妙に高いし」

「あー……まあいけるやろ」


 現在の所持金は大体500円ほどだったから、多分不足はないはずだと思うし、バスに乗っていけば濡れることなく家からほんのわずかな距離のバス停に行けるだろう。


「そうか、じゃあいいんやけど」


 友人は安心したような表情で微笑んだ。その表情があまりにも魅力的に感じられて、端正な顔立ちの彼と俺とを思わず比べてしまう。自分もこれほどにかっこよければなあ、などと考えては、友人に対してこんなしょうもない妬みを抱いている自分の醜さに辟易としてしまうし、そんな自分がどうしようもなく嫌いだった。

 その後友人が、最近になってから近所の犬にとんでもないくらい吠えられる旨の話題を提供してきてくれたので、それに沿った他愛もないような会話を十分ほどしながら最寄りの駅まで歩いていた。

 駅に到着し、IC定期を改札にタッチして、そのまま改札をくぐる。友人とは帰る方向が逆なので、当然別のホームに別れることとなる。


「また明日〜」

「また月曜日な。今日金曜日だぞ」


 彼が苦笑しながら手を振り挨拶をする。今言われてから、今日が金曜日であることを俺はやっと思い出した。少しだけ恥ずかしさを覚えたが、それはすぐに消えた。


「そうだった、また月曜日な!」

「ばいばーい」


 そのまま俺達は反対方向へと別れていった。階段を下ってゆくと、ふとひとりになった孤独感に襲われた。それを払拭したくて、俺は制服のポケットから音楽プレーヤーを取り出す。

 プレーヤー本体にぐるぐる巻きにされたイヤホンを解いて、それを装着した。再生ボタンを押すと流れてきたのはゲームのサントラであった。駅のホームが地下にあるのだが、戦闘シーンの激しいBGMのせいで「ひょっとしたらこのトンネルの向こうから何か敵が飛び出してきたりするのでは……」という訳の分からない妄想を掻き立ててきた。電車が来るまでの暇つぶし位にはちょうど良い。


「下り線の電車が到着いたします。黄色い線の内側までお下がりください」


 俺の脳内では、ちょうどRPGの主人公っぽいキャラクターが、トンネルの向こうから現れた黒ずくめの暗殺者を何故か体術で倒してしまったあたりであった。

 到着した電車にのって、先刻の戦闘シーンの続きなどの妄想をしたりしつつ、鞄の仲間を探る。

 そこで俺は持ってきていると思っていた財布がないことに気が付いた。そういえば家に置いてきてしまったことを思い出した。これはなんとも最悪の事態である。親に連絡したら迎えに来てくれるだろうか、と思い立ち、携帯電話を取り出した。メールでも送ればきっと迎えに来るだろうとおもったら、既に『今日はお父さんも私も仕事で遅くなります』という母親からのメールが届いていた。

 はぁ、と思わず大きなため息をついてしまった。潔く諦めて濡れて帰るべきか。教科書は全て学校に置いてあるから、今カバンに入っているものは筆箱と宿題として出されているプリント類と空の弁当箱と水筒のみだったしプリントはプラスチックのファイルに入れてあるから濡れても何とかなるだろう。俺は腹を決めた。


 家の最寄り駅は電車で数分の隣の駅であった。海が見えるという他には特に何も無いような、平々凡々なところである。

 電車を降りた俺は、同じ駅で降りてきた学生やサラリーマンたちのあとに続いて改札を抜けた。彼らのうち俺と同じくして傘を忘れたであろうスーツの男性が改札を抜けた後、躊躇うことなく小走り気味で駅から出ていった。あの人もまた、あの雨の中を濡れて帰る選択をしたのだろう。

 俺も走ろうと思いつつ駅の入口まで歩いていったが、外を見ると、学校の最寄り駅に着く前より雨が強くなっていたように感じられた。これはあかんやつや、と直感してしまい、この雨の中を走ることに少し躊躇いを感じてしまった。

 俺の目の前を通り過ぎていくさまざまな色の傘の花は、住宅街の向こうへと消えてゆく。そんな中で、不意に知っている顔が目の前を通り過ぎようとしているのが見えた。


「あっ」


 一瞬誰なのかを思い出せなかったのだが、確かクラスメイトの女子のとよく一緒に居た一つ年上の女子だった。ついうっかり、思い出した瞬間に声を漏らしてしまった。それが聞こえてしまったようで、彼女が怪訝そうにこちらを振り返ってきた。

