さあ、音楽を愛そう。
「透花さーん?」
指定された部屋の前まで来た虹太は、扉の外から声をかける。
しかし、透花からの返事はない。
「入っちゃうよー?」
扉を開け部屋に入ると、虹太は目の前の光景に息を呑んだ。
そこには、立派なグランドピアノが誰かを待つように佇んでいたからだ。
虹太は驚きのあまり、ピアノを見たまま動くことができなかった。
そんな虹太に、部屋の中にいた透花が優しく声をかける。
「驚かせちゃったかな?」
「透花さん、このピアノ……」
「私から虹太くんへのプレゼントだよ」
「なんで……? 俺がまたピアノをやりたいって思ったのは、数時間前の話だよ……?」
「……実はこのピアノ、ずっと前からここにあったんだ」
「どういうこと……?」
透花は、柔らかな手つきでピアノを撫でながら話し始めた。
「……私はまた、虹太くんのピアノを聴きたかった。それで、いざという時にピアノがないと困ると思って用意しておいたんだ。気持ちが伴わない内に見つかるのを避けたかったら、この部屋にはいつも鍵をかけていたの」
「俺が、もう一度ピアノを弾きたいって思うかどうかなんてわからないのに……?」
「うん。私も嗜み程度には弾くから、買っても無駄にはならないしね。あと、はいこれ」
透花は、先程机の中から持ち出したファイルを虹太に手渡す。
その中には、今まで虹太が書き込んでは捨てていた楽譜が入っていた。
「これ……!!」
「初めて見つけた日からの分は、大体あると思うよ。虹太くんがまたピアノを弾きたくなった時に渡そうと思って、できるだけ拾っておいたの。渡せる日がきてよかった」
「透花さん、ありがとう……!!」
虹太はファイルを、大切そうに抱き締める。
その姿を、透花は慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。
「早速弾いてみる? ちゃんと調律もしてあるよ」
「……ううん。今日はいいや。よかったら、透花さんのピアノを聴かせてくれない?」
「私の? そんな大した腕前じゃないけれど、いいの?」
「うん! 俺はちゃんと練習した状態で聴いてもらいたいからさ。一番目のお客さんはもう決まってるから、透花さんは二番目以降になっちゃうと思うけど」
「もしかして、奏太くん?」
「うん! そうだよ~」
「虹太くんを音楽の世界に引き戻してくれた恩人だものね。悔しいけれど、一番は譲りましょう。その代わり、二番目を予約しておきます!」
「了解でーす☆」
「何かリクエストはある? 私が弾ける範囲でなら応えるよ」
「ほんとに!? じゃあ、ゆったりとした曲をお願いしたいな♪」
「かしこまりました、お客様」
虹太からの要望に応え、透花は穏やかな曲を奏で始めた。
一瞬で室内は、甘美な音で満たされる。
音楽に触れる幸福を再び味わいながら、虹太は静かに目を閉じたのだった――――――――――。