それは、捨てていたはずの未練の欠片だった。
「……このうどん、ハルくんが作ったやつじゃないね」
一口うどんを食べた虹太は、すぐにそう言った。
「……やっぱりわかる?」
「うん。透花さんが作ってくれたの?」
「そうだよ。ハルくんみたいにおいしく作るのはなかなか難しいなあ」
「透花さんの料理も普通においしいよ。……ありがとう」
「どういたしまして」
ここで一旦、会話が途切れた。
虹太がうどんをすする音だけが、部屋の中に響き渡る。
土鍋の中身が空になったところで、透花が口を開く。
「……虹太くん、今日は不愉快な気持ちにさせてしまって本当にごめんなさい」
「……俺も、急に怒鳴ったりしてごめん」
「ううん。虹太くんを怒らせるようなことをした私が悪いから。……話、聞いてもらえる?」
「……うん」
虹太の答えに透花は安心したような笑みを見せると、静かに話し始めた。
「……この仕事の依頼が来た時は、誰に行ってもらってもいいかなって考えていたの。でも、奏太くんがピアノに真剣に取り組んでいる子だって知って、絶対に虹太くんに行ってもらいたいって思うようになったんだ」
「……それは、なんでなの? 俺はもう、ピアノは……」
「……これ」
そう言うと透花は、くしゃくしゃに丸められた紙を取り出す。
それは、虹太にとって見覚えがあるものだった。
「それ、俺が書く度に捨ててた……」
「……うん、楽譜だよ」
虹太は中庭でギターを弾きながら、思いついた旋律を楽譜に書き留めるのが癖だった。
だが、書き終える度に廃棄していたはずだ。
ピアノから離れたと公言している彼にとって、それは音楽への未練の象徴だからだ。
「透花さん、なんでそれ……」
「……ギターを弾き終える度にゴミ箱に向かう虹太くんが気になって、ある日悪いとは思ったのだけれどゴミ箱の中を覗かせてもらったの。そうしたら、これを見つけたんだ。……虹太くん、もうピアノは弾いていないけれど音楽のことを嫌いになったわけじゃないんだなって思ったらすごく安心した。……また、あなたのピアノが聴きたいって思ってしまった」
透花は、寂しげな微笑みを浮かべる。
その表情を見て、虹太は息を呑んだ。
「……だから、ピアノに対して真剣に取り組んでいる奏太くんと出逢えば虹太くんの中で何かが変わるかもしれないって思ったの。……ごめんね。私の自分勝手な想いで虹太くんのことを傷付けてしまって」
「……ううん。そんな理由があったって知らずに、さっきは怒鳴ってごめん。でも俺、ピアノはもう弾かないって決めてるから」
「……うん」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
「……わっ、もうこんな時間か~。俺、明日は一限から講義なんだよね」
「こんな遅くまで居座っちゃってごめんね。鍋は私が片付けておくから」
「ありがとう、透花さん。うどん、とってもおいしかったよー」
「どういたしまして。じゃあおやすみ、虹太くん」
「うん、また明日ね~」
こうして二人はぎこちない雰囲気のまま別れた。
この夜虹太は、ピアノを弾いていた頃の夢を見たのだった――――――――――。