<Ⅰ>パンが有名な町―Bread town―
――――――――Ignorance is bliss
無知こそ幸いである―――――――
ある夕暮れ時の町にて
そこは、ある程度大きな町で、ある程度住みやすい町でした。
四季もある程度分かれていて、雪も降りますし、半袖で過ごすほど暑い時期もあります。
そして、町中には様々なお店がありますが、特に、パンが美味しいということでも有名な町だそうです。
そんな町に、ある一人の少女がいました。
彼女は、ある建物の中で軽く休憩を取っていました。
おそらく買い物をしてきた後なのでしょう。
足元には紙袋がいくつか置かれてあり、その中には真っ赤な色をしたトマトや、少し土の付いたキャベツなどの野菜、大きく切られたハムやこんがりときつね色に焼かれた細長いパンなどが入っています。
その少女は窓辺の席に座っており、手には食べかけの小麦粉を使った甘い食べ物が3口ほどかじられた跡が見られます。
ちなみにこの町の人たちが言うには、それは“クレープ”と言う食べ物だそうです。
テーブルにはゆらゆらと真っ白い湯気を立てる紅茶があり、他にも白い磁器製のソーサやガラス製のポットなども置かれています。
それが窓から差し込む夕日によって、特にガラスのポットについてはまるで宝石のようにキラキラと赤く輝いていました。
その少女は何を考えているのでしょう、ぼんやりと窓から外を眺めていました。
時々思い出したようにクレープと言う食べ物を口に持っていき、その後湯気の立った紅茶を一口飲みます。
それからまた外を眺めます。さっきからその繰り返しです。
夕日が眩しそうですが、目を細めながらもぼんやりと眺めていました。
彼女の目線の先では、ふくよかなおばさんが店の前で人と話していました。
そこは、彼女が今いるこの建物の向かいにあるパン屋です。
おばさんの手には紙袋がありその中には細長いパンが入っていました。
話している内容は分かりませんが、笑いながら話している所を見ると世間話でもしているのでしょう。
店の中からそんな様子を何となく見ている少女は、それを見て何を思っているのでしょうか、はたまた何も考えていないのでしょうか。
その光景をボケーっと眺め続けていました。
そうしているうちに時間は過ぎていき、何分か経った頃。
ふと彼女が自分の手元に目をやると、いつの間にか紙だけが残っていました。
少女は一度ちらりと外に目をやっても、もう眩しさで目を細めることはありません。
空の橙は次第に黒い青へと塗り替えられていきます。
「ご馳走様でした」
彼女は両手を合わせてそう言うと、テーブルの上に置かれているカップやらソーサやらを片づけ始めました。
それを台所まで運び、早速洗い始めます。
タワシに石鹸をつけ、軽く泡立てるとそれで食器を洗っていきます。
もちろん、長袖のシャツの袖が濡れないように捲し上げることも忘れません。
しばらく、カタカタカタと、磁器同士がぶつかり合う高い音と水の流れる音だけが響きます。
その時、
「ふぁー。……やっと終わったか」
ふと、どこからともなく声が聞こえてきました。
おそらく、寝ていたのでしょう。それはあくび交じりの声でした。
また、その声は年老いた男性のようにしわがれていて、口調もどことなく年寄っぽいです。
しかし、何とも不思議なことに、この部屋に人は彼女しかいません。
もちろん彼女が喋っている訳でもありません。
元に彼女は口を開けていませんし、彼女はこんな声ではありません。
では、この声は一体どこからするのでしょうか。
その声は続けます。
「で、今日の夕飯はどうするんじゃ? どうせもう腹に入らないんじゃろ?」
彼女はその声にほとんど驚く様子もなく、目線は今洗っているカップに向けられています。
彼女はその作業を淡々とこなしながら、表情を少し変化させ、やや苦しげに答えました。
「ええ、もうきついです」
「そらのー」
