初夜のあとに愛する人がいると言われたので祝福で身体の時間を一日戻しました
「俺には、愛する人がいる」
夫婦となって初めて迎えた夜、リオール・バーミキュラは寝台の上でそう告げた。
セレンティア・カーティスは、最初その言葉の意味を理解できなかった。ほんの数時間前、二人は大神殿で婚姻の誓約を交わしたばかりだった。神官長の前で署名し、双方の家族に見守られながら杯を交わし、祝宴ではリオールも申し分のない新郎を演じていた。腰に腕を回されることも、手を取られることもあった。
愛されているとは思っていなかった。これは政略結婚なのだから。それでも、互いを尊重する夫婦にはなれると思っていた。少なくとも、今夜までは。
「……愛する方、ですか?」
「ああ」
リオールは寝台から降りると、床に落としていたシャツを拾った。新妻の顔をまともに見ようともしない。
「ミーナ・ブラニールだ。知っているだろう?」
もちろん知っている。ブラニール男爵家の令嬢で、リオールの幼馴染。社交界では二人の関係を疑う声もあったが、リオールは婚約期間中に何度尋ねても否定していた。幼馴染だから親しいだけだ、妹のようなものだと。そんな言葉を信じたわけではない。ただ、セレンティアとリオールの婚姻は、そもそも恋愛によって結ばれるものではなかった。
バーミキュラ侯爵家は名門である。王国の建国期から続く家柄で、代々多くの将軍や騎士を輩出してきた。だが、名門であることと裕福であることは別だった。二代前から積み重なった借財、前侯爵時代から続く浪費、数年前の冷害。さらに領内にある鉱山で事故が起こり、採掘まで止まった。家名だけは立派でも、その内情は傾きかけている。
そこへ手を差し伸べたのが、カーティス伯爵家だった。爵位は一つ下でも、カーティス家には豊かな穀倉地帯と交易によって築いた財産がある。つまりバーミキュラ家が必要としていたのは、セレンティアという女ではない。カーティス家からの支援だった。そのことは、セレンティアも承知している。だから愛情など求めていなかった。
けれど。
「でしたら、なぜ……」
セレンティアは寝台の上で夜着を胸元へ引き寄せた。
「なぜ、今夜……わたくしを?」
リオールの動きが止まった。やがて彼は振り返り、そして笑った。
「念のためだ」
「……念のため?」
「ああ」
上着に腕を通しながら、何でもないことのように続ける。
「お前に逃げられては困るからな」
その意味が、すぐには分からなかった。
「神殿法では、婚姻から三年が経過しても一度も夫婦関係がなければ、白い結婚として婚姻無効を申し立てることができる」
それはセレンティアも知っている。貴族の結婚では、珍しい制度ではない。婚姻の誓約を結んでも、夫婦としての実態がないまま三年が過ぎた場合、神殿が調査したうえで婚姻そのものを無効とする。離縁とは違い、婚姻そのものが完成しなかったと扱われる。特に女性にとっては大きな違いだった。
「だが、今夜でその心配はなくなった」
リオールは満足そうだった。そこでようやく、セレンティアは理解した。彼が自分を抱いた理由を。欲しかったからではない。妻として愛そうと思ったからでもない。逃げられなくするため、ただそれだけ。
「純潔でなくなった以上、お前が三年後に白い結婚だったと言い張っても通らない」
「……」
「安心しろ。侯爵夫人として不自由はさせない。衣装も宝石も用意するし、社交の場では妻として扱う」
「ミーナ様は?」
「彼女とのことには口を出すな」
答えだけは早かった。
「俺が愛しているのはミーナだ」
リオールはセレンティアをまっすぐ見た。
「お前を愛することはない」
胸の奥に残っていた何かが、静かに冷えていった。
「最初から期待しなければ、お前も傷つかずに済むだろう?」
親切な助言でもするような口調だった。セレンティアは何も答えなかった。
「お前は侯爵夫人の地位を得る。カーティス家は名門侯爵家との縁を得る。そしてバーミキュラ家は援助を受けられる。誰も損をしない」
本気で言っているようだった。自分だけは愛する女と過ごし、妻には金と地位を与えておけばいい。そして妻の実家からは援助を受け続ける。それで全員が幸せなのだと、彼は信じ切っているらしかった。
「では、俺は行く」
