モグラ便の卵
卵一個と、母の声を取りかえる。
そう考えると、ナツミは金属の箱から手を離せなくなった。
蓋の角は擦れて白くなっている。指で押さえる場所も、開けるときに少し引っかかるところも、覚えていた。
中には、掌に収まる古い録音機が入っている。
最後にその声を聞いたのは、ひと月ほど前だった。
『待っててね』
そのあとに何か続いていたはずだ。
けれど、再生するたびに同じところで音が途切れる。もう一度押すと、雑音の向こうで母が息を吸い、また同じことを言った。
『待っててね』
電源を切ると、七番食堂車の食器が触れ合う音だけが残った。
それ以来、再生のボタンには触れていない。
*
重力が反転して五年。
東京の地下鉄や地下施設をつないだ逆さまの街、メトロジェイルでは、昔の値札は何の役にも立たない。
高価だったものが、食べ物と交換できるとは限らなかった。反対に、捨てるつもりの留め具を見せた途端、相手が身を乗り出すこともある。
録音機を欲しがったのは、野菜を育てるヤオヤの七海だった。
「音が途中で切れるんです」
ナツミは最初に伝えた。
「新しく録れるかどうかも、分かりません」
七海は受け取った録音機を裏返し、電池の蓋を確かめた。再生ボタンには触れなかった。
「水やりや植え替えの記録に使いたいんだ。手が汚れてると、紙に書きにくくてね」
そう言って、ナツミへ返した。
「修理できるか、知り合いに聞いてみる。何と交換したい?」
野菜、と答えるつもりだった。
日持ちするもの。鍋に入れれば、何食かに分けられるもの。
けれど、口から出たのは違う言葉だった。
「卵は、ありますか」
七海は少し驚いた顔をした。
「手に入るか聞いてみる。一個でもいい?」
「はい」
ナツミがすぐに答えたので、七海はそれ以上、野菜を勧めなかった。
その後、運び屋の窓口に伝言が届いた。
一個、用意できたという。録音機と引き換えに、七番食堂車まで届けてもらうことになった。
それが、今日だった。
*
入口の布が揺れるたびに、ナツミは顔を上げた。
器を返しに来た人。
鍋を抱えて出ていく人。
水の容器を運んできた人。
待っている運び屋は、まだ来ない。
さっきまで隣にいた小さな女の子は、母親と帰っていった。黄色いクリップで留めた紙の束を、大事そうに抱えていた。
誰が何を待っているのか、書いて集めているのだという。
ナツミは名前だけを書いてもらった。
待っているものは、空白のままにしてもらった。
卵を待っている。
でも、もし割れていたら。
途中で何かあって、届かなかったら。
ナツミは箱の蓋を撫でた。
届いても、もしこの手が離れなかったら。
「ナツミさんですか?」
顔を上げると、入口に青年が立っていた。肩から袋を提げ、両手で小さな木箱を抱えている。
「モグラ便です。七海さんから」
この街では、人や荷物を運ぶ者をモグラと呼ぶ。
青年はカナタと名乗り、卓の空いているところを目で示した。
「ここ、置いてもいいですか」
「はい」
ナツミは金属の箱を手前へ寄せた。
木箱には布の帯が巻かれていた。カナタが結び目をほどき、蓋を開ける。
中に敷き詰められた葉が、かすかに鳴った。
その真ん中に、卵が一個、埋まっていた。
ナツミはしばらく眺めた。
もっと大きいものだと思っていた。
「触っても?」
「どうぞ」
指を差し入れ、そっと持ち上げる。
殻は冷たかった。少しざらついていて、片方の先が細い。
ナツミは手の中でゆっくり回した。
ひびは、なかった。
「よかった」
声に出してから、カナタを見た。
「割れてなくて」
カナタの肩が少し下がった。
「最後の段差が、いちばん怖かったです」
ナツミは笑った。笑うと、ずっと固くなっていた顎のあたりが少し痛んだ。
卵を葉の中へ戻す。
代わりに、金属の箱を引き寄せた。
蓋を開くと、録音機の小さな画面に、うっすらと灯りが映った。
「これを、七海さんに」
そう言ったのに、指が離れなかった。
カナタは手を出さずに待っていた。
ナツミは録音機の横へ指を差し込み、持ち上げた。箱の底には、長い間そこに収まっていた形に、布のへこみが残っている。
再生ボタンは、親指のすぐ下にあった。
もう一度だけ聞こうかと思った。
『待っててね』
聞かなくても、声は浮かんだ。
少し急いでいるときの声だった。何かをしながら、振り向かずに返事をするときの。
ナツミは録音機を布の上へ戻し、蓋を閉めた。
「お願いします」
今度は、箱を卓の向こうへ押した。
カナタは両手で受け取った。
*
弟が、食堂車の奥で器を拭いていた。