その声の主は何とも他人事のような口調で答えました。ぶっきらぼうとも言います。
「パン4つに紅茶5杯。で、さっきお前さんが食っていたクレープというやつ……
よくそんなに食えること」
「ええ、だから私もびっくりしています」
彼女は「今更ながら、吐き気が」などと言いながら口を押さえるしぐさをしました。
もちろん、仕草だけです。
「ところでシュレは、何処へ行っていたんですか? 昼食以降見かけませんでしたが?」
彼女は、その謎の声の主、“シュレ”と呼ばれた“彼”に問いかけます。
シュレと呼ばれた彼は、少しの間を置いた後、どこか面倒くさそうに、疲れたように答えました。
「昼寝、散歩」
「さすがです。有意義すぎますね」
「おかげさまで」
と、そんな皮肉の言い合いをするのが彼女らの日課です。
さて、そんなくだらない会話をしているとき、どこからか、低い、獣の嘶き声が聞こえてきました。
しかし、それは蚊の鳴くような小さな音ですので、威厳とかそういうものは一切感じられません。
「………」
「………」
この場にいる彼女らにはその正体は分かっているでしょう。
空腹なんかの時によく鳴く、腹に棲んでいるアイツの鳴き声です。
腹の虫の音です。
その出所はもちろん、シュレと呼ばれた人物(?)のお腹から。
「で、先ほどから腹の虫が鳴り止まないのじゃが……」
「………」
「………」
「………」
「……無視か!」
怒っています。
キレています。
それも当然でしょう。
彼女は未だに一度もそこに視線を受けていないのですから。
わざとらしく無視したのですから。
「儂の夕飯はよ」
荒っぽく、少し疲れている感じがひしひしと感じる声です。
というか、人に向かって……しかも、食器を洗って忙しくしている少女に向かってこの態度はないのではないでしょうか。
せめて、自分で用意するということくらいはできるのではないでしょうか?
例えば、そこら辺に転がっているコンソメスープの素、インスタント食品なんかを調理したりと、頭と手を使えば誰だってできることです。
ただ、自分で用意できればの話ですが。
「えー? いるんですか?」
彼女は彼に負けないくらい怠そうな口調で答えました。
「当然じゃ!」
彼女は一つため息をつくと、そのとき初めて自分の手元から、洗っている食器から目を離しました。
そして、やっとそこへ視線を向けたのです。
そこにいたのは、真っ黒い毛皮みたいな小さな生き物でした。
握りこぶしくらいの大きさくらいしかない小さな顔に、大きな耳が二つ。
口には黒いヒゲが生えていていますが、決して偉そうには見えません。
そして、黒くて長い尻尾に、4本のきしゃな脚。
全体的に細いラインを持ったその動物、
そこにいたのは何と、“猫”でした。
全身が真っ黒な黒猫。
瞳は宝石のような金色をしている、そんな黒猫でした。
そんな彼は、見た目的に言えば何処にでもいそうな普通の猫です。
しかし、どういうことか、その猫は喋っています。
何故か喋れています。
口調からして雄なのでしょうが、実際も雄でした。
そんな“彼”は、その鋭い金色の瞳を彼女に向けていました。
「儂は昼から何も食ってないんじゃぞ!」
……睨んでます。
しかも、瞳孔が縦に細長いので恐怖心があおられます。怖いです。
しかし、彼女はその視線に臆することなく、「はぁ…」と短い溜息を吐くと、水でぬれた手を布巾で軽く吹き、簡易冷蔵庫の代わりであるクーラーボックスの中身をあさり始めた。
「……はいはい分かりましたよ、お魚さんとお肉さんどっちがいいですか?」
「その棒読みは止めるのじゃ…………魚」
「はい、どーぞ」
そんなバカみたいなやりとりをしながら、彼女が取り出したもの。
なにやら木のかけらのような、硬い、何かでした。
魚、というからには食べ物なのでしょう。ほんわかな香りがします。
彼はその木の欠片のような物体に鼻を寄せると、
「……カツオブシの塊」
