嵐みたいな女
⑦午後五時半、陸上用トラックにて
蒼一朗はこの日も、いつものトラックを走っていた。
十キロを走り終え、帰ろうとしたところで突然呼び止められたのだ。
「あの! すみません!」
「……俺っすか?」
「はい! あなたです!」
「……はあ」
蒼一朗に声をかけたのは、ショートカットの女性だった。
ランニングウェアを着用しているので、彼女もここの利用者なのだろう。
「これ! よかったら受け取ってください!」
「……え?」
「今日はバレンタインなので! あっ、チョコお嫌いでしたか?」
「いや、そんなことはないっすけど……」
「それならよかった! どうぞ!」
彼女は明るい表情で、蒼一朗に赤い小さな袋を渡そうとする。
だが、蒼一朗はなかなかそれを受け取ろうとはしなかった。
彼女とは全く面識がないのだから、仕方がないことだろう。
「……あの、すんません。話したこととかありましたっけ?」
「いえ! ありません!」
「じゃあ、なんで俺に……」
「あなたの走り方が、あまりにも綺麗なので!」
とびきりの笑顔で言い放った女性を見て、蒼一朗は困惑してしまう。
「私、いつもここを走ってるんです! それで、あなたが走ってるのを時々見かけるようになりました! 走ってる時のフォームがとっても綺麗で、まさしく私の理想って感じで! それから、密かに憧れてたんです!」
「……はあ。なんつーか、えっと、ありがとうございます」
走り方を褒められるというのは、悪い気はしない。
蒼一朗は少しだけ警戒心を解き、彼女に接することにした。
「でも、とても美人な彼女さんがいるのは知ってますから! あなたとお付き合いしたいとかそういう気持ちではなく、ただ憧れの気持ちを伝えたくて!」
「美人な彼女さん……?」
「はい! たまに、黒髪の美人さんと一緒に走ってますよね!」
彼女の言う黒髪の美人とは、言うまでもなく透花のことである。
「いや、別にあいつは恋人とかじゃ……」
「二人とも、走り方が綺麗ですっごくお似合いだと思います! 二人の関係にヒビを入れようとかそんなんじゃないんで、このチョコはぜひ一緒に食べてくださいね! 美味しい物を選びましたから! では、失礼します!」
蒼一朗が否定する声にも耳を貸さず、女性は言いたいことだけを言うと逃げ出すようにその場から走り去ってしまった。
蒼一朗の手には、いつの間にか袋の取っ手が握られている。
どさくさに紛れて、彼女は蒼一朗にチョコレートを渡すことに成功したのだ。
(あ、嵐みたいな女だったな……)
あっという間に小さくなっていく背中を見ながら、蒼一朗は思う。
そして押し付けられた袋をまじまじと見てから、照れくさそうに頭をかいたのだった――――――――――。