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モグラ便の卵

作者: 羽月楓
掲載日:2026/10/02


  

 卵一個と、母の声を取りかえる。

 そう考えると、ナツミは金属の箱から手を離せなくなった。


 蓋の角は擦れて白くなっている。指で押さえる場所も、開けるときに少し引っかかるところも、覚えていた。

 中には、掌に収まる古い録音機が入っている。


 最後にその声を聞いたのは、ひと月ほど前だった。


『待っててね』


 そのあとに何か続いていたはずだ。

 けれど、再生するたびに同じところで音が途切れる。もう一度押すと、雑音の向こうで母が息を吸い、また同じことを言った。


『待っててね』


 電源を切ると、七番食堂車の食器が触れ合う音だけが残った。


 それ以来、再生のボタンには触れていない。


     *


 重力が反転して五年。

 東京の地下鉄や地下施設をつないだ逆さまの街、メトロジェイルでは、昔の値札は何の役にも立たない。


 高価だったものが、食べ物と交換できるとは限らなかった。反対に、捨てるつもりの留め具を見せた途端、相手が身を乗り出すこともある。


 録音機を欲しがったのは、野菜を育てるヤオヤの七海だった。


「音が途中で切れるんです」


 ナツミは最初に伝えた。


「新しく録れるかどうかも、分かりません」


 七海は受け取った録音機を裏返し、電池の蓋を確かめた。再生ボタンには触れなかった。


「水やりや植え替えの記録に使いたいんだ。手が汚れてると、紙に書きにくくてね」


 そう言って、ナツミへ返した。


「修理できるか、知り合いに聞いてみる。何と交換したい?」


 野菜、と答えるつもりだった。

 日持ちするもの。鍋に入れれば、何食かに分けられるもの。


 けれど、口から出たのは違う言葉だった。


「卵は、ありますか」


 七海は少し驚いた顔をした。


「手に入るか聞いてみる。一個でもいい?」

「はい」


 ナツミがすぐに答えたので、七海はそれ以上、野菜を勧めなかった。


 その後、運び屋の窓口に伝言が届いた。

 一個、用意できたという。録音機と引き換えに、七番食堂車まで届けてもらうことになった。


 それが、今日だった。


     *


 入口の布が揺れるたびに、ナツミは顔を上げた。


 器を返しに来た人。

 鍋を抱えて出ていく人。

 水の容器を運んできた人。


 待っている運び屋は、まだ来ない。


 さっきまで隣にいた小さな女の子は、母親と帰っていった。黄色いクリップで留めた紙の束を、大事そうに抱えていた。


 誰が何を待っているのか、書いて集めているのだという。


 ナツミは名前だけを書いてもらった。

 待っているものは、空白のままにしてもらった。


 卵を待っている。


 でも、もし割れていたら。

 途中で何かあって、届かなかったら。


 ナツミは箱の蓋を撫でた。


 届いても、もしこの手が離れなかったら。


「ナツミさんですか?」


 顔を上げると、入口に青年が立っていた。肩から袋を提げ、両手で小さな木箱を抱えている。


「モグラ便です。七海さんから」


 この街では、人や荷物を運ぶ者をモグラと呼ぶ。

 青年はカナタと名乗り、卓の空いているところを目で示した。


「ここ、置いてもいいですか」

「はい」


 ナツミは金属の箱を手前へ寄せた。


 木箱には布の帯が巻かれていた。カナタが結び目をほどき、蓋を開ける。

 中に敷き詰められた葉が、かすかに鳴った。


 その真ん中に、卵が一個、埋まっていた。


 ナツミはしばらく眺めた。

 もっと大きいものだと思っていた。


「触っても?」

「どうぞ」


 指を差し入れ、そっと持ち上げる。

 殻は冷たかった。少しざらついていて、片方の先が細い。


 ナツミは手の中でゆっくり回した。


 ひびは、なかった。


「よかった」


 声に出してから、カナタを見た。


「割れてなくて」


 カナタの肩が少し下がった。


「最後の段差が、いちばん怖かったです」


 ナツミは笑った。笑うと、ずっと固くなっていた顎のあたりが少し痛んだ。


 卵を葉の中へ戻す。

 代わりに、金属の箱を引き寄せた。


 蓋を開くと、録音機の小さな画面に、うっすらと灯りが映った。


「これを、七海さんに」


 そう言ったのに、指が離れなかった。


 カナタは手を出さずに待っていた。

 ナツミは録音機の横へ指を差し込み、持ち上げた。箱の底には、長い間そこに収まっていた形に、布のへこみが残っている。


 再生ボタンは、親指のすぐ下にあった。


 もう一度だけ聞こうかと思った。


『待っててね』


 聞かなくても、声は浮かんだ。

 少し急いでいるときの声だった。何かをしながら、振り向かずに返事をするときの。


 ナツミは録音機を布の上へ戻し、蓋を閉めた。


「お願いします」


 今度は、箱を卓の向こうへ押した。


 カナタは両手で受け取った。


     *


 弟が、食堂車の奥で器を拭いていた。


