それは、過去の話
「……椎名虹太くんだよね? ピアニストの」
それは、店主から発せられた言葉だった。
レッスン室の鍵を取りに行き、戻ってきた彼はこう言ったのだ。
虹太は、肩をびくつかせる。
店主からの問いには、答えなかった。
「え!? 椎名さんってピアニストなんですか!?」
「そうだよ、中条くん。彼は幼い頃から数々の賞を総なめにしてね、天才ピアニストとして名を馳せていたんだ。いやー、まさか本人に会えるとは思ってなかったよ!」
「先生、詳しいんですね」
「実は僕、椎名くんの大ファンなんだ! 載ってる雑誌は全部持ってるよ」
「その雑誌って、ここに置いてますか?」
「うん。中条くんも読んだことがあるんじゃないかな」
「だから僕も、椎名さんの顔をどこかで見た気がしたんですね」
「最近は全然表舞台に出てこないから、寂しく思っていたんだよ。椎名くん、どうかな? せっかく来たんだし一曲僕らに聴かせてもらえないだろうか」
「……俺、もうピアノはやめたんです」
そう言った虹太の声は、ひどく冷めたものだった。
いや、声だけではない。
光を失った瞳は、どこまでも続くような深い闇に覆われていた。
「やめたって、君ほどの人がどうして……」
「……理由は言えません。でも、俺はもうピアニストじゃない。だから、演奏はできません。せっかく誘ってもらったのに、ごめんなさい」
「い、いや……」
丁寧にお辞儀をして申し出を断った虹太に、店主は困惑して何も言えなかった。
ピアノをやめていたという事実を知らなかったのだから、無理もない。
虹太は顔を上げると、奏太に話しかける。
「……そういうわけで、ピアノは聴かせてあげられないや。ごめんね、奏太くん」
「いえ……」
「……なんか体調悪くなっちゃったから、帰るね。君のピアノを聴くって約束したのに、ごめん。もし機会があったら、その時はぜひ聴かせてね。今日は楽しかったよ。じゃあ」
「あ、椎名さん……!」
奏太の呼び止める声を振り切って、虹太は店を出て行く。
その背中は、泣いているように見えたのだった――――――――――。