表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

メモリア

作者: I'nabc
掲載日:2014/11/08

  


「――様。あなたは十八年七ヵ月でご逝去なされました。ここは、あなたがこれまで生きてきた現世ではなく、あなたが次に生まれ変わる世界へと続く中間の世界です。次の世界へ向かうまでに、あなたにはこれから四十九日間ここに留まっていただきます」

 それが、この世界でぼくにかけられた、最初の言葉だった。


「現世に還ることはできませんが、向こうの世界に旅立つまでに、四十九日間の猶予が与えられます。義務付けられていることはありませんので、基本的には何をしていただいても構いません。来世に思いを馳せるもよし、現世を振り返ってもよし。亡くなった者に与えられる、最後の自由です。思う存分ご堪能ください」

 顔を布で覆ったその人は、手短な説明をぼくの耳に残して、足早に去っていった。遠目に見えたその後ろ姿は、僕と同じようにぼうっと呆けている人に同じ声をかけていき、やがて消えた。現実味のない言葉の数々は、ぼくの思考を止めるには十分だった。どうしたらいいのか分からなくなり、ふと空を見上げてみる。雲一つないのに真っ白で、空というには不十分な光景だ。太陽だってどこにも見当たらない。

 どうやらぼくは、死んでしまったみたいだ。感覚的には、間違いなく生きている。体は異常なく動くうえに、足だって透けていない。死ぬ、とは、こんな感覚なんだろうか。生きていたときと変わらない心持ちだ。死んでしまったら、感覚、意識、心、全てが消え去り、何も感じることなく、眠っているときのような暗闇の中で静かに忘れられていくのだと信じていた。

 とりあえず、ここはどこなんだろう。何をしても構わないと言われたって、何もすることがなかったらどうしようもない。たった今、知らない人に訳の分からないことを言われて、意識がハッキリしてきたときにはすでにこの地面に寝転がっていたのだ。状況を把握しようにも、手掛かりが見当たらない。けれども、不思議と不安は感じなかった。

 ぼくは周辺を歩いてみることにした。やることがないなら、この不思議な世界を探索しようと思ったから。足に力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。どうやらぼくは、若草が茂る、広い丘に寝転がっていたみたいだ。緑のにおいがなんだか懐かしく感じた。近隣には江戸時代のような古い家がひっそりと佇んでいたり、遠くにはどっしりとそびえ立つ高層ビル群が立ち並んでいたりした。時代錯誤している景色に目を見張る。ここが本当に死後の世界なら、こんなへんてこな光景もありえるな、なんて、早々に馴染んでしまったようなことを考えてしまった。気を取り直して、ゆっくりと歩く。

 この世界には、色んなものが存在していた。外国の建物がごちゃごちゃに建っていたり、大きな本や食べ物が平気な顔してそこらへんに転がっていたり、鳥が泳いで魚が飛んだりと、ものすごく変。まるで夢の中にいるみたいだ。脳が、記憶の中から適当に引っ掴んだものを混ぜ合わせて、夢をつくってそれを見せているような、そんな感じ。だとしたら、この世界はぼくの記憶の中を反映した世界? もしくは、死んでしまった人皆の記憶が集まってできた世界? どちらかと言ったら後者かもしれない。ぼくの記憶には(多分)ないものばかりが溢れているし、死んだあと多くの人たちと一つになれる世界っていうのが、とても魅力的なことだからだ。

 しばらく歩くと、先ほど見えた高層ビル群の元に辿り着いた。大勢の人で溢れかえっていて、現世と変わらないような光景が広がっている。ここにいる人たちが皆、死んだ人だとは思えないくらいだ。誰もが体の形を保ち、透けていることのない足をしっかり地につけて歩いたり走ったりしている。ぼくも真似して、その集団の中に紛れ込んでみた。意外なことに、結構若い人が多かったので、少し悲しい気持ちになった。中には武士みたいな格好をしている人もいて、相当昔の人が成仏できていないからなのか、などと考えてみたりする。本当に、不思議を通り越して変だった。これじゃまるで、生きているのと同じじゃないか。

 皆、何故こんな世界にいるんだろう。何か理由があって、死んだのだ。腰を曲げた老夫婦から、ぼくと同い年くらいの女子、さらには幼稚園生くらいの子供までいる。きっと皆、悲劇を抱えてここにきた。次の世界では幸せになれますようにと、ただひたすらに手を合わせて、この先の天へ祈りを捧げたのかもしれないんだ。

 じゃあ、ぼくは何故、ここに……

 そう考えたところで、ふいに右手を引かれたような感触がした。死んでいる、ということで、よく考えられがちな「透き通る」という先入観を持っていたから、この手の感触によってその概念を覆された事実にちょっとした衝撃を受けた(でも温かさは感じなかった)。代わりに、生きているんじゃないかという感覚をさらに加速させられた。

 その感触の元に目を向けると、ぼくの右手をしっかり握っている細い指があり、徐々に視線を上に上げていくと、その先には一人の少女がいた。彼女が顔をあげた瞬間、ぼくとばっちり目があった。

 瞬間、風が体を通り抜けるような、はたまた清流が体を洗い流してくれるような、そんな優しい衝撃を感じた。

ぼくと彼女は理由なく見つめ合ったまま、その場に呆然と立ち尽くした。ぼくは彼女の瞳の中に銀河を見た。吸い込まれるような魅力を放つ程よい黒さの奥に、一等星の輝きを見つけた気がする。

 そこで、横からドンと男の人と肩がぶつかって我に返った。彼女も同じタイミングで意識を取り戻したようで、ぱっとぼくの手を離した。

「ご、ごめんなさい! えっと、転びそうになっちゃって、急に手を掴んじゃって」

 なんだ、そういうことだったか、とぼく自身案外あっさり受け入れた。けれども彼女は相当気にしているみたいで、パニックになりかけているのか、しきりに慌てふためいている。

「だ、大丈夫ですか? ぼくは全然気にしてないんで」

「その、本当に、本当に、ごめんなさい……」

 すると彼女の銀河から、大粒の雨がぽろりと零れた。突然のことにぎょっとしてしまい、彼女のパニックがぼくにまで伝染した。

「な、ちょ、す、すいません! よく、分からないけど、ごめんなさい!」

 本当によく分からないまま、何故かひたすらぼくが謝ることになった。彼女の嗚咽は酷くなっていくばかりだ。どうすればいいんだろう、と頭を抱えそうになったところで、周りの視線が少し気になり始めたので、今度はぼくから彼女の手を引いて、

「ちょっと、ここから離れましょう、歩けますか?」

 と声をかける。恐る恐る問いかけたけど、泣きながら彼女は頷いた。その合図を確認したら、人混みをかき分けて急いでその場を後にした。

 今来た道を辿っていき、最初に目覚めたあの丘まで戻ってくることになった。緑の草が足に触れたところでようやく彼女も泣きやんだようで、その場に静かに腰を下ろした。ぼくも続いてどさりと体を落とす。喧騒の中から抜け出して、急に訪れたこの静寂がなんだか耳に馴染まず、何か話さなきゃいけない、と思ってついそわそわしてしまう。彼女は膝を抱えてひっそり息をしているだけだった。

「……あの、だ、大丈夫……? ぼく本当に気にしてないんで……」

 振り絞った声もむなしく、風に流されて消えてしまった。驚きの連続で、何がなんだか分からなくなってきた。

「ごめんなさい……急に、取り乱しちゃって」

 ようやく彼女がそのままの体勢で言葉を発した。

「えっと……そうだ、私、あまり人と関わったことがないから、人に話しかけたり話しかけられたりすると、緊張しちゃって……うん……」

 その震える言葉から、大体の事情は察することができた。きっと現世でも、人と接することを得意としなかったのだろう。いざ話してみるとパニックになってしまうといった話は珍しくはなかったと思うから、納得できないわけじゃない。勝手な想像だけど、彼女がここにいる理由も、そのことが関係していたんじゃないかという考えが頭をよぎる。

