いつか、大切な人と
……母の話を要約すると、こんな感じになるみたいです。
両親が経営しているホテルは、現在あまりよい状況ではありません。
他のホテルにお客さんを取られ、すっかり寂れてしまったようです。
そんな時、”愛甲グループ”という大きなホテルチェーンが両親のホテルを条件付きで買収してもいいと言ってくれました。
……その条件が、僕を実家へと呼び戻すことだったんです。
愛甲グループの社長は、桜庭さんと僕の繋がりをどこかで知ったようです。
有名な美食家である桜庭さんを満足させたシェフが厨房にいると大々的に宣言すれば、お客さんをたくさん呼べる可能性がありますから……。
買収されてしまえば、ホテルの経営権は愛甲グループに移ります。
社長の娘さんが、新しいオーナーとしてやって来るそうですが……。
……どうやらこの人が、僕の婚約者になっているみたいなんです。
この結婚が双方の懸け橋になればいいと、社長から言い出したらしいです。
愛甲グループの娘さんを遠野家の嫁として迎え入れることができるんですから、僕の両親がこれに反対するはずもありません。
でも、肝心の娘さんの気持ちはどうなんでしょうか?
面識がないどころか顔も見たことのない男との結婚を、突然命じられて……。
それに、僕はまだ結婚するつもりはありません。
……その、いつかできたらいいなとは思っていますが、このような形ではなく、お互いに想い合っている人と結ばれたいですから。
それはきっと、娘さんにとっても同じでしょう。
僕と父が話をして今回の件がなくなれば、彼女も自由になれるはずです。
そのためには、父に話を聞いてもらうことが絶対条件なんですが……。
「結婚式、楽しみねー! そうだ、この家の人たちも呼びましょうよ! 一時とはいえ、晴久がお世話になったんだもの! それくらいなら許すわ!」
……母のこの様子を見ていると、そんなに簡単な話じゃない気がしてきます。
精神的に弱い部分はありましたが、昔はもう少し話が通じましたから……。
……毎日父に怒鳴られることで、変わってしまったんでしょう。
勝手に家を出て行った、僕のせいなのかもしれませんね……。
でも僕は、あの時の選択を後悔したことは一度もありません。
……僕にできるのは、今回の件を自分の力でどうにかすることだけです。
「お母さん、少し待っていてください。準備をしてきます」
「わかったわ! 早く準備をして、私たちの家に帰りましょう!」
僕は母に断りを入れると、応接室を出ました。
(準備をしたら、零した紅茶を片付けましょう。あのシミはそう簡単には落ちないでしょうから、帰ってきたら気合いを入れて洗わないとですね。その前に……)
僕の足は、自室でも、掃除用具置き場でもない場所へと向かいます。
……すぐに帰ってくるつもりですが、そうもいかないかもしれません。
だから、きちんと事情を説明してからこの屋敷を離れたいんです。
(この時間、御在宅でしょうか? いらっしゃらなかったら電話で……)
僕は、控えめに彼女の部屋の扉を叩きます。
するとすぐに、柔らかな声が返ってきました。
「はーい。どちら様かな?」
「お仕事中にすみません、晴久です」
「ハルくんか。どうぞ、入ってー」
「失礼します」
彼女の部屋に入った僕は、いつもとは全然違う表情をしていたのでしょう。
……僕の顔を見て、一瞬すごくびっくりしていましたから。
でもすぐに、大好きな優しい笑顔を僕に向けてくれます。
……すっかり緊張が解れた僕は、透花さんに今回の出来事の一部始終を話しました――――――――――。