 それが今より少し顔立ちが幼い、高校生3年生だった頃のあなただった。ここらじゃ珍しいような赤茶色のブレザーの制服を着ていたあなたは、俺の通う学校の隣の学区に通っていたんだっけ。


「……? あ、君は確か……」


 あなたがあまりに真っ直ぐ俺を見てくるので、思わず息を飲んでしまった。大人びた顔立ちだが、瞳はまるで透き通った海のように美しく輝いていた。もっと眺めていたかったのだが、あまり顔をじっと見つめてしまうと気持ち悪がられそうだったので適当なところでやめておいた。


「あ、やっぱり。あの子の知り合いの……」

「そうです、あの時の男です」


 俺の事を思い出したあなたは、ニカっと歯を見せて笑った。大人びた様に見えるのに、あなたってこんな風に無邪気に笑うのかぁ、などと思ったのを俺はまだ憶えている。そして俺はふと思った事をあなたにぶつけてみた。


「それにしても、こんな所でどうしたんですか?」

「友達にサプライズでプレゼント渡しに行きたくてさ、ちょっと不安だけどひとりでここまで来たの」


 それにしてもわざわざこんな大雨の日でなくても良いのではないかと俺が問うと、「誕生日なんだもん、今日渡さなきゃ意味無いかなって私は思うの」とさっきより少しだけ大きな声で答えた。

 それを聞いた時に、初めてあなたが友達想いであることを知ったんだっけ。それと同時に、あなたにはそこまでして喜ばせたい友人がいるというのが、上辺だけの関係を多数築き上げてきただけの俺には少しだけ羨ましくも思えた。


「っていうか君、傘は? 身体半分だけ濡れてるけど……」

「え? 俺濡れてる?」

「右側びしょびしょだよ……君から見て左かな?」


 言われるまで気が付かなかったというのも間抜けな話ではあったが、俺は指摘されてから自分の制服の左半分だけが雨に濡れて濃い色に変わっているのに気がついた。

 あなたが「相合傘かな?」と軽くからかってきたので、思わず「相合傘っつーか、男友達に傘に入れてもらっただけ、それだけだから!」などと強めに否定してしまった。それを聞いたあなたが「彼女じゃないのか〜」と少しつまらなさそうに返事をする。

 全体的にツンとした見た目で近寄り難い雰囲気を醸すあなただったけど、こうして喋れば喋るほどに、本当は人情があって、魅力的なあなたのことが気になってしょうがなかった。


「残念でした。まぁなんせ俺は今日、傘を忘れて来たんですよ」

「じゃあ私の傘使う?」


 部活の友達に「今日飯でもどう?」と誘うかのようなテンションであなたがこう言う。


「え……いや、そんな……ありがたいけど、あなたが帰れないじゃないですか!」


 誰かに言われた訳では無いのだが、俺はどうも昔から人に迷惑をかける事に関しては人一倍気にしてしまう質であったし、人に迷惑をかけて嫌われることが嫌だった。

 この時だって、あなたに多大な迷惑をかけてしまう事を気にして、必要以上にあなたの優しい気遣いを否定してしまった。後になって物凄く後悔した。


「折り畳み傘持ってるから気にしなくてもいいよ」


 そう言うとあなたは持っていた手さげ袋から淡い黄色の傘を取り出した。暖かいその傘の色合いは、まるでひよこのようであった。あなたはニッコリと笑うと、さっきまで使っていたであろうピンク色の傘を差し出す。


「いや……でも……」


 あなたが差し出す手を素直に受け入れられなかった。そんな俺を見て、あなたは「あーそりゃピンクは無理だよね」と言うとカバンから取り出したばかりのひよこ色の傘を差し出した。