「君は、あとどれくらいで向こうに行っちゃうの?」

 今度ははっきりとした声で、ぼくに質問した。すでに落ち着いているみたいで、その口調からは性格から発生する悩みなどないように感じて、さっき思い浮かべた可能性を頭の中で謝りながら撤回した。

「向こう?えっと、ぼくはついさっきここに来たみたいで、さっき知らない人に『あなたは死にました』って言われたんだけど」

「そう、なんだ。私も、ここに来たときにはすごく驚いたな。いきなり死んだなんて言われたら、びっくりするよね」

「うん、未だに状況が理解できてないし、どうすればいいのかも分からないし、とりあえず適当に歩いてみようってところだった」

「そっか……」

 小さく呟いて、彼女は膝を抱え続けた。ずっと寂しそうな顔をしていたけれど、この世界ではそれが当たり前なのかもしれない。さっきの人混みで見た多くの顔からは、感情が感じられなかったから。誰だって、死んだことを喜ぶ人なんていないだろう。

「不思議な世界だよね。死んでいるはずなのに生きている。生きているようだけど死んでいる。ここはどちらの極地にも囚われない、中間の世界。生きていては感じられない、死ななければ分からない。私はそう感じたわ」彼女が言った。

「私も最初、ここに来たときには何が何だか分からなかったよ。色んな人が話していたのを聞いていたんだけど、周りの人が死んだというのなら、ここにいる私も死んだんだろうなって、やっと実感できたんだ」

「そうなのか、ぼくはどれだけ言われても自分が今死んでいるなんて納得できないぞ」

「そのうち分かってくるかもしれないよ。私もそうだったから」

「だってさ、今だってこうやってお互い会話できているし、物に触ることだってできるんだぞ?未だに信じられないよ」

 そう言って地面を手で叩いてみる。ごつごつとした鈍い音が返事をした。それをぼくはしっかり耳で感知している。

「世界は広いね、こんな場所まで存在するんだよ」

「広いどころじゃないぞ、これは。驚きすぎて言葉がもう出ない」

「観光なんてしてみてもいいんじゃない?結構四十九日間は長いから、ここでやれることはなんでもできると思うよ」

「死後の世界を観光って、変だな。でも四十九日か、確かに相当時間あるなあ。君は今何日目なの?」

 結構人見知りをするぼくだけど、この人となら思ったよりも喋ることができている。死んだことでコンプレックスからも解放されたのか、それとも単に気が合うだけなのか。どちらにせよ、顔見知りができたのは嬉しかった。

「私? 私は、そうだなあ、今日で三十六日目くらいかな」

「ちゃんと覚えてなくて平気なのか?」

「ここは時間っていう概念があまりないみたい。太陽も月もないからね」

 改めて、真っ白な空を眺めてみる。曇っているわけではないのに、どこまでも白い空にぼくたちは包まれていた。地球が始まったときも、こんな空だったとか?真っ白なキャンパスに、後から神様が青い絵の具で空を描いたとか?色んな可能性やら考えやらが噴水のように溢れ出てきて楽しいとすら思えてくる。

「せっかくだから、お互い無事に旅立てるまで一緒に行動しようよ。私、色んなとこ案内してあげるから」

 そう言って彼女が細い手を差し出した。

「その方がいいかもしれない。じゃあ、よろしくお願いします」

不安はないけれど、どうせ死ぬなら最期まで人らしく誰かと関わり、有意義だったと胸を張って終わりたかった。自由に動く腕を伸ばし、温もりの無い握手を交わした。


 ぼくが死んでから七日が経った。

 この世界にも衣・食・住の観念は存在するらしく、外を歩く人は皆、現世ではなかなか見られないような思い思いの服を身に纏い、なかなかお目にかかることのなかった高価な食べ物を貪り、高級ホテルのような小奇麗な建物から小さな民家など様々な環境での居住が許されていた。なんでも自由なので、空いている家やアパートを勝手に利用していいのだそうだ。ぼくは最初に目覚めた丘から近い場所にあった、小さな一軒家を見つけてそこを借りることにした。偶然なのか、近くには見知った学校や、近所にあった商店街、公共施設などがぞろりと立ち並んでいた。現世での実際の立地条件とは全然違うけど、建物自体は本物だった。身近だった存在がさらに身近になったことで、死という概念がさらに薄れていくのが分かる。

「皆、本当に死んでいるのかな」

 浮き沈みしている疑問をおもむろに口から放り出した。それを聞いた彼女が小さくふふっと笑う。

 先日行動を共にすることにしたぼくたちは、待ち合わせ場所を、ぼくの借りている家の近くの公園に決めた。一人よりは心強いし、この環境に慣れていないぼくにとっては単独行動することは不安というより危ないという気がした。

「あまりにも生活感がありすぎるだろ、まさか死んでまで食べたり寝たりできるとは思わなかったよ」

懐かしいブランコに揺られながら、物思いにふける。中間世界なんて呼び方などせず、いっそここは天国だと言い切ってくれればぼくはすぐに首を縦に振るのに。

「実際はもう眠っているのにまた寝るって、本当変な感じだよね」

 癖なのか、また小さくふふっと笑う。

「本当は食べなくても眠らなくても、体や生活には全く支障ないんだよ」

「へえ、それもやっぱり『死んでいる』からなのか」

 確かに、食べたい、眠りたい、という気持ちがあったわけではなかった。腹が減る感覚もなければ、眠気や疲れを感じることもないのだという。

「苦しいことも悲しいことも何もない。現世から解放されて、あらゆる命は全て必ずこの世界に集まる。それが叶っているここは、現世で誰もが望んでいる天国だと思うんだ」

「なるほどね。そういう考えもあっていいかもね」

 現世の人たちは、ぼくたち死んだ人間がこんな生活を送っているとは絶対思わないだろうな。死んでいるぼくたちですら疑っているんだから、きっと誰もそう思ってないはずだ。あまりにも不思議な感覚に、ぼくは笑うことしかできなかった。


 ぼくが死んでから十四日が経った。

「ねえ、君は来世のことどう思う?」彼女が言った。

「来世?」

「そう、来世」

「来世か、考えたことなかったな。結構現世は充実していたと思うけど、でもこの歳でこの世界にいるってことは、結果的に良くなかったのかもしれないし」

 お互い若いのにね、なんて彼女が冗談めかして言った。

「うーん、考えたことなかったな。でも、少なくともこの世界は想像の範囲外だったな」

 まるで他人事みたいだ。あくまでも、これは死んでいるぼくたちの主観の話。本当にそれほど、死んでいるという感覚が全くないのだ。

「私はね、死んだらこのまま終わるんじゃなくて、次の世界で全く別の、新しい自分に生まれ変わるって信じてる」

 ぽつぽつと彼女が語りだす。

「本当は、私が知っている今を生きてきた自分だって、その前の世界から生まれ変わった自分なのかもしれない。この中間世界に何回も来たことあるのかもしれない。人生は一度きりだけど、同じ人生は歩むことができないだけで、生きること自体は何度も行ってきたのかもしれない。記憶を継ぐことができないから、生きた証を忘れてしまうから、私たち人間は皆、死ぬことを恐れるんだ」

 確かにその通りだと思う。これまで築いてきたものが、自分の中で崩れ去ってしまうのだ。その破片だって、誰かが拾ってくれなければ道の砂利に混じって覚えてもらえなくなる。誰にだって忘れたくない記憶はあるものだ。

