<Ⅱ>パンで有名な町2―Braed town―
次の日の早朝。
この日は、散歩にはうってつけの気持ちのいい朝でした。
風は穏やかで、空気はひんやりとしています。
というよりむしろ寒い方で、長袖長ズボンで活動しないと寒さで震えるくらいです。
もうじきこの町にも雪の季節が訪れることでしょう。
そんな予感がします。
空には恒常な雲が所々、まばらに存在しています。
それはまるで、ミントグリーンの空に橙色の絵の具でぐしゃぐしゃと不器用な線を引いた絵を描いているかのようでした。
それが時々オレンジ色に染まっていたり、緑だったり灰色だったりと、なかなかに見ごたえのある綺麗な景色です。
金色の太陽は家と家の隙間から顔を覗かせ、今日もこの町の人々に一日の始まりを告げています。
そんな朝を迎えた町では、着々と明け方前の静けさが薄れ始めてきました。
家からは点々と明かりが灯り始めたり、その家の主人が表に出て花壇の草花に水をやったりと、町はいつも通り活動を始めます。
そしてもう一つ。
その町はパンの香りに包まれていました。
夜からパンを作り、発酵させ、それを焼く。
早朝の時間帯になれば、そのパンたちはだんだんと出来上がり始め、表面には薄い狐色が現れ始めます。
何と言っても、その香りは食欲をそそるのです。
家ごとに違う焼き方、作り方があり、同じパンでも実に個性にあふれた香りが町中を包み込みます。
かすかに甘い、オーソドックスなパンの香り、シロップのような甘い香り、果物を焼いたり煮たりしたような甘酸っぱい香り、ハーブのスパイシーな香りだったりと……
とにかく様々です。
その町の早朝はいつも、そんなできたてのパンのにおいから始まります。
その建物は、2階建て、木造建築の一般住宅でした。
屋根は上に尖がった三角形をしていて、この地帯は寒くなると雪が降ることを教えています。
その家の窓の枠には、植物が植えられていました。
観葉植物扱いとして、日の当たる窓際を場所として選んでいるのでしょう。
その植物は飲み物を飲むときに使うようなカップに植えられていて、さらにはご丁寧に、下に置くソーサまで用意されています。
それは緑色の葉をつけた、花の咲いていない花でした。
そこへ、家の主人でしょうか。一人の少女がやってきました。
髪はボブカットの黒髪。耳を覆い、長さは肩に届かない程度。
目元の二重がくっきりとしていで、陽光で透かす瞳は、黒とグレーの輝石のようです。
スラリとした長い手足、少しきしゃですが結構良いスタイル。
全体的に見ても、ハッとするほど綺麗で、そのせいか感情が乏しいような、どこか儚げな印象を与えます。
そんな彼女はその植物に、水を上げていました。
土はカラからです。植物は水分を求めています。
彼女はそれに上げすぎないように、また、少なすぎないように、水を注いでやります。
赤色の透明な液体が土に吸い込まれていきます。
―――――どうやら彼女があげていたのは、水ではないようです。
彼女は今自分が飲んでいるカップから、紅茶をそのまま注いでいました。
赤色の紅茶が土に吸い込まれていきます。
ちなみに、彼女が淹れていたのはホットです。
彼女は「水撒き完了」と短く言いました。
それから椅子を後ろ足で立たせてのけ反らせていた体勢をやめ、席に向かい行儀よく座りなおします。
「そんな扱いをしていると枯れるぞ」
と、黒猫は言いました。
普通猫は喋れませんが、そこはとりあえず放っておくとして。
彼女はそんな黒猫に対して返事をしました。
「じゃ、早いとこ朝食いただきましょうか」
会話が成立しませんでした。
「…………お、おお」
一瞬何か言いかけようとした彼ですが、もうどうでもいいという風に何かをあきらめました。
これが彼女たちのいつもの食卓です。
彼女らは「いただきます」というと、早速準備しておいたパン―――――サンドイッチを頬張り始めます。
「……うん、いい味です」
彼女はサンドイッチを口に含み、思わず感想を漏らしました。
「なかなか、美味いのう」
同じく彼も、彼女と同じようなものを食べています。
こんがり狐色をしたパンには、チーズ、未だに軽く水滴の付いたトマトやレタス、ピンク色のハムやらがはさまれていいました。
彼の分は材料ごとに分解されています。
サンドイッチでは食べにくかったからです。猫にとっては……
「あそこのパンはいつ食べても美味しいんですよね」
この建物の向かいの店は、パン屋です。
彼女らはいつもと言っていいほど、毎朝の朝食はそこで買ったパンを食べています。
距離はここから滅茶苦茶近いです。ご近所です。ここから向かいです。
テーブルの上には、あと半分ほど残った細長いパンが皿の上に半分に切られて置かれています。見るからに固そうで、実際もかたいです。
彼女はテーブルに置いてある細長いパンを、ナイフで切り分け始めます。
その時、彼は言いました。
「で、美味いのはいいんじゃが、ここ1週間……いや、2週間か。それぐらいの間ずっと、朝食での主食はパンだったような気がするのじゃが」
それに対し彼女は、何でもないという風に、
「ええ、正解です。というか、今更気付いたんですか?」
「………」
実は彼、内心では前々から気づいてはいたけれど、経済的状況やその他の原因のことを考えて、空気を読んでそして察して。だからあえて言わなかったのだ……
と、心の中でツッコみました。
一方の彼女はそんなことなどどうでもいいという風に、口にパンを運びそれを頬張ります。
そして次に、テーブルにおいてある細長いパンをナイフで切り分け始めます。
もう一度、切り分けます。
「………アリア?」
「何ですかシュレ?」
「くれぐれも――――――」
「食いすぎないように……分かってますよ。来るか来ないかわからない客の為に私は朝食を削るんです。でももし来ちゃったら前みたいなことになるかもしれないから私は朝食を削るんです……はぁ、」
「あーあー、聞こえん聞こえん」
と言っている傍で彼女は、ハムをフォークで突き刺し、口に運びました。
それが最後のひとかけらということに気付いた時にはもう既に遅く、もう食器には何も残っていません。
一瞬肩を落とした彼女でしたが、しかし、彼の食器にはまだいろいろと残っています。
それを目ざとく見つけると、
「……あ、食べないんでしたら、シュレのトマトもらいま――――――」
「嫌じゃ」
「じゃ、ハムを―――――」
「嫌じゃ」
「じゃ、おかわり――――――」
「アリア?」
「……冗談ですよ」
「――――――ふぅ、さて。朝食も済んだことですし」
彼女はナプキンで口元を軽く吹いたあと、手を合わせて「ごちそうさま」を言いました。
彼も一緒に続けます。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
彼女は紅茶の最後の一口飲み、それから食器をかたずけ始めました。
もちろん、洗うことも忘れません。
それからうがい、着替え、掃除などを軽く済ませていき、次に家の玄関の扉を開けました。
頭上からは、きらびやかな鈴の音が響きます。
彼女は太陽の光に目を細めながら、大きな伸びと大きな深呼吸をしました。
肺の中に新鮮な空気が満ちてくるのが分かります。
それとともに、ほんのりとパンの香りが混じります。
彼女は大きく息を吐くと、玄関に掛けられていた金属製の表札、『CLOSE』の文字をひっくり返すことで『OPEN』にしました。
「今日も、テキトーに、頑張りますかね」
彼女は朝焼けの空を見上げ、一人呟きました。