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オレンジ、それは刹那、トリガー

「俺の結婚する人、つまり小春ちゃんのお母さんは誰なの?」


「それも覚えてないんだよね」


 小春のことや未来のことをもっと知りたかったし、小春も小春でこれからどうしたらいいかわからないから、どこかでゆっくり話そうということになってこの喫茶店にやってきた。

 昨日、この小春が俺の学校に転校してきてから、俺の平和で退屈な日常はどこかへ行ってしまった。おかげで、今日は授業中に一度も眠くならなかった。


 小春はチーズケーキをフォークで丁寧に一口分切りながら言う。


「ほんとに未来のことはほとんど思い出せないの。このまま思い出すのをやめてしまえば、すぐにでも未来から来たことさえ忘れてしまいそう。夢から覚めたあとみたいに覚えてないって言ったでしょ? ほんとにあの感覚。でも、なんとかして思い出したいの。パパに何を伝えに来たのか」


 小春は切り分けた一口大のチーズケーキは食べずにフォークを置くと、オレンジジュースを飲んだ。


「で、これからどうするの?」


「きっとトリガーがあるはずなの」


「トリガー?」


「思い出すきっかけみたいなもの。夢でもあるでしょ? どんな夢を見たのかすっかり忘れてても、ふとしたきっかけで急に思い出すこと」


 オレンジジュースの中の氷が溶けて、カランと高く鳴る。


「だから、とりあえずパパと一緒にいる」


「なにそれ」


「パパと一緒にいたら思い出せそうな気がする」


「学校でも?」


「うん」


「・・・・・・付き合ってるみたいに思われるぞ?」


「いいんじゃない。とりあえず付き合ってますってことで」


「はあ! 本気か?!」


「嫌なの? それとも彼女いるの?」


「・・・・・・いないけど」


「じゃあ、よろしくね」


 小春はチーズケーキを嬉しそうに食べている。



 

 神保凛子には一人だけ仲のいい、というか、慕ってくっついている女子が一人だけいる。

 隣のクラスの西高亀子だ。隣のクラスだからいつも一緒にいるわけではないが、時々やってきては、神保凛子の席の脇にちょこんと身を屈めて、何やらひそひそと話している。神保凛子はやはりノートに何かを書きながら、耳だけ傾けているようだったが、ごく稀にくすくすっと亀子と笑っていることもあった。どんな話をしているのかは知らない。

 亀子はメガネで背も低く、肩まで伸びた髪にツヤもない。腐女子であることを公言していて、異性とは無縁の、三次元とは無縁の世界の住人だ。そんな亀子がどうして神保凛子と関わりを持っているのかは謎だ。

 いつだか亀子が神保凛子のことを「姉御」と呼んでいるのが聞こえたことがある。

 神保凛子の横にちょこんとしゃがんでいるから、俺の席からは亀子が正月の鏡餅みたいに見える。

 今日も何やらひそひそとしゃべっていた。

 耳を澄ませても、何をしゃべっているのかよくわからない。


 一方、小春の周りには相変わらずたくさんの女子が集まっていた。

 いくら転校生とはいえそんなに興味があるんだろうか。それとも小春は女子から好かれる何かを持っているのか。まあ、愛想はいいし、いつもだいたい笑顔だから親しみやすいのかもしれない。