「それまで生きていた記憶は、全部ここに置いていくんだ。全ての記憶を失くした状態で、また新しい自分を始めていくんだ。今まで自分がどう生きていたかも、どんな最期だったかも、自分のことも、愛した人のことも。何もかも、忘れてしまうのは辛いけど、その辛さだって忘れられる。怖いけど、一種の喜びなのかもしれないね」

「上手くできているもんだな、世界って。でもぼく、すでに現世のこと思い出せなくなってきているんだけど……」

 そう答えると、思いついたかのように彼女がああ、と口にした。

「もしかして、準備が始まったのかな」

「準備?」

 彼女の言った言葉の意味が分からず、復唱する。

「そう。この世界はね、次の世界に旅立つまでの猶予を過ごすための世界なの。どんな過ごし方をしたって自由。でも、転生したときには全ての記憶を失っているの。生まれたばかりの赤ちゃんが『昔は良かった』なんて話したりしないでしょ? 次の世界で新しい人生を歩くために、これまで生きてきた記憶をここで少しずつ忘れていくの。それがこの世界の理。四十九日間は、記憶を清算して旅立つまでの期間なんだよ」

 まさか死後にそんな裏事情があるとは夢にも思わなかった。それなら来世で記憶を引き継いで生まれるという事例が無いことにも合点がいく。世の中の真理を垣間見ているような気がして、不思議とわくわくしている自分を発見してしまった。

「そうなのか!じゃあ、有意義に過ごして、次の世界に心おきなくいけるようにしないとな」

「うん。そうだね」

 彼女の声が力なく届いた。


ぼくが死んでから二十一日が経った。

 未だに死んだという実感は湧かないけれど、生きているという感覚もなくなってきた。この世界にいる限りは仕方がないんだと言われれば、なんだそうなのかと納得してしまえるようにもなった。死に馴染むというのも変な話だけど、そうとしかこの気持ちを表現することはできなかった。ぼくは今、死に向かっている。けれども、それと同時に、生へと向かっているんだ。ぼくたちは死の中を生きていた。


 ぼくが死んでから二十八日が経った。

「やっと残り時間が半分過ぎたね」彼女が言った。

「そっか、まだ半分なのか」

 随分と長い時間を過ごしてきた気がするけど、実際はまだその程度しか経過していなかったのだ。時間の流れを上手く知ることはできない。空はいつも白いままだ。

「結構長いんだな。あと半分も残ってる。特に何もすることないし、死んだあとに暇な気分を味わうとは思わなかったよ」

「ねえ、じゃあ今日は向こうの方を散歩してみようよ」

 彼女が声高らかに言った。

「散歩? まあ、寝ているよりはいいかも」

 なんだか情けないセリフだな、と思いながらも、ゆっくりと重い腰を上げ、彼女と並んで歩いた。不規則に立ち並ぶ建物の中を縫うようにして、街中を散策する。

 今まで通った場所とは雰囲気が全く違っていた。段々と人の通りが多くなり、ぼくの居住区の閑散とした空気と比べ物にならないくらい賑やかだった。それもそのはず、ぼくと彼女は遊園地に向かっているからだ。確か、現世で有名だったテーマパークだったと思う。アトラクションとキャラクターが大人気で、毎年大勢の人が訪れているみたいだ。まさかこんな世界で遊園地に来られるなんて。

「し、死後の世界に遊園地……? もう、なんだかわけが分からなくなってきた……」

「でもね、これは物質として存在しているわけじゃなくて、たくさんの人たちの記憶が集まって反映された、あくまで幻みたいな存在なんだって。一人や二人だけが知っているような小規模ものは、その人たちがいなくなっちゃえば存在として認識されなくなっちゃうけど、こんな風に誰もが共通して覚えているような大規模なものは、どんな世界でも存在できるみたいだよ。この世界にあるものは、記憶や存在を共有している人が多いものほど、色濃く反映されるんだって。逆に、小規模のものは、それを覚えている人がこの世界に留まっている間はその人の傍に反映されるんだけど、四十九日が経ってその人が消えてしまったら、その小規模なものも同時に消えちゃうの」

「へえ、結構機能的なんだな」

 流れゆく人の波を眺めながら頷いた。園内にいる人たちは皆、楽しかった過去を振り返っているように楽しんでいたけど、その瞳に光は宿っていなかった。

 すると、どん、と足に何かがぶつかった。その衝撃に目を落とすと、小さな男の子がぼくの足にしがみついていた。

「ご、ごめん! 大丈夫?」

 お互い一瞬目が合ったけど、男の子は「うん!」と元気な返事をして、よたよたと走っていってしまった。

「あんな小さな子までいる……」

 まだ幼稚園生くらいではないだろうか。そんな子供にまで悲劇は降り注いだのか。

「あの子は確か、交通事故で亡くなったって聞いたよ。家族で遊園地の帰りに、トラックにぶつけられたんだって」

「そっか。だから思い出の場所が遊園地でここにいるのか」

「あの子はもうすぐ四十九日目を迎えるの。でも、次の世界へ旅立つ日に近づくごとに記憶がどんどん無くなっていくから、あの子はもう自分が何故遊園地に留まっているのか、分かっていない。でも、とても大切な場所だということはまだあの子の中に残っているんだろうから、きっと今でもここにいるんだよ」寂しそうに彼女は言った。

「最期の、四十九日目には、どこかへ行ったりするの?」

 ふと脳裏をよぎった疑問が気になり、彼女に聞いてみる。

「最期もね、特に決まりは無いんだって。地域や人によっては、特定の場所に行って最期を迎えるみたいだけど、それくらいだよ。私こないだ道を歩いていたら、ちょっと古びたお店の前で、光になって消えちゃった人を見たの」

「光になって消えた?」

「そう。それがきっと『完全な死』なんだと思うよ。現世では土に還って、ここでは空に還る。そのあとにやっと、どこか次の世界へ生まれ変わるんだよ。こないだ見た人は、きっとそのお店が思い出深い存在だから、最期もそこで過ごしたんだね」

 なんとも神秘的な話だった。現世では一切有り得ない、それこそ漫画やファンタジーの中のような出来事だ。そんな死に方なら構わないかも、と、この世界に順応している考えを浮かべてしまったところで首を振った。

「それにね、もう一つ素敵なことがあるんだよ。最期を迎える瞬間、たった一つの『大切なもの』を、持っていくことができるんだって」

「大切なもの?」

「そう。現世で過ごしたときの、一番大事な思い出とか、ずっと傍に置いていた宝物とか。それを持って生まれ変わったときに、いつかまたその大切なものと巡り逢うんだ」

 このときの彼女の瞳はいつになく輝いていた気がする。それはなんだか、潤んでいるようにも見えた。

「あれ、でも、記憶とか忘れていくんじゃないの?」

「その人が望んでいれば、本当に大切なものは消えないよ。ただ、それが自分の中に残っているか、いないかの話」

 彼女がふと足を止めた。人混みはぼくと彼女の空間を避けて、何も気にせず歩いて行く。

「さっきの話は、人にも同じことが言えるんだよ。有名な人はずっと名前を語り継がれて生きていくけれど、ごく普通の一般人は、関わったことがある人にだけ覚えてもらうことができる。逆に、自分が周りの人たちを覚えていることもできる。それはその人の世界に自分が生きて、自分の世界にその人が生きているっていうこと。そういう意味では、生きるということも大切なものの一つになるのかもしれないね。大切な人の世界で生きることができたなら、その思い出が大切なものになるんだから」

「……どうしたんだよ、急に」

 ぼくはなんだか不安になった。彼女の言葉一つ一つが、強烈な重さを含んでいることが分かる。それはぼくの心にぶつかるように届いて、胸を締め付ける。

「生きることも死ぬこともできない、この中途半端な世界から次の世界へ旅立つことができない人たちは皆、持っている記憶を忘れられなかったわけじゃなくて、持っていた記憶を思い出せなかったから、ここに留まっている可哀想な人たち。それこそ、たった数か月前から数百年間、何かを見つけたくて、でも見つからなくて、忘れてはいけないことを忘れてしまった、寂しい人たち」

 ぼくは一つ、重大なことに気がついてしまった。いや、忘れていた。既にぼくの四十九日の期間は半分を過ぎた。自覚は無くても時は確実に進んでいるわけだから、この経過は当然のことで、何も問題なんかない。じゃあ彼女は?

