かなしい微笑み
「身を投げ出そうとしたところで、とある人に声をかけられました。僕はそれに驚いて、崖から足を踏み外してしまったんです。でも、僕が海に落ちることはありませんでした。……僕に声をかけてくれた女性が、手を引いてくれましたから。その代わり、彼女が海に落ちてしまって……」
「まあ……! ま、まさかその方も……!?」
「いえ、彼女は健在ですよ。これが縁になって、今はその人の下で働いています」
「そうなのですね……! それはよかったですわ……!!」
愛甲さんは、心底ホッとしたような表情で息を吐きます。
「彼女は、僕をここから新しい世界に連れ出してくれました。それまではここ以外で生きていくことなんてできないと思っていましたが、それは間違いでした。自分が想像していたよりも世界は優しく、居心地のいいものだったんです」
「そう、なのですね……」
「はい。僕はその方に、まだ恩を返せていません。どうすれば恩を返したことになるのかわからないけれど、彼女の下を離れ、ここに戻ってきてはできないことだと考えています。これが、あなたと結婚できない理由になります」
「……晴久様、辛い過去も含めて話してくださってありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、聞いていただきありがとうございました」
それっきり、愛甲さんは俯いて喋らなくなってしまいました。
僕は、彼女が言葉を発するのを静かに待ちます。
あの時、透花さんが僕の話を焦らせずに聞いてくれた時のように。
「……晴久様がそこまで話してくださったんですから、私も覚悟を決めます」
しばらくすると、愛甲さんは顔を上げました。
その瞳には、先程まではなかった強い意思が宿っているように見えます。
「……嘘を吐いたことをお許しください。私には、恋い慕う方がおります」
「やはり、そうなのですね。話してくださって、ありがとうございます」
「……その方とは一緒になれない運命ですので、晴久様と結婚しても構わないと思っていました。天川グループという名を、聞いたことはございますか?」
「はい。確か、愛甲グループのライバルグループの名前でしたよね」
「……そうです。私の愛した男性の名は、天川潤哉様といいます。……天川グループの一人息子であり、次期社長ですわ。愛甲グループの娘である私とは決して結ばれることのない彼を、私は愛してしまったのです……」
愛甲さんは、力なく微笑みます。
……その瞳に映る悲哀は、見ているだけでこちらも辛くなってしまうものでした――――――――――。