零れる
あっという間に、奏太と約束をした当日になった。
虹太は、先日の楽器店へと向かう。
あれ以来、辛い記憶を夢で見ることはさっぱりとなくなった。
代わりに繰り返されるのは、ピアノに関する楽しい思い出の記憶ばかりだ。
「奏太くん、お待たせ~☆」
「あ、椎名さん! 今日はありがとうございます!」
「これくらい朝飯前だよー!」
入口で落ち合った二人は、会話を交わしながら店内へ入っていく。
虹太は、不思議と落ち着いていた。
先日のように、この場所から逃げ出したいという気持ちは湧き上がってこない。
奏太はあらかじめ用意していた鍵でレッスン室のドアを開けると、虹太を招き入れた。
「どうぞ、ここに座ってください」
「はーい!」
普段は講師が座っているのであろう椅子に、虹太は腰かける。
防音室になっているこの部屋は、とても静かだった。
奏太が鍵盤蓋を開け、ピアノ椅子に座った音がとても大きく聞こえるほどだ。
「……では、弾かせてもらいます」
「うん! 楽しみだなぁ~♪」
奏太は深呼吸を一つすると、美しいメロディーを紡ぎ出す。
それは、虹太にとって馴染み深い曲だった。
(俺が、初めてコンクールで優勝した時の曲だ……)
虹太がこの曲に出逢ったのは、奏太よりも幼い頃のことだ。
聴いてすぐに、旋律に美しさに惹き込まれた。
そしてコンクールで演奏する曲に選び、見事優勝を果たしたのだった。
楽しそうに演奏している奏太の姿が、昔の自分と被ったのだろうか。
虹太の目からは、ぼろぼろと涙が零れ落ちていた。
しかしそれを拭うこともせずに、真剣に奏太の演奏に耳を傾けるのだった――――――――――。