――私は、そうだなあ、今日で三十六日目くらいかな――

 ぼくと最初に出会った時、彼女はそう口にした。それは、ぼくの猶予期間のカウントダウンが始まった日だ。けれども、その日から今日まで、ぼくはほとんどの時間を彼女と過ごした。つまり、彼女もぼくと出会った日から共に二十一日間を過ごしているのだ。そうなると、彼女はすでに四十九日の猶予期間を超えているということになる。

「……じゃあ、君は……」

 言いかけたところで、彼女が顔を上げた。さっきまでの明るい表所は一変、病気にでもなったような暗い顔だ。まるで人が入れ替わったような、そんな変貌ぶりだった。

「……私は忘れたわけじゃない」

 ぽつりと呟き、ゆっくりと彼女は空を見上げた。

「忘れられてしまったの」

 それは水面に落ちた雫の一滴が波紋となって広がるように、今いるこの空間に静かな残響をもたらした。

「私は私に忘れられたの。そして、誰も私を覚えていてくれなかった。私は誰の世界の中にも、私自身の世界にも存在していない。生きていない。でも私は私に関わりのあった人たち、私の世界に生きていた人たちを忘れたことはない。だからといってそれは他の人たちが私の世界で生き続けるだけであって、私が生きる証にはならない。だから私は半端者なの。だからこの世界に馴染んで留まることができるの。だから新しい自分に生まれ変われないの」

 彼女の声はどこか物悲しかった。

「忘れられるということは、存在していないことと同じことなんだよ」

 風が吹いた、気がした。心臓のあたりを鋭い刃に貫かれたような、そんな感覚が駆け巡る。

 くるりと彼女は来た道を振り返り、慌てたような早口で

「今日はもう、帰るね。また、会おうね」

 そう言い残して、背を向けて走っていった。

「あ、ちょ、ちょっと!」

 必死の呼び止めも空しく、ぼくの声は喧騒の中に溶け込んで消えてしまった。遠くに見える彼女の背中には、なにか黒く重いものがのしかかっているのをぼくは見た。彼女が走っていった先にはぽつぽつと居住区があるけど、古ぼけた病院があるせいか、住むどころか通る人さえあまりいないような地域だったと思う。そんな方向に向かっていくなんて、何か思い当たることでもあったんだろうか。

 ぼくは彼女の小さな背中を忘れることができなかった。

 

 ぼくが死んでから三十五日が経った。

 彼女は待ち合わせ場所に来なくなった。ぼくはずっとそこで待ち続けた。そうすることでしか、ぼくの心にぽっかり空いた穴をごまかすことができなかったから。ぼくは彼女が来るのを待ち続けていた。彼女が来ることはなかった。


 ぼくが死んでから四十二日が経った。

 気晴らしに散歩してみることにした。彼女と歩いた道もだんだん忘れてきて、よく迷子になりかけた。こんな最近の記憶にさえ影響するのか。なんだか気が抜けたように、何もかもがどうでもよくなってきた。それもこの世界特有の気質らしいけど、ぼくにはこれを世界のせいにすることはできない。変わらずぼくの中には彼女の裏が引っかかっていた。

 ぼくは彼女を知っている気がする。でも、何でそう思うのかすら分からない。

 ぼくは彼女に会わなければいけない。違う。ぼくは彼女に会いたかった。ただ漠然とそう思うだけだけど、それを探しださない限り、きっとぼくは次の世界へ旅立てない。ぼくは彼女に会いたかった。

 何も進展のないまま、こつこつと足音だけを鳴らして居住区へと向かう。まるでこの世界に一人しか存在していない気がするほど、静かだった。

 自分の宿泊場として利用している家の中に、ポツリと白い紙が置かれているのを見つけた。最初は何だか見当がつかなかったけど、一つの可能性を思い浮かべて、それにかじりつくように駆け寄ってから、自分が耳を塞いでいたことに気がついた。手紙が置いてあった。猶予期間の宣告通知ではない。遺書なんかでもない。紛れもない、彼女の手紙だった。



 『私がこの世界に来たのはつい数か月前。気がついたら、乾いた地面の上に寝転がっていた。最初はきっと、皆と同じ気持ちだった。顔を布で隠している人が、多くの人に次々と同じ説明をしていた。淡々とこなされるその説明を聞いていることで、私はようやく死んだことを実感した。そして、それが確信になるように、私にもその説明がされることを、膝を抱えて待っていた。けれども、案内人は私のもとにやってくることはなかった。私より後に死んでこの世界にやってきた人たちの方ばかり先に声がかけられていく。説明を盗み聞きしていても完全に聞き取れたわけではないため、「死んだこと」と「四十九日だけの猶予」という情報しか頭の中をぐるぐると巡っていなかった。私は急に不安になった。何故自分だけ何も言ってもらえないのか。自分だけ死の先の死へたどり着いてしまったのだろうか。襲い来る漠然とした恐怖に耐えることができず、私はついに自分から案内人に声をかけた。

「あの、私、随分前にここに来たんですが、何も説明されてないんです」

 すると案内人は、私が聞いた声の中で、最も冷たい質で答えた。

『誰ですか、あなた。いくらワタシたちでも、あなたのような人は認識することができません』

 そう言い放っただけで、別の人のところに行ってしまった。私は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

 私は認識されない存在。初めてそれを知った。けれども、理由は分からなかった。他の案内人に同じことを聞いても、同じ返事しか返ってこない。誰も、何も教えてくれない。恐怖は日毎に強くなっていき、死んでいるはずなのに自分の中の全てが消えてしまいそうな感覚に憑りつかれ、毎日毎日最後の日が来るのを恐れた。こんな終わりを望んでいたわけじゃなかった。

そして、私の四十九日が終わった。

私はまだ、存在していた。何も変わっていなかった。意識が無くなるわけでもなく、体が消えるわけでもなく、変化が一切見られないまま、ついに五十日目を迎えた。わけが分からなくなって、自分自身に問い詰めようとしたところで、私はついに気づいてしまった。


――私、何故死んだの……?