彼のその口調をどこか憐れむような、悲しいような、何かを諦めたかのような、不思議な感情を帯びていました。
「仕方ないじゃないですか。魚なんて、水辺に近い場所くらいでしか安売りされていませんよ」
彼女は「ああそうですね久し振りに、魚も食べたい」というと、再び食器洗いの仕事に戻ります。
「………」
水が流れる音と食器が軽くぶつかり合う音をバックに、彼はその塊にかぶりつきました。とても固そうです。というか、硬くて食べれていません。舐めているに近いです。
その時彼女はふと、何かを思い出したかのように声をあげました。
「ああ、」
「なんじゃ?」
彼は食べる手(舌)を止めると、めんどくさそうに彼女を見上げました。
どうせいつものことながら、くだらないことを言うのだろうと予想していた彼。
ですが、
「それ半年くらい前のやつです」
「ブッッッ!――――」
いきなりとんでもないことを言いだしました。
「それをいまさら言う!!」
彼は吠えました。怒ってます。キレてます。
しかしで一方、彼女の表情は冷静で、彼に視線すら向けていません。
「と言っても、賞味期限の長いカツオブシですからねぇ。大丈夫じゃぁないでしょうか?」
「………」
「……この冷蔵庫保存環境いいですから大丈夫だと思いますよ、きっと」
「語尾にちょくちょく変なイントネーションを置くのは止めろ。
それに、本当に大丈夫なのか“そいつ”は? 前々から気になってはいたのじゃが、儂はその中に入っている物をほとんど把握していないのだが……」
彼は、先ほど彼女がカツオブシ塊を取り出した簡易冷蔵庫、クーラーボックスを睨みながら言いました。その目はまるで正体不明の何かを見るような、怪しいものを見るような目つきです。
「“知らぬが仏”、というやつですよ。探らない方が幸せなこともあるんです」
「……ああ、そうかい」
彼女は、いわゆる“ドヤ顔”を決め、腰に手を当てて言いました。
その姿を見ながら彼は「どうしようもないなこの娘は」などと思っていたのですが一方の彼女はそんなことは知りません(気にしません)。
そんな時、彼女は今更ながら自分の手には未だに泡付きのタワシが握られていることに気付きました。
つい勢いで腰に手を当ててしまったので、服に泡が付きました。
それを見た彼女は「うわ、何やってるですかシュレ。泡ついたじゃないですか」といい、それに対して彼は「儂のせいにするな」といいます。
そんなアホみたいなやり取りを行っているときです。
彼女はあくびをしました。
疲れているのでしょう。さすがに隈は現れてはいませんが。
それをきっかけに、彼女のテンションも急激に下がっていきました。
「まあ……ちょうど洗い物も終わったことですし、今回は良しとしましょう」
何を良しとするのかよく分かりませんが、とりあえず気にせずとも問題はないでしょう。
彼女は腕を上げ、軽く伸びをすると、
「じゃあ、風呂行ってきます」
それはさておき、その2分後。
シュレ、こと黒猫である彼は何かに耐えきれなくなったように立ち上がりました。
まず彼は、先程彼女が探っていたあの冷蔵庫の元へ向かいました。
「アリアは“知らない方がいい”といったが……」
彼の内を支配していたのは、空腹による食欲です。
この冷蔵庫を開けてみたいという好奇心などみじんもありません……
いや、やっぱりほんのちょっぴりだけありました。
彼の前に立ちふさがるは、巨大な冷蔵庫()。
もちろん、その扉は硬く閉ざされています。
猫である彼には、それを開けるにはかなり苦労します。
「さて、……やるかのう」
彼は知恵やテクニックを駆使し、冷蔵庫と格闘すること約2分。
ついには扉が開き、彼は見事冷蔵庫を開けること“だけ”には成功したわけです。
さて、後になっての御話ですが、
その冷蔵庫の中身を漁っていたときのこと。
彼が言うには、その時3日分の食欲が消えうせたそうです(その後1時間後になんか食ってましたけど)。