「もう終わる?」
ナツミが声をかけると、弟は最後の一個を積み重ねた。
「終わった。どうしたの」
木箱を見ている。
ナツミは蓋を少しずらした。
弟の手が、濡れた布を握ったまま止まった。
「卵?」
「うん」
「本物?」
ナツミは頷いた。
弟は布を置き、自分の服で手を拭きかけてから、乾いた布を探した。
「持っていい?」
「落とさないでよ」
弟は両手を出した。
その真ん中へ、ナツミは卵を置いた。
「軽いな」
「そう?」
「もっと重いと思ってた」
ナツミは、さっきの感触を思い出した。
弟は卵を顔へ近づけ、何も聞こえないのに耳を寄せた。それから、誰かに見られていないか辺りを確かめた。
「どうやって手に入れたの」
「七海さんに、交換してもらった」
「何と?」
ナツミは木箱の葉を指でならした。
「母さんの録音機」
弟は動かなくなった。
掌の卵を見て、それから姉を見た。
「よかったの?」
ナツミは少しためらって、頷いた。
「ねえ、卵、どう料理しようか」
「……卵焼き、作れる?」
弟の小さな声は、ナツミの予想していた言葉だった。
母の卵焼きは、切ると中まで黄色かった。皿の上で湯気が上がり、弟は熱いのを待てずに箸で突いた。母に止められると、端の崩れた一切れだけ先にもらっていた。
一個では、あの厚さにはならない。
「スープなら、二人で食べられるよ」
弟は少し考えた。
「黄色くなる?」
「やってみる」
*
炊事場の火を借りられたのは、大きな鍋が一つ空いてからだった。
ナツミは小鍋に二人分のスープを移し、細く刻んだ葉を入れた。
弟は卓で待っている。匙を二本、並べていた。
卵を小さな器の縁へ当てる。
弱すぎて、割れなかった。
もう一度、少し強く。
乾いた音がして、殻に細い線が走った。
そこへ親指を入れたとき、ナツミは息を止めていた。
器の中へ、白身が落ちる。
続いて、丸い黄身が滑り出た。
「黄色い」
いつの間にか、弟が隣へ来ていた。
「まだ食べちゃ駄目よ」
「分かってる」
弟はそう言いながら、器の中を見続けた。
ナツミは卵を溶いた。
水面が揺れるのを待ち、細く流し入れる。黄色い筋が沈みかけ、ふわりと広がった。
器に残った卵も、スープを少し入れてすすぎ、鍋へ戻した。
二つの椀に分けると、片方の卵が多かった。
匙で少し移す。今度は葉まで一緒に移ってしまった。
「それでいいよ」
弟が言った。
ナツミは匙を止め、二つの椀を卓へ運んだ。
弟はすぐに口をつけようとして、湯気から顔を離した。
ふう、と吹く。
もう一度吹いてから、少し飲んだ。
ナツミは、自分の椀を持ったまま待った。
「どう?」
弟は口の中のものを飲み込んだ。
「母さんのと、違う」
「卵焼きじゃないもん」
「うん」
弟は匙で、薄い黄色をすくった。
「でも、卵の味がする」
ナツミも口へ運んだ。
スープはいつもと同じ塩加減なのに、舌に触れるところが柔らかかった。
向かいで、弟が残った卵を集めようと、器を傾けていた。
もう一度、母の声を聞きたくなる日は来るだろう。
箱を渡したことを悔やむ夜も、あるかもしれない。
弟の匙が椀を鳴らした。
ナツミも持ち上げていた椀を口へ運び、冷めないうちに飲んだ。
*
食べ終えたあと、ナツミは卵の殻を捨てる場所を訊いた。
「それは、こっちへ」
炊事場の人が、小さな缶を出してくれた。
「珍しいから、他のと分けて、土の仕事をしてる人に渡そう」
ナツミは殻を重ねて入れた。
白い欠片が、缶の底でかさりと鳴った。
木箱と葉は、次に来たモグラへ返してほしいと言われている。
ナツミは蓋を閉じ、入口脇の預かり棚へ置いた。
外へ出ると、水筒を積んだ荷車が通りかかった。
車輪が継ぎ目を越えた拍子に、留め具が一つ落ちた。
「あ、待って」
ナツミは拾い上げ、荷車を引く老人へ渡した。
「助かった」
老人は留め具を付け直し、水筒を軽く叩いた。
「空だと跳ねるんだ。これから水を詰めに行くところでな」
荷車が動きだす。
水筒が触れ合う音が、通路の奥へ遠ざかっていった。
*
「姉ちゃん、明日も食べたい」
母がいた頃も、おいしいものを食べると、弟は決まってそう言った。
「また今度ね。またいつか」
口にしてから、母と同じ返事をしたことに気づいた。
弟は頷いた。足元の灯りに、少し上がった口の端が見えた。
ナツミは、自分の掌へ目を落とした。
ずっと抱えていた箱は、もうない。指を曲げると、蓋の角の感触がまだ残っていた。
弟が隣へ並んで歩いた。
ナツミはその手を取った。
二人で歩くと、つないだ手が少し揺れた。