――私ね、自分のこと、何も覚えてないの。自分が何者だったのか、自分はどんな生き方をしていたのか、自分はどんな最期を迎えたのか。何も、覚えてないの。私自身が自分のことを知らないままここに来たから、案内の人たちも私がどんな人なのかを知らなくて、情報が入ってこないから私に一切説明をしてくれなかったの。

 でも、何故か私、君のことを知っていた。あの時街で君の手を掴んだのは偶然転んだからじゃなかったの。君の顔も声も、君のほとんどを知っている。けれども、何で知っているのかが分からない。私自身のことは何も知らないのに、何故か君を知っていた。それを言っておきたかった。

急にごめんね。君はもうすぐ何事もなく旅立てると思う。見守ることはできなかったけど、元気でね。次の世界が、君の望む通りの世界になりますように。この世界から祈っています』

 気がついたら、手紙を握りしめて、白い空の下を走っていた。どれだけ走っても疲労を感じることはないから、どこへだって君を探しにいける。なのに、肝心の君がいない。

 一日中走り回っていた。道行く人に尋ね続けた。誰も「知らない」「そんな人見たことない」「初めて聞いた」そんなことしか教えてくれない。違う。ぼくの知っている彼女はそんな小さな存在じゃない。ぼくの知っている彼女は、ぼくの世界に生きていた彼女は――

 洋風な建物の通りを抜けて、坂道を上っていく。頂上はどうやら堤防になっているみたいだった。横一直線に長い道がどこまでも伸びている。その線を目指して、全速力で駆け上った。

 辿り着いた先の眼下には、雄大な川が流れていた。驚くほど透き通っていて、日の光が無いのにキラキラと輝いていた。川辺には石が敷き詰められているのに、その隙間から力強くいくつもの花が咲き乱れていた

 ぼくは思わず息を呑んだ。景色の中央に、彼女がいた。川の向こうを見つめて、呆然と立ちすくんでいる。その足元には、根元から折られてしおれた花が、吹くことのない風に流されるのをじっと待ち望んでいた。

 ぼくは夢中で堤防を駆け下りて行った。途中、勢い余って躓いて、激しく転がり落ちた。痛みは感じないはずなのに、ぼくの目には涙が溜まり始めていた。石を蹴飛ばし、震える足に喝を入れて、彼女の元まで走った。

 彼女はただ驚いていた。そして、どこか嬉しそうな、悲しそうな顔をしていた。彼女は叫んだ。

「何で、何でここに、いるの?」

 答えはもう、ぼくの中に用意してあった。きっとそれは、この世界で出会ったときから、ぼくの中に眠っていた――

「ただ、ただ一緒に――」

 その言葉で、世界が音を立てて崩壊した。


 ぼくが、彼女と今回の現世で初めて出会ったのは、お互い中学生二年生の時だったと思う。彼女は、幼い頃から重い病にかかっていた。入退院を繰り返し、学校どころか外出すら許されなかったという話を聞いたことがある。そんな生活に嫌気が差した彼女は、ついに病院を抜け出した。冬が間近に迫った時期の夜、見つからないように素足で冷たい道をひたすら歩いた。そして、当時中学生でサッカー部に所属していたぼくは、日課であったランニングをこなしている最中に、道から飛び出してきた彼女とすれ違った。最初は何事もなく去ろうとしたが、ぼくと通りすがった瞬間、彼女はその場に倒れこんだのだ。何が起きたのか理解するのに数秒かかり、我に返ってすぐに救急車を呼んだ。ちょっと特殊な、ぼくたちの出会いだった。

 救急車に同乗したというきっかけから、成り行きでぼくは彼女の見舞いに行くことになった。しかし彼女はぼくの顔を見ていささか不機嫌になった。無愛想な態度に多少不快感を抱いたが、その時彼女がぽつりと呟いたのだ。

『助けてくれなかったら自由になれたのに』

 ぼくに与えられた不快感はすぐに消え、彼女がどんな人なのか、ただ純粋に知りたくなった。それからぼくは、時間がある時には彼女の見舞いに行くようになった。中学ではサッカー部に所属していたから、遅くまでの練習から面会時間終了間際の病院に直行することが日課になっていた。長くいることはできなかったが、少しでも彼女と話したかった。それと同時に、誰かがいないと彼女が危ない気がしたから。

 最初こそ彼女は警戒し、何も話してくれず、看護婦を呼んでぼくを追い出そうとまでしたこともあったが、ある日、ぼくたちの溝は急速に埋まることになった。

 いつになく冷たい風が体を包み込んだその日は、テスト期間で部活動がなかった。出来の良くないテストも午前中で終わり、早く帰ることができるようになったため、いつものように駆け足で病院へ向かった。もちろん彼女はこのことを知らない。今日は十分に時間がある。また追い出されたらそれまでだが、できる限り彼女と話したかった。彼女を救いたかった。寒さを感じなくなる程度に体が熱くなり、一息ついて、静かにぼくは病室に入った。そこでぼくは初めて、彼女が普段何をしているのか、何を思っているのかを知った。

 見慣れ始めた景色の中の、いつもと違うたった一点の違和感。明るく光が射しこむ窓の外を見つめて、彼女は泣いていた。相当涙を流したのか、顔や首元がぐしゃぐしゃに濡れ、激しい嗚咽を必死にこらえていた。

 ぼくは知らなかった。彼女の涙の意味も、今にも壊れそうなほど虚弱な体の奥に潜む苦しさも、差し込む光によって影が生まれる事実も、何一つ知らなかったのだ。

 ぼくの存在に気付いたようで、彼女は手元にあった枕をぼくに投げつけようとした。狭い部屋だったからうまく逃げられず、とっさのことだったから思わず目をつぶって顔面に走るであろうやわらかい衝撃に耐えようとしたけれど、いつまで経っても枕がぼくに飛んでくることはなかった。代わりに窓際からの泣き声が大きくなるばかりだった。すると、彼女がとたんに激しく咳き込み始めたので、足をもつれさせながらも、急いでベッドに駆け寄る。彼女がどういう病気なのか、未だによく分かっていないけど、度々喀血する、と看護婦さんから聞いたことがある。それほどまでに彼女の体を病魔が蝕んでいるんだ。彼女の骨ばった手を見てみる。幸いなことにその掌が赤く染まっていることはなかったから、小さくほっと溜息をついた。

 彼女が落ち着くまで、彼女の傍にいることにした。がたがたと音を立てて、隅っこに寄せられていた椅子をベッドの横に持ってきて座る。いつもはぼくが一方的に喋るだけ喋って、面会時間が終わったらいそいで帰るという、なんともあわただしい見舞いを繰り返していたけれど、ぼくは一つ大切なことに気付いた。今日は、ぼくからは彼女に一切話しかけなかった。ぼくの方が耐え切れなくなって声をかけてしまいそうになったことが何回かあったけれど、ただひたすら我慢した。ぼくが望んだ小さな未来が、きっとすぐそこにやって来ると信じて。

 彼女の方も、ぼくの顔を見ようとはせず、窓の外をひたすら見つめているだけだった。でも、涙は止まったようだった。隙間の開いた窓から流れてくる風が、白いカーテンと彼女の長い髪と一緒に踊り出す。ぼくは窓の外の、病院に寄り添うようにして立っている木の枝に、枯れ葉に混じって緑色の葉が落ちていないのを見つけた。その葉っぱだけが、地面に呼ばれるのを待っているように、風が吹く度激しく揺れていた。

「なんでここにいてくれるの」

 か細い声が発せられたのは、窓の向こうに星が瞬きはじめた頃だった。はっとして、ぼくは彼女を見た。相変わらず顔を合わせてはくれなかったけど、たったそれだけで、十分だった。しかし、口下手なぼくは、どう答えれば良いのか分からなくなって、口から小さく音をもらすだけで、沈黙を呼ぶ結果になってしまった。

「……ただ」

 ようやくひねり出した音は、彼女の叫びよりも小さかったけれど、ぼくの確かな音だった。

「ただ、一緒にいたいなって」

 本当に、たった一言だけが伝えたくて。ぼくが一方的に彼女を知ろうとしているような、友達にもなっていない関係なのに、何を言っているんだろうなって自分でも思っていたけれど、それが本音なんだから。

 彼女はついに、ぼくの顔を見てくれた。一瞬だけだったけど、ぼくと目を合わせてくれた。

 それからはすぐに布団に隠れるようにして、眠ったようだったけど、面会時間も終わりだったから「またね」と言い残して、病室をあとにした。この日のあの空間を、ぼくは一生忘れることができないかもしれない。