「ちょっとボロいけどそっち使っていいよ、後で捨ててもいいし」


 そう言ってあなたはまた笑う。何故ただの知人に、ここまで親切に振る舞えるのだろうか。俺は申し訳なさを覚えてしまった。


「何で他人の俺にそこまで優しくするんですか?」


 俺は思わずあなたに尋ねた。あなたはしばらく黙っていた。 今思えば、折角あなたが親切に傘を貸してくれようとしていたのに、野暮なことを聞いてしまった。


「んー……だって君そのまま傘持たず帰ったらびしょびしょになるやん? ほっておけないし」


 そう言ってまっすぐ俺を見つめる。上向きに自然にカールしたふさふさの黒く長いまつ毛に、女性らしさを覚えて思わず見とれてしまっていたが、またすぐにふと我に返った。


「いや……そうですけど……そうなんですけども……」

「そんなに嫌なら……ええんやけどさ」


 あなたが先程より明らかに冷めたような表情をした。必要以上な拒絶反応を示したことがあなたの機嫌を損ねてしまったのだろうか、俺は内心で慌てふためいていた。


「いえ……あなたが迷惑でないなら、お借りしてもいいですか……?」


 自分でもわかるくらい声が上ずってしまった。なかなか恥ずかしくて気持ちが悪かった。あなたは口角を少しだけ上げてニッと笑ってひよこ色の傘を差し出した。俺はお礼を言ってそれを受け取る。


「あ、そうだ。そういや何で君に親切にするのかって聞いてきたやんか。何かな、よく分からないけど、君、弟みたいやからさ。お節介焼きたくなった」


 あなたの言葉にえも言えぬ恥ずかしさと嬉しさを感じた。俺は一人っ子なので、友人の兄弟喧嘩などが羨ましくてしょうがなかった。兄弟喧嘩に辟易としている人間からすれば、俺のこの羨望の眼差しが理解し難いらしい。


「あなたみたいな姉がいたら、きっと楽しいんでしょうね」


 俺は割と本気でそう思った。友人から伝え聞く程度にしか人となりを知らないくせに、何故かあなたと暮らす生活が楽しいものだとこの時から直感していた。


「あはは、高校卒業したら家出て一人暮らしがしたくなるほど楽しくなると思うよ」


 冗談を返すけれど、あなたは満更でもないような表情をしていた。割と単純なところがあって素敵な女性だと思った。

 それから数分ほど談笑などしていたが、そろそろ電車が出るので帰らなければならないような時分になってしまった。もう少しだけ話していたかったのだが、無理を言って引き止めるわけにも行かなかった。


「あの、もし良かったらでいいんですけど、この傘今度返しに行ってもいいですか?」


 傘を返したいとかではなく、単にあなたにもう一度会える機会が作りたかっただけだったのかもしれない。勝手にこんなことを口走ってしまっていた。

 完全に傘を返してもらうつもりなど無かったあなたは、一瞬何かを考えてから「あー……じゃあさ、メアド教えて? 」と答えた。実は連絡先を聞いておきたかった俺としては、向こうから聞いてきてくれたのがとても嬉しかった。

 その後はガラケーの赤外線通信で連絡先の交換をした。まともに本名を知ったのもその時だったように思う。


「また都合のいい日時教えて、またここ来るから」

「いや、わざわざ来てもらうなんて悪いし、最寄り駅まで行きますよ」


 俺がこう言うと、あなたは少し申し訳なさそうな顔をしながら「じゃあ……お願いしていい?」と答えた。その時俺を見てきたあなたの表情が、とてもあどけなく愛おしく感じた。

 そろそろ本当に電車が来そうだったので、お互い「また後日」と挨拶を交わしたあとは、ホームへの階段を降りて行くあなたを見届けて帰路についた。

 あなたから借りた折り畳み傘を開く。骨組みがすこし軋むが、この大雨に耐えうるだけの丈夫さはあった。

 雨の中歩いている間、この傘の柄はあなたが握っていたものなのだろうか、などというしょうもない考えが頭をかすめた。と同時に少しテンションが上がった。雨粒が傘にあたり、パラパラと心地よい音を立てる。


 何だか分からないのだが、心が少し暖かい。これはあなたに借りた傘と共に受け取っていたものなのだろうか。もしそうだとするなら、俺もなにか相応のお返しがしたいところである。

 帰ったらどんなメールを送ろう、絵文字はどの程度使えば良いだろうか、内容は長くなりすぎないようまとめなければいけないか……。

 そんなことばっかり考えながら歩いていたら、あっと言う間に家に着いてしまっていた。

 ま、いいや、シャワー浴びてからメール書こう。折り畳み傘についた水滴をあらかた払って、玄関先にずっと置き去りにされて乾いた俺のビニール傘の横に並べて置いた。雨が上がったら借りた傘はベランダで干すつもりだから、その時まではここに置いておくことにした。


 ひよこ色の傘と透明な大きな傘が並んでいる様が、駅で喋っていた俺とあなたのようで、何だか微笑ましかった。

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