これは、きっと気のせい。
⑤午後五時、一色邸の庭にて
この日の診療を終えた理玖は、とある箱を抱えて庭に出た。
箱は、理玖がちょうど両手で抱えられるほどの大きさである。
大吾が作業をしている背中に向かって、静かに声をかけた。
「……暖かくなってきたとはいえ、この時期に半袖はないだろう」
「あっ、春原先生! 今日の診察は終わったのか?」
「……ああ。だから、君もそろそろ帰ってくれる」
「そうだな! 今日は花屋に寄って帰んなきゃいけねえんだ!」
「……君が、花屋に?」
「おう! 今日はホワイトデーだべ? だからおら、日菜子に花を買っていってやろうと思ってんだ! あいつは花が大好きだからな~!」
「……はあ」
大吾の言葉を聞くと、理玖はあからさまな溜め息を吐いた。
「春原先生、どうしたんだべ?」
「……花くらい、うちの庭のを持っていっていいよ」
「え!? それはさすがに悪いべよ! 前に先生に花束を作ってもらった時とは違って、今はちゃんと金も持ってる! だから花屋で買うんだ!」
「……そう。君は、ここよりも花屋の花の方が綺麗だって言うんだね」
「そんなことは思ってねえ!」
大吾は、突然大声を出してそう言った。
だが、理玖はこのやり取りに慣れているのだろう。
全く動じる様子もなく、大吾の話を聞いている。
「先生とおらが愛情込めて世話してんだから、ここの花が一番綺麗だべ!」
「……じゃあ、持っていけばいい」
「でも、せっかく春になって色々咲いてきたのにもったいねーべよ!」
「……君、どれだけ大きい花束をあげるつもりなの」
「そりゃあ、おらがギリギリ両手で持てるくらいでっかいやつだな!」
「……そんなに大きいと、活けるのが大変だと思うけど」
「確かにそうだ! おらの家、花瓶が一つしかないべ!」
「……こういうのは適量でいいんだ。庭の景観を損なわずに作れて、奥さんの両手に収まるくらい。その量を選んだら、僕のところに持ってきて」
「え!? もしかして、花束作ってくれんのか!?」
「……外側のラッピングだけ。花は自分で選んでくれる」
「おらは嬉しいし、日菜子も絶対に喜ぶ! でも、先生もう帰んだろ? そこまでやってもらうのは悪い気がすんだけどよ……」
「……君、そんな遠慮するような性格じゃないだろう」
「うっ! 自分でもそう思うから、最近は自重って言葉を覚えたんだべ!」
「……別に、僕はいつもの君でいいと思うけど。それに……」
理玖は一度大吾と目を合わせてから、すぐに逸らしてしまう。
彼の真っ直ぐ過ぎる瞳を、理玖は長時間直視できないのだ。
「……市販の花より、君が一生懸命育ててる花の方が奥さんは喜ぶんじゃないの。それに、帰るっていっても家はすぐそこにあるんだし……」
「確かにそうだべ! おらも、自分が世話してる花をあげたい!」
「……じゃあ、僕は屋敷に戻ってるから。選び終わったら訪ねてきてくれる」
「わかったべ! さ~て、どの花にすっかな~!」
「……多くても、三十本までにして。適量を心がけてよね」
「了解だべ! 日菜子はピンクが好きだから、この色は絶対入れなくちゃな!」
大きな体を四方八方に動かしながら、大吾は花を選んでいく。
(……渡しそこねた。花束と一緒に渡せばいいか……)
理玖の腕の中にある箱からは、爽やかな甘さが香ってくる。
箱の中には、理玖が日菜子へのお返しとして選んだ苺が並べられていた。
日菜子は授乳中のため、砂糖を多く使う菓子などを避けたようだ。
理玖は、箱を抱えたまま屋敷へと戻っていく。
彼の表情は、大吾と話す前よりも幾分すっきりとしていた。
夜に向けて様々な感情が入り乱れていたのだが、少し落ち着いたのだろう。
(……絶対に、彼のおかげなんかじゃない。気のせいだ……)
理玖は、自分の頭の中に浮かんだ考えを打ち消しながら進んでいく。
そして意図的に、花束のラッピングのことで思考をいっぱいにしたのだった――――――――――。