8.バカヤロー
船を見送ったレンジは、船乗りに次の便を尋ねた。
アレス島の北西に位置するのは、長細く上下に広がるノイシュタット大陸である。
あまり大きな大陸ではないが、この島を出たことのない少年にとっては無論、未知なる世界だ。
ノイシュタット大陸の港町、トリノへの便は三日後らしい。
少年に迷いなど無かった。
「オリバおばさん。
俺、旅に出るよ。」
突拍子のないレンジの言葉にオリバは、口に含もうとしたスプーンを置いた。
金属と陶器が重なる音が一つ、部屋に響く。
やれやれ、また本か何かの影響を受けたのだろうと、やや飽きれ気味に彼女は問いかける。
「何処に?」
「分かんねぇ。」
シアードとセレスが勢いよく、口に含んだデミスープを吹き出した。
「アンタね~……。」
セレスの言葉を遮り、少年は言葉を続ける。
「けど俺、約束したんだ!
迎えに行くって。
またその子と旅がしたいんだよ!」
「バカ言ってんじゃないよっ!!」
オリバの元々張りのある声が聞こえたかと思うと、分厚い木を叩く音がひとつ聞こえた。
テーブルの上に作られた握りこぶしが、今日の夕飯に使われた数々の食器を一瞬踊らせる。
その衝撃で、食卓の中心に積んである一番上のライ麦パンが、バスケットから転がり落ちてしまった。
「何処の誰と約束したのか知らないけど、お前はまだまだヒヨッコなんだよ。
フレア草ひとつも満足に採って来なかったお前に、一体何が出来るっていうんだい!?
バカも休み休み言ってもらわないと、こっちの身が持たないってモンさね!」
そう言い放ったオリバは、テーブルに転がったライ麦パンをかじった。
膝の上できつく握られたレンジの両拳は、ぶるぶると震えていた。
今日の出来事もハープのことも、何も知らないくせに、と。
いや待て。
彼女のことを何も知らないのは、自分だって同じじゃないか───。
その事実に、悔しさが何処からともなく込み上げる。
「……バカヤロー!!」
立ち上がった衝撃で、木目の詰まった椅子が音を立てて倒れる。
レンジはそのまま、家を飛び出した。
「おばさん、ちょっと言い過ぎ。」
「ふんっ、腹が減ったらひょっこり帰ってくるさ。
あの子はすぐ熱くなるからね。
ちょっとくらい頭を冷やしたらいいのさ。」
今日の一連の出来事を知っているセレスには、レンジの気持ちが分からないでもない。
とはいうものの、オリバが少年の事を陰ながらいつも心配していることを知っている。
とてもいたたまれない気持ちになったセレスはふと、デミスープに映る自分の顔を見つめた。
デミスープは、冷めてしまっていた。