その女性の名は
「あの、お口に合わなかったですか……?」
「……いや、とても美味しいよ。そして、美しい品だ。だが、やはり違う……」
「そうですか……」
二人の間に、どんよりとした空気が漂う。
廉太郎はいつでも、晴久の料理を楽しそうに完食してくれた。
そんな彼が、ここまで浮かない表情をしているのだ。
自信作を受け入れてもらえなかったことよりも、廉太郎の様子が気になって仕方ない。
「……遠野くん、今まですまなかったね。私は近々、この城を出ることにするよ」
「え……!?」
「……君の他にも、多くのシェフたちの料理を食べてきた。そのどれもが、とても美味しいものだったよ。それは間違いない。……だけど私は、やはり比べてしまうんだ。昔食べた、あの甘美な品と……。だんだん、それが心苦しくなってきてね。料理人にとって、自分の皿を否定されるのは何よりも辛いということは重々承知しているつもりだ。……だからこそ、私はそろそろここを離れなければならないんだと思う。現王やその父親の友人だからといって、いつまでも城で世話になるわけにもいかないからね」
「そう、ですか……」
「君の品は、初めて食べた日から今日まで一貫してとても優しいものだった。それでいて、私の情報を元にたくさん努力してくれたね。本当にありがとう」
「いえ……。役に立てなくて、ごめんなさい……」
「自分を卑下するようなことを言うのはやめなさい。散々否定した私の言葉など、何の意味もないかもしれない。だけど、言わせて欲しい。君の料理は美味しいよ」
そう言った廉太郎の瞳から、一筋の涙が流れた。
「桜庭さん、泣いてます……!」
「……おやおや。歳をとると、涙腺がもろくなって仕方ないね」
「ハンカチを……!」
「ははは、大丈夫だよ。自分の物を持っている」
廉太郎が取り出したハンカチは、女性物のようだった。
彼のような紳士が持つには、デザインが可憐すぎる。
随分年季が入っているように見えるそれを、廉太郎は宝物のように扱っていた。
「あの、そのハンカチは……」
「ああ、これかい? これはね、その思い出の品を作ってくれた女性がくれたものなんだ。これを持っていれば、いつかまたあの味に巡り合えるような気がしてね」
「大切な物なんですね……」
「私にとって、お守りのようなものだよ。絢子さんは、元気にしているのだろうか……」
「……アヤコ、ですか?」
その名前に聞き覚えのあった晴久は、思わず聞き返してしまう。
「ああ。その女性の名だ。彼女を探し出せれば、またあの料理を食べられるのかもしれないが……。いや、やめておこう。思い出の味探しは、もう終わりにするよ」
晴久の頭の中で、バラバラだった糸が繋がっていく。
(もしかして……。でも、そんなことが……!?)
急に黙ってしまった晴久に、廉太郎は心配そうに声をかけた。
「遠野くん、どうしたんだ……」
「あの! お城を出るの、もう少し待ってもらえませんか!?」
「え……」
「一週間、いえ、五日でいいので!」
「でも、私は……」
「お願いします!!」
常に大人しかった晴久が、こんなに大声で頼み事をしている。
廉太郎は、頷くしかなかった。
「……わかったよ。特に急ぐ用事があるわけでもないからね。もう少し、ここにいよう」
「ありがとうございます! では僕、失礼します!」
「え、遠野くん……!?」
晴久はまだスープが残っている皿を持つと、慌ただしく部屋を出て行く。
そして厨房で全ての片付けを終えると、急いで一色邸へと帰るのであった――――――――――。