 次の日から、彼女はぼくに心を開いてくれるようになった。最初こそぎこちなかったものの、少しずつ少しずつ自分のことを話してくれるようになって、ついには笑うことができるまでになっていた。彼女は元々明るい性格だったことが分かるくらいに笑顔を見せてくれた。ただ、何も知らなかった。普通の人は普段何をしているのか、学生は何をするものなのか、スイーツってどういうものなのか、この本に載っているこれはどういう意味なのか、サッカーと野球は何が違うのか。色んなことを聞いてきた。

 ぼくは自分から勇気を出して、彼女の担当医に、彼女を外へ連れて行ってはダメかと頼み込んでみた。決断が下されるまで何故か相当時間がかかった。その間に季節は冬から春に変わり、ぼくもとうとう受験生になってしまった。部活は最後の試合まで続ける予定だけど、それが終わり次第受験勉強に力を入れなきゃいけなかった(ぼくはあまり成績がよくなかった)から、そのことを彼女に伝えると少し拗ねたようなそぶりを見せたけど、文句は言わなかった。

そしてついに、ようやく許可を貰うことができた。この時は夏も間近に迫っている時で、ぼくは学校で衣替えをしたばかりだった。いつも通り時間は遅いけど、部活と同じで毎日の日課と考えれば快くこなすことができる。看護婦さんにも顔を覚えられているため、馴染みの人に挨拶してから彼女の病室に行くようにしていたのだが、その時に看護婦さんから外出許可が下りたということを聞かされて、思わず大声をあげそうになった。

彼女よりもぼくが嬉しくなって、急いで彼女に報告しに行った。我を忘れて廊下を走って、看護婦さんに怒られたくらいだ。その話を聞いた彼女は、外という単語や概念にいまいちピンとこなかったみたいだったけど、病室にいるよりはということで了承してくれた。

 外出する日、ぼくは彼女を車椅子に乗せて、ゆっくりと病院の正面玄関に向かった。あまり遠くには行けないから、病院周辺を一回りすることくらいしか許されなかったけど、彼女にとっては初めての自由だったんじゃないだろうか。

「外に出たのなんて、いつぶりだろ」彼女が言った。

「そんなに出てなかったんだ?」ぼくは言った。

「本当に小さい頃から病院にいたから。なんでこんなに体弱いんだろうね。先生だって薬で少しずつ治していくしかないって言い続けて何年も経ってるんだよ」

「今は平気なんだ?」

「最近は少し調子よくなってきたんだ。酷い時は起き上がるだけで倒れこんだりしていたけど、今はそんなに」

 そう言ったそばから、突然彼女が咳き込み始めた。慌てて看護婦さんに教わった対処法を施そうとすると、彼女がそれを制止した。

「いいよ、大丈夫。今日は病気なんて忘れたい」

 言い放って、自分で車椅子を押そうとする。力がないのか、亀みたいにゆっくりにしか進まなかったけど、それでも彼女の表情は、いつになく煌めいていた。

「じゃあ、行くか」

 もう一度車椅子の後ろに着き、からからと音を鳴らしてゆっくり歩いた。入口の扉が自動で開く。同時に吹き込んできたゆるい風が心地よかった。

 コンクリートの地面に車輪が踏み込んだとき、彼女が発した第一声は「暑い!」だった。彼女らしいと言えば彼女らしい声で、ぼくは思わず吹き出してしまった。

「もっと違う感想はないのか?」

「だって、本当に暑いでしょ。でも、風が気持ちいい!」

 散歩している最中は、ずっと彼女は興奮していて、いつになく言葉を口にした。あれはなんだ、これはなんだ、と、まるで子供に物を教える親みたいな気分になってしまう。

 病院の周りを一周とはいえ、彼女が色んなものに目に留める度に足も止めたため、普通に歩くと十分で済むはずが四十分くらいかかっていた。もちろん病院に戻ったら、外出時間が長すぎるといって看護婦さんに怒られたけど、そんなことちっとも気にならないくらいに楽しい時間だった。

 それからというものの、彼女の調子がすこぶる良いときには外出許可をもらえることが増えた。雨の日にも出かけようなんて言い出すくらいに体調が良すぎるときもあった。ぼくはできるだけ彼女と出かけた。遠出はできないけれど、近所を彼女と散歩しているだけで、それまでぼくも気づかなかった多くのことを発見できて、ぼく自身の楽しみの一つにもなっていた。

夏休み前にはぼくの部活の最後の大会があったから、二週間くらい行けなくなったこともあったりした。結果は三位だったけど、友達と泣いて笑って、有終の美を飾れたんじゃないだろうか。そのことを彼女に報告したら、満面の笑みでおめでとう、お疲れ様と労ってくれた。

 部活は終わったものの、高校受験が迫っていたので、今度は勉強のためにお見舞いに来ることが難しくなった。頭は良くなかったからなおさら勉強に励むしかなくて、夏休みが終わったら毎日のように放課後居残り勉強していた。

 その甲斐あってか、新しい年を迎えて、冬の終わり頃の受験本番、ぼくは見事に合格を勝ちとることができた(きっとぎりぎりだったんだろうけど)。卒業証書を片手に、久しぶりに彼女に会いに行った。しばらく会わないうちに、彼女の顔つきも少し大人っぽくなった気がする。その日は病院で静かに、ぼくの卒業と来たる入学を祝ってもらった。

 ただただ、幸せな時間だった。ぼくの頭の中にはいつだって彼女がいたし、新しい高校生活も充実していた中で、彼女に会いにいくことを忘れた日はなかった。彼女もぼくの学校生活を聞いていて興味を持ち始めたのか、家庭教師に来てもらって勉強することにしたそうだ。ぼくが病室に行くと、彼女はいつもそれを喜んでくれた。こないだはついに自分一人で外に出ることができたという話を聞いた。ぼくは自分のことのように嬉しかった。もう、彼女はぼくの一部だったんだ。彼女もぼくも、幸せだったんだ。

 彼女に異変が起き始めたのは、ぼくが高校三年の秋を過ごしていたときのことだった。ちょうど、初めて彼女と出会った時期だった。

 ある日、病院を訪れると、看護婦さんに

「今日は調子が悪いから会いたくないって言っていたの」

 と伝えられた。何か理由があったのかもしれないけど、彼女がそう言うのなら、無理に会わないことにした。気になって、次の日も、そのまた次の日も病室に行ったけど、彼女はベッドでぐったりと横になったままだった。ぼくはなんだか不安になった。

 風が強く吹き付ける夜。面会時間を過ぎてしまったが、こっそりと病院に入ったぼくは、真っ先に彼女の病室へ向かった。彼女は揺れる窓をじっと見つめていた。こっちからは表情が分からない。