 俺には女子の行動特性というものがイマイチよくわからない。きっと一生わからないのだろうが。


「春日さん、もう部活とか決めたの?」


「え? あ、部活かあ。考えてなかったなぁ」


「私、テニス部なんだけどもしよかったら、一緒にどう?」


「うーん」


 俺は背中をコツコツと叩かれて、後ろを振り向くと小春がこちらを見ていた。


「何部なの?」


「ん、科学部だけど」


「じゃあ、私も科学部にする」と小春はニコっと笑って言う。


 周りの女子たちは目を丸くして俺を見ている。


「もしかして春日さんって、千石君と付き合ってるの?」


「うん、昨日から付き合ってる」


 あ、そうなんだ、邪魔してごめんね。びっくりしちゃった。とか女子たちは言いながら、小春の周りから去って行った。


「おい、いいのかよ?」


 うん、と笑顔で言われたら、これ以上なにも言えなかった。


 それにしてもあの女子たちの反応は、「え、こいつと付き合ってんの」っていう目だった。俺は女子たちからどう思われてるんだろう。女子の生態は本当によくわからない。


「おいおい、お前ら付き合ってんの?」


 早速話を聞きつけた日比谷がやってきた。


「そうなの」と小春が答える。


「千石、ほんとか?」


「ああ」


「小春ちゃんってまだ転校してきて三日目だろ。千石にしては手が早いな」


 授業始めるわよー、と言って白山先生が教室に入って来て、話はそこで終わった。


「また話聞かせろよ」と日比谷は去り際に言った。


 西高亀子はいつの間にかいなくなっていて、神保凛子はいつも通り教科書をしっかり用意して、授業が始まるのを今かと待っているようだった。




 科学部は特になにかをやっているわけではない。

 顧問の志村先生から二ヶ月に一回くらい掃除や実験器具の整理などを頼まれるくらいで、実質的には帰宅部だ。

 部員は5人いるが、三年生の3人は受験勉強だと言ってもう随分顔を見ていない。で、二年は俺と日比谷。今年は一年生は誰も入部しなかった。来年には廃部になるかもしれない。

 

 そんな部活なんだ、と入部届けを志村先生に届けに行くまでの道中で小春に説明した。

 なーんだ、残念、と言って小春は落胆していた。


 志村先生は理科準備室にいた。

 窓際にはこの部屋に不似合いなおしゃれなソファがあったり、冷蔵庫があったり、二台並んだデスクトップパソコンの壁紙は深夜にやってそうなアニメのイラストだったり。部屋の真ん中には畳が敷いてあって、真ん中のちゃぶ台にノートパソコンを置いて、志村先生は画面をにらみながら、うーん、と唸っていた。ノートパソコンの横には、制服を着た女の子のフィギュアが置いてある。


「志村先生、ちょっといいですか?」


「おい、千石、この部屋に科学部以外の生徒を入れるとはどういうつもりだ!」


「違うんですよ、入部したいって。春日さんが」


「なんだ、そうか。びっくりさせるなよ」と志村先生はノートパソコンの画面に再び目を戻して、手だけこちらに伸ばして、「入部届けは?」と言うから、「あ、はい」と小春は慌てて志村先生にそれを渡す。


「なんで科学部の人以外この部屋に入っちゃいけないの?」


 小春は小声で俺に訊く。


「校長や他の先生にも内緒で準備室を自分仕様にアレンジしてるんだ。理科準備室がこんなになってるって他の先生や生徒に知れたら、やばいだろ?」


「うん」


「それで科学部の人間はこの事実を誰にも漏らさないという条件で、帰宅部みたいな自由を得られるんだ。あ、ちなみにこの学校では必ず何かの部活に入らなきゃいけないから、帰宅部ってのはないんだ。まあ俺も最初はそんなこと知らなかったんだけど」