「もう終わる?」


 ナツミが声をかけると、弟は最後の一個を積み重ねた。


「終わった。どうしたの」


 木箱を見ている。


 ナツミは蓋を少しずらした。


 弟の手が、濡れた布を握ったまま止まった。


「卵?」

「うん」

「本物?」


 ナツミは頷いた。

 弟は布を置き、自分の服で手を拭きかけてから、乾いた布を探した。


「持っていい?」

「落とさないでよ」


 弟は両手を出した。

 その真ん中へ、ナツミは卵を置いた。


「軽いな」

「そう?」

「もっと重いと思ってた」


 ナツミは、さっきの感触を思い出した。


 弟は卵を顔へ近づけ、何も聞こえないのに耳を寄せた。それから、誰かに見られていないか辺りを確かめた。


「どうやって手に入れたの」

「七海さんに、交換してもらった」

「何と?」


 ナツミは木箱の葉を指でならした。


「母さんの録音機」


 弟は動かなくなった。

 掌の卵を見て、それから姉を見た。


「よかったの?」


 ナツミは少しためらって、頷いた。


「ねえ、卵、どう料理しようか」

「……卵焼き、作れる?」


 弟の小さな声は、ナツミの予想していた言葉だった。


 母の卵焼きは、切ると中まで黄色かった。皿の上で湯気が上がり、弟は熱いのを待てずに箸で突いた。母に止められると、端の崩れた一切れだけ先にもらっていた。


 一個では、あの厚さにはならない。


「スープなら、二人で食べられるよ」


 弟は少し考えた。


「黄色くなる?」

「やってみる」


     *


 炊事場の火を借りられたのは、大きな鍋が一つ空いてからだった。


 ナツミは小鍋に二人分のスープを移し、細く刻んだ葉を入れた。

 弟は卓で待っている。匙を二本、並べていた。


 卵を小さな器の縁へ当てる。


 弱すぎて、割れなかった。


 もう一度、少し強く。

 乾いた音がして、殻に細い線が走った。


 そこへ親指を入れたとき、ナツミは息を止めていた。


 器の中へ、白身が落ちる。

 続いて、丸い黄身が滑り出た。


「黄色い」


 いつの間にか、弟が隣へ来ていた。


「まだ食べちゃ駄目よ」

「分かってる」


 弟はそう言いながら、器の中を見続けた。


 ナツミは卵を溶いた。

 水面が揺れるのを待ち、細く流し入れる。黄色い筋が沈みかけ、ふわりと広がった。


 器に残った卵も、スープを少し入れてすすぎ、鍋へ戻した。


 二つの椀に分けると、片方の卵が多かった。

 匙で少し移す。今度は葉まで一緒に移ってしまった。


「それでいいよ」


 弟が言った。


 ナツミは匙を止め、二つの椀を卓へ運んだ。


 弟はすぐに口をつけようとして、湯気から顔を離した。

 ふう、と吹く。

 もう一度吹いてから、少し飲んだ。


 ナツミは、自分の椀を持ったまま待った。


「どう?」


 弟は口の中のものを飲み込んだ。


「母さんのと、違う」

「卵焼きじゃないもん」

「うん」


 弟は匙で、薄い黄色をすくった。


「でも、卵の味がする」


 ナツミも口へ運んだ。

 スープはいつもと同じ塩加減なのに、舌に触れるところが柔らかかった。


 向かいで、弟が残った卵を集めようと、器を傾けていた。


 もう一度、母の声を聞きたくなる日は来るだろう。

 箱を渡したことを悔やむ夜も、あるかもしれない。


 弟の匙が椀を鳴らした。


 ナツミも持ち上げていた椀を口へ運び、冷めないうちに飲んだ。


     *


 食べ終えたあと、ナツミは卵の殻を捨てる場所を訊いた。


「それは、こっちへ」


 炊事場の人が、小さな缶を出してくれた。


「珍しいから、他のと分けて、土の仕事をしてる人に渡そう」


 ナツミは殻を重ねて入れた。

 白い欠片が、缶の底でかさりと鳴った。


 木箱と葉は、次に来たモグラへ返してほしいと言われている。

 ナツミは蓋を閉じ、入口脇の預かり棚へ置いた。


 外へ出ると、水筒を積んだ荷車が通りかかった。

 車輪が継ぎ目を越えた拍子に、留め具が一つ落ちた。


「あ、待って」


 ナツミは拾い上げ、荷車を引く老人へ渡した。


「助かった」


 老人は留め具を付け直し、水筒を軽く叩いた。


「空だと跳ねるんだ。これから水を詰めに行くところでな」


 荷車が動きだす。

 水筒が触れ合う音が、通路の奥へ遠ざかっていった。


    *


「姉ちゃん、明日も食べたい」


 母がいた頃も、おいしいものを食べると、弟は決まってそう言った。


「また今度ね。またいつか」


 口にしてから、母と同じ返事をしたことに気づいた。

 弟は頷いた。足元の灯りに、少し上がった口の端が見えた。


 ナツミは、自分の掌へ目を落とした。

 ずっと抱えていた箱は、もうない。指を曲げると、蓋の角の感触がまだ残っていた。


 弟が隣へ並んで歩いた。

 ナツミはその手を取った。


 二人で歩くと、つないだ手が少し揺れた。


 

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