「最近、どうしたんだ? 何かあったの?」

 ぼくの気配に気づかなかったのか、びくりと肩を震わせて、反射的にぼくを見た。その時の彼女の瞳を見て、ぼくは激しい衝撃を受けた。

 泣いていた。顔中をぐしゃぐしゃに濡らして。部屋は荒れていた。彼女の顔や体のあちこちに、傷や痣が目立っていた。

「なん、だよ……それ」

 彼女は怯えるように、自分の体を抱きしめた。口から漏れる嗚咽は徐々に激しくなっていき、ついには激しく咳き込んでしまった。急いで彼女の元へ駆け寄る。喀血していた。

「死にたい」

 唐突に、ポツリとそうこぼした。

「え……」

「家庭教師の先生からは、辛いならやめた方がいいって言われた。病院の先生からは、もう治らないんだって言われた」

 感情を失ったかのように、淡々と語る。虚ろな瞳と痩せ細った体、冷たい言葉に、ぼくは思わず恐怖を感じた。

「お父さんとお母さんからは、お前は邪魔だ、お前なんてもういらないって言われた……」

 ふふ、と小さく彼女は笑う。

「結局私は、こんなになってまで頑張って生きた意味がない。私は何のために皆を想い、皆のことを知ろうとしたのか分からない」

 信じられなかった。何が彼女を狂わせたのだ。何が彼女をここまで追い詰めたのだ。何故彼女の心は、こんなにも苦しんでいるのだ。

「誰も私を見てくれない。もう誰も私のことを知る人がいない。私はもう誰の中にも生きていない、私が死んだって誰も私を思い出してくれない。こんな私が私は嫌だ」

 そして彼女は力なく、けれどもはっきりとした声で叫んだ。

「お願い、殺して」

 彼女との記憶に亀裂が走った。

「私はもう助からない。助かりたくない。どうせ死ぬなら、私はあなたに殺されたい。病気なんかに殺されたくない」

 ぼくの心にヒビが入った。

「なんで私はこんなにも弱いの。なんで私は生まれてきたの。弱い私はいらない、私のせいで私はこんなにも、こんなにも!」

 ぼくの視界が歪み始めた。

 彼女はぼくの腕をつかんで、必死に揺り動かした。彼女とは思えない手の力に、呆然としていたぼくの意識が戻ってきた。彼女はもう、ここにはいなかった。ぼくの世界にいた彼女はどこにもいなかった。

「私はもうこんな私を消し去りたい!こんな自分を忘れ去りたい!」

 幸せだったんだ。幸せだったはずなんだ。

 違う。これは彼女じゃない。ぼくの知る彼女は、こんなに弱くはなかったはずだ。もっと、笑えていたはずなんだ。ぼくの記憶の彼女がいない。ぼくの世界の彼女がいない。探さなくてはいけない。彼女は結構寂しがり屋なんだ。ぼくが帰る度に、いつもひっそりと泣いているって看護婦さんから聞いたことはある。いつも、その小さい体に何を抱えていたんだろう。彼女はずっと、たった一人で戦っていた。ぼくは結局、何もしてやれなかったのか。何も……

 彼女がぼくに手を伸ばした。赤い線が入り乱れていて、痛々しい手だった。そこから流れ出る激しい色を、ぼくは怖くて見ていられなかった。彼女はここにはいないんだ。ぼくの世界からぼくを置いて、どこかへ旅立ってしまったんだ。

 ぼくは彼女の濡れた顔に触れた。唯一、涙は熱かった。ぼくは彼女の首に触れた。そこから発せられる悲鳴が、ぼくの脳をかき乱した。見ている景色を信じたくなかった。ぼくは今を忘れてしまいたかった。


 そしてぼくは、この無力な手に力を込めた。

 愛したものを、自分で壊した。

 愛していたから、ぼくは―


 冬の寒さも厳しくなった。ぼくの罪を苛むように、冷たい風が指先を、頬を、体をじりじりと凍えつける。けれども、痛くはなかった。何も、感じなかった。

 雪が降った。闇から光が舞い落ちてくるような景色で、とても幻想的だった。道を歩く人々は皆、その光を浴びて喜んだ。けれども、ぼくの望んだ光は差してくれなかった。

 新しい年が始まった。世界がまるで昨日までのことを忘れたかのように、この日を盛大に祝った。けれどもぼくは、一刻も早く一日一日が終わることを待っていた。

 毎晩夢を見るようになった。色とりどりな世界にぼくがいて、その真ん中にはとても綺麗な白い色があった。けれども、その純粋さに手を伸ばした瞬間、他の色と混ざり合って消えてしまい、そこから恐ろしい黒色が滲み出てきて、ぼくだけを残して世界を覆い尽くす夢。そこに何色が存在していたのか、ぼくは思い出せない。

 ぼくは何に怯えていたのか分からなかった。何故こんなにも苦しいのか分からなかった。重い罪の意識が体中にのしかかっているけれども、何故ぼくはそれを抱えなければいけなくなったのか、分からなくなった。胸にぽっかりと空いた穴に、何が存在していたのか分からなくなった。

 ぼくは確かに、大切な何かを持っていたんだ。けれども、急にその存在が怖くなって、それを忘れたとたん、ぼくの世界からそれは消えた。存在していたことすらも思い出せなくなるかもしれない。分からないことが、知らないことが、忘れることがこんなに恐ろしいなんて。忘れられた存在が『思い出して』と泣き叫んでいるはずなのに、その声が全く聞こえないんだ。それがどれだけ悲しいことかも、寂しいことかも、ぼくは知っていたはずなのに。

 ある日、ぼくは夜中にふらふらと外へ出た。寒さがだいぶ和らいできた頃だった。足取りがおぼつかなく、何度も転んだり、壁にぶつかったりした。体中、傷だらけだ。痛くないから、どれだけ傷をつくったって問題ない。月明かりのない道を、壁伝いに歩いて行く。

 中学の部活練習でよく通った堤防に着いた。草が揺れる傾斜を見下ろすと、その下には空の闇に紛れて大きな川が流れている。ゆっくりと緩やかな斜面を下りていき、水に触れる寸前まで近づいて、その場に立ちすくんだ。前かがみになって自分の顔を水面に映してみたけれど、黒が無限に広がっているだけだ。ぼくの世界にぼくだけの色がなくなったから、きっとたくさんの色が流れ込んで混ざっちゃったんだろうな、なんてのんきに考えてみる。

 右足を一歩、前に踏み出した。とたんに足先から水に沈んでいき、丸い石にぶつかる。続いて左足。また右足。靴や服が水を含んで一層動きが重くなる。膝下まで濡れ始めたところで、ぼくはふとあることを思い出した。

 いつも見ていた夢のこと。多くの色に包まれていた、夢。どんな色も素敵だったけど、色を持たないぼくにとっては眩しすぎて、馴染むことができなかった。ぼくだって覚えてもらうために色を欲しがったけど、どの色も分けてくれなくて。たまに少しだけもらっても、他の色と混じっちゃったりして美しくはなかった。ぼくはずっと透明なままなのかって思っていたら、そこに一つの色が現れてくれたんだ。それはとっても儚く、純粋な――。

 涙が止まらなかった。目から溢れる悲しみを隠そうとして、川の中央目掛けて走った。足が上がらないけど、必死に腕を振って、水をかき分けて、無我夢中で進んだ。激しく飛沫が飛び散り、腰が浸かるほどの深さまで来ていた。体が悲鳴を上げ始め、中央に辿り着く前に足が力尽きてしまった。ぼくはほとんど半狂乱で、寒くないのにがちがちと歯を鳴らし、叫び声を上げて水を叩き、何かを呼ぶように空に手を伸ばした。喉が枯れ果てたところでついにその手をぴしゃりと水面に落とし、腕を沈める。

 ぼくは透明じゃなかったんだ。ぼくの世界は、いつだって色とりどりに咲き誇っていた。それはたった一つの、ある何かを想う証で、ぼくの世界はいつからか、その想い一つで成り立っていた。今は崩壊してしまったけれども、その中でぼくは、君を……

 がくり、と膝を折った。水位が喉の上まで達した。最期にぼくは、黒の夜空を見上げた。その闇の中に、白い一等星の輝きを見つけた。ぼくは小さくふふっと笑って、目を向けなければ見えない世界に沈んだ。







「――また、こうして思い出せた。ぼくはただ、君への想いを伝えたかった。でも、ぼくが犯した罪が怖くて、逃げた。君がいなくなった世界じゃ、ぼくはもう生きていけなくなった。ごめん……ぼくは……」