「でも、今ドアに鍵かかってなかったよね? 誰か急に入って来ることはないの?」


「ドアを開けるのに微妙にコツがあってね、あとで教えるけど。それにしてもみんなに割と好かれてる志村先生がこんなだったなんてびっくりだろ」


「こんなとは、なんだ」


 ふうん、と言いながら、小春はドアや部屋のあちこちを眺めている。


「じゃあ、先生帰りますね」


 小春がよろしくお願いします、と先生に言ったときだった。


「部活やるか、科学部」


 と志村先生は目を輝かせながらこちらを見ている。まもなく定年を迎えようとしている老いぼれ先生には歳不相応なほど希望に満ちた目の輝きだ。そしてなにか怪しげな輝き。


「やるってどういうことですか?」


「科学部の活動だよ。毎日」


「ええ!本気ですか?」


「え、いいじゃん、楽しそう」と小春は小さく跳ねている。


「とりあえず、部員集めをしてくれ」


「先生、急にどうしたんですか?」


「春日ちゃんがこのアヤミちゃんにそっくりだった。あと、部員増やさないと来年科学部なくなっちゃうからさ。ま、もうすぐ定年だからいいんだけど」

 つまり、小春が気に入ったということだろう。


「いいじゃん、部活やろうよお、楽しそうじゃん」


「千石、俺はお前の秘密を一つ握っている。バラされたくなかったら、言う通りにするんだな」


 とんでもない教師だ。それに秘密ってなんだ。もしかして、小春が俺の娘だというこを知っているのだろうか。


「ひ、秘密ってなんですか?」と小春が志村先生に訊く。


「千石の自宅にあるパソコンのDドライブの中にある『研究資料』という名前のフォルダには・・・・・・」


「え、研究資料?」


「せ、先生、な、なんで知ってるんですか!」


「科学の教師を舐めるなよ」


「犯罪ですよ、やっちゃダメなことですよ、それ!」


「ん、その中にはね、昼下がりの団地・・・・・・」


「わかりました!やりましょう!」


「なに? なんの研究資料?」


「とりあえず! 小春ちゃん、部活頑張ろうね。さて、人集めはどうしよう。日比谷にも早速相談してみよう」


「部活、明日からでいいからな。千石、いい趣味だ」


 全く信じられない。油断も隙もあったもんじゃない。家に帰ったら、外付けハードディスクにでも移して、必要なときだけパソコンにつなぐようにしよう。



 

 ネットで注文した家具が夕方届く予定だから、先に帰るね、と言って小春は下駄箱で靴を履くと手を振って走っていった。俺も靴を地面に置いて履こうとしているときだった。


「千石くん、ちょっといい?」


 神保凛子だった。真っ直ぐな目で俺を見ている。授業をしている教師たちもいつもこの目で見つめられているのだろうか。キリストみたいに肢体をどこかに磷付にされそうなほど重みのある視線だ。


「なに?」


 少なからず動揺していたが、それが表面に出ないように平静を装った。


「訊きたいことがあるの。ここじゃ、あれだから帰りながら話しましょ」


「あ、ああ、いいよ」


 歩くたびに神保凛子のポニーテールが揺れて、その揺れとほとんど同じペースで俺の心臓の音も鳴っているのが聞こえた。学校の正面玄関から正門までがこんなに長いとは知らなかった。正門を出るまで、神保凛子は無言だった。普段挨拶もろくにしないし、最後に言葉を交わしたのは随分前だ。一年のときも同じクラスだったが、ほとんど口をきかなかった。

 もしかしたら、名前を呼ばれたのは初めてだったかもしれない。


「春日さんと付き合ってるの?」


 それが学校を出て神保凛子が最初に口にした言葉だった。心臓が一瞬止まった、比喩ではなく。


「えっ、あ、そうだよ」


 それから、また無言が続いた。

 止まっていた心臓はいつの間に動いていて、またポニーテールのリズムに合わせて、鼓動を打っている。かろうじて生きている。生きているが、思考は完全に止まっていた。

 自転車が通るたびに、俺が神保凛子の後ろに避けた。そして自転車が通り過ぎると、また横に並んで歩調を合わせる。それを何回か繰り返した。


「私、弟がいるの。その弟が好きで見ているアニメがあるの。そのアニメに出てくるアヤミちゃんって子に春日さん似てるわね」


「そ、そうらしいね。そのアニメ知らないんだけど」


「まあ、そんなことはどうでもいいけど」


「・・・・・・うん」


 西の空が暖かいオレンジ色に染まっていた。薄い雲がいくつか浮かんでいる。その薄い雲は、オレンジ色の海に浮かぶ白い波しぶきのようだ。


「私ね、いつも屋上でお昼ごはん食べてるの」


「そうなんだ、知らなかったな」


「一昨日も屋上でごはん食べてたの。あの貯水槽の奥で」


 まさか、と思った。



「あなた、春日さんのお父さんなの?」



 打ち寄せる波のような心臓の音は、暮れ行く空の向こうに遠く響いていた。


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