「ううん。その想いを、こうして私に持ってきてくれた。それだけで、満足。それが、全て。会いに来てくれてありがとう。ごめんなさい。ごめんなさい」

 彼女は声を殺して泣いた。それこそ混じり気のない透明だった。ぼくは彼女の肩に手を置いて、真っ暗な宇宙空間を見つめた。

「前に、君は言ったよな。『忘れられるということは、存在していないことと同じこと』だって。そういう認識もできるかもしれない。でも、君は生きている。ぼくは君の存在を忘れてしまっていたけれど、その間君は確かにこうして存在していた。ぼくは意思のある君と時を過ごした。だからぼくは、少しずつ、少しずつ、君を思い出すことができた。君が、君と関わりのあった人皆から忘れられてしまっても、君がその人たちを覚えていたなら、何度だって生かすことができるんだ、存在することができるんだ。ぼくが君を思い出せなくなっていても、君はぼくを覚えていてくれた。だからぼくは君に辿り着いた。同じ理屈だよ。自分のことを覚えていれば、自分の世界に存在することができる、自分を思い出させてくれる。自分のことすら忘れてしまったら、それこそ存在していないことになるんだ」

 これまで築いてきたものが自分の中で崩れ去ってしまい、その破片を誰かが拾ってくれなければ、道の砂利に混じって覚えてもらえなくなる。けれども、覚えてもらえてなくたって、破片として確かにそこに存在している。何故ここにこんな破片があるのかと、誰かがそう思ってくれれば、存在を認めてくれれば、破片はまた生きることができるんだ息を吸って、ぼくの中にたった一つ残っていたものを、君の中に差し出した。

「だから、思い出して。ぼくは君を忘れていない。ぼくは君を覚えている。ぼくは君を思っている。ぼくと君は繋がっているんだ」

 彼女は頭を抱えてその場にうずくまった。まるで幼い子供のように、小さくうめき声をあげて、泣き続けている。

酷く痛い声だった。ああ、そうだ。どんなに彼女が強がりを言っていても、ぼくにとってはいつだって、泣いて救いを求めているように聴こえたんだ。まるで神様に祈りを捧げるみたいに。

 顔を覆った手の隙間から、ついに彼女の産声が発せられた。

「治らない病気が辛くて、死にたいなんて毎日のように考えてた。でも、心のどこかで、誰かの世界で生きたいって、ずっと思ってた。私を覚えていてほしかった。誰も私を覚えてくれる人がいなかった。私は私の世界に生きていても、誰の世界にも存在してなかった。周りの人のことを私が覚えていても、周りの人が私を覚えてくれているわけじゃなかった。だから私は、そんな私が嫌いだから、消えてしまえと願ったんだ」

 それが、初めて出会った時の彼女。その姿はとても弱弱しく、涙の味と白い病室の世界しか知らなかった。

 今ぼくの前にいるのは、ぼくが愛した全ての彼女。その姿は今にも壊れそうだけど、笑顔の意味を知ったから、世界の広さを知ったから、彼女は何よりも強かった。

「君は私を殺していない。私を殺したのは、私。君は何も悪くない。君は私を助けてくれた。私を生かしてくれた」

次に顔をあげた彼女の瞳には、いつかぼくが愛した星が宿っていた。

「君の記憶に、私が生きた証があるのなら、私の、私の名前を呼んで。私をもう一度、君の世界に生かして」

 この瞬間、世界の時が止まったように静寂がやってきた。ここはもはや死後の世界なんかじゃない。今ここで、ぼくたちの世界が結ばれたんだ。


ぼくはたった一つの、大切な想いを呼んだ。



 ぼくが死んでから四十九日目になった。

 ぼくたちは、川が下に見える傾斜に並んで座っていた。いつか見た光景と重なっていた。記憶どころか、感情、感覚、生きていたときにこの身に宿っていた全てが今、解放されている。体がとても軽い。何かを考えようにも、考えることがなにもなくて、ただひたすら頭が真っ白になるだけだった。ぼくの隣には彼女がいた。ずっとぼくの手を握ってくれていた。

 自分を取り戻した彼女は、ようやくこの世界で死ぬ権利を手に入れ、四十九日のカウントダウンが今日始まったんだそうだ。最初にぼくに声をかけてくれた案内人が、彼女にその説明をしにきたけど、彼女は得意気になって「もう大丈夫、分かってます」なんて言って笑っていた。

 空は白いままだった。ぼくたちはただ、その空をじっと眺めていた。ぼくはもうすぐ、あの空の向こうへ飛び立って、遥か彼方の別の世界へ生まれ落ちていくんだ。そこではきっと、前とは違う生き方をするんだろうけど、彼女もまた、同じ世界に生まれてくるって信じている。

一緒に旅立つことはできないけれども、ぼくが生きていた証を、終わる瞬間を、次に会ったときに彼女に教えてもらうことができたら、なんて思ってみたりした。

 彼女が手を握る力を強めた。ふと自分の足を見てみると、つま先から光の粒子が飛び散っていて、徐々に空気と一体化していた。ふわふわ揺らめく光はまるで蛍のようで、ぼくたちの周りを漂って消える。別れのときが、来たんだ。

「行っちゃうんだね」彼女が言った。

「そうだな」ぼくは頷いた。

「次はどんな世界なんだろうなあ。私は、次は健康に生まれたいな」

「前は……病気だったんだ?」

「そっか、もう記憶が無くなってるんだね。そうだよ、私は幼い頃から重い病気に悩まされていたの。両親は私の世話が嫌になったみたいでほとんど私に会いにきてくれなかったし、病院の先生だっていつも私が機嫌悪くしていることにうんざりしていたみたい。学校になんて行けなかったから、友達だって一人もいなかった。私は皆のことを知っているのに、皆私のことを忘れていたの。でもそんな中、私を助けてくれた人が現れてね、その人はいつも私に会いに来てくれて、話をしてくれたり、色んなところに連れてってくれたりしたよ。なにより、私を覚えていてくれた。初めて私が誰かの世界に生きることができたんだよ」

「そうなんだ、じゃあその人はとても素敵な人なんだね」

「そうだよ、今の君みたいに、忘れん坊だったけどね」

 膝下まで、ぼくの体が消えていた。不安はない。すごく、穏やかな気持ちだ。

「もう、何も思い出せなくなってきた。子供の頃の思い出や、学校での出来事、何年まで生きたのか、ぼくは何故死んだのか……。でも、もうどうだっていいんだ」

 彼女の細い手を両手で包み込み、祈るように額に当てた。まるで女神様に誓いを立てるような人みたいに。

「ぼくはもう、あなたに関する全てを思い出すことはできないけど、記憶を継ぐことができなくても、言葉にできないこの溢れる想いを、忘れることなく次の世界へ持っていけるなら、何度でもあなたに届けにいくと思うんだ」

 女神様は静かに頷きながら、ぼくの手にそっと口づけした。その箇所からも光が溢れて拡散していく。もう、思い残すことは何もない。あとは向こうへと渡る翼を授かるだけだ。

「そのときはまた、私の名前を呼んで、思いださせてね。君はいつまでも、私の世界に生き続けています――」

 泣きたくなるほど美しい光景が、そこに広がっていた。

 本当に、それくらい、美しかったんだ。

 真っ白な世界に、ぼくと彼女がいた。二人はお互い微笑みながら、その世界で生きた証を呼び続けていた。忘れることのないように、何度も。思い出せるように、ずっと。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] この作品の雰囲気自分はすごく好きです!!。最後の方感動しました。 次の作品も期待して待っています。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