「どちらへ?」
尋ねると、リオールは少しだけ怪訝な顔をした。
「ミーナのところだ」
さすがに言葉が出なかった。妻との初夜を済ませ、そのまま愛する女のもとへ向かう。そこまでとは思っていなかった。
「今夜はゆっくり休め」
リオールは扉へ向かい、振り返らずに言った。
「おやすみ、セレンティア」
扉が閉じ、足音が遠ざかっていく。完全に聞こえなくなってから、セレンティアは寝台を降りた。身体には、先ほどの行為の痕跡が残っている。不快だった。
けれど。
「……わたくしの祝福をご存じでしょうに」
七歳になった子どもは、神殿で神から祝福を賜る。王族も貴族も平民も変わらない。与えられる力は人によって異なり、小さな火を起こせる者、植物の成長を助ける者、暗闇でも遠くまで見通せる者、計算を得意とする者、傷の治りを早める者もいる。同じ祝福が現れることもあるが、まったく同じ性質、同じ強さになるとは限らない。
七歳のセレンティアが神から賜った祝福は――《一日回帰》。触れたものの時間を、一日前の状態へ戻す。単純な力だ。だからこそ、使い方はいくらでもあった。幼いころは、割ってしまった皿を戻した。萎れた花に触れて、前日の状態へ戻したこともある。
十二歳のころ、飼っていた犬が脚を怪我した。恐る恐る触れて祝福を使うと、傷は消えた。そこで初めて、生き物にも使えると知った。十五歳のとき、乗馬の練習中に落馬し、腕をひどく擦りむいた。その傷に触れて何気なく祝福を使ったとき、自分自身にも効くことを知った。ただし、生き物に使うと物より疲れる。自分の身体全体を戻そうとすれば、さらに負担は大きい。
それでも。
「リオール様」
誰もいない部屋で、セレンティアは呟いた。
「本当に、わたくしの祝福をご存じでしょうに」
知っていても、思いつかなかったのだろう。彼にとって《一日回帰》は、壊れたものを直すための便利な祝福にすぎない。自分自身に使えることまでは話していなかった。
セレンティアは胸元へ右手を当て、目を閉じた。一日前。昨日の自分。まだリオール・バーミキュラの妻になる前、まだ誰にも触れられていなかった身体へ。
「《一日回帰》」
全身から、一気に力が抜けた。セレンティアは寝台へ手をついた。眩暈がする。吐き気もあった。身体全体を対象にしたのは、これが初めてだった。しばらくそのまま呼吸を整え、やがて身体を確かめる。
そして。
「……戻りましたわ」
笑った。リオールは知らない。自分が絶対に塞いだと思っている扉が、もう開いていることを。
神殿法で定められた期間は三年。それまで二度とリオールと夫婦関係を持たなければいい。
「分かりました」
セレンティアは閉じた扉を見た。
「三年間、立派な妻を務めて差し上げます」
そして三年後、白い結婚として、この家を出ていく。
◇
翌朝、リオールは朝食の席に現れなかった。代わりに、義父母であるバーミキュラ侯爵夫妻がいた。
「昨夜はよく眠れまして?」
侯爵夫人が尋ねる。
「はい。お義母様」
「そう。よかったわ」
心から安堵したようだった。侯爵夫人は悪人ではない。少なくとも、セレンティアはそう思っていた。ただし、息子よりも現実を理解している。カーティス伯爵家からの援助がなければ、バーミキュラ侯爵家が立ち行かなくなることも承知しているのだろう。だからこの婚姻を誰より喜んでいた。
「それで……リオールは?」
「存じません」
「まあ。まだ休んでいるのかしら」
「昨夜、出ていかれましたので」
侯爵夫人の動きが止まった。
「昨夜?」
「はい。ミーナ・ブラニール様がお待ちだそうです」
カップと受け皿が硬い音を立てた。侯爵も顔を上げる。
「何だと?」
セレンティアはパンを切った。
「初夜を済ませれば白い結婚にはならないので、もう安心なのだそうです」
「セレンティアさん」
侯爵夫人の顔が青ざめた。
「それは……」
「そして、ご自分が愛しているのはミーナ様で、わたくしを愛することはないと」
侯爵が額を押さえる。
「馬鹿息子が……」
「あなた、すぐ呼び戻して」
「いや」
セレンティアは顔を上げた。
「必要ございません」
「しかし」
「リオール様のお気持ちは、よく分かりましたから」
本当に、よく分かった。だからこそ迷う必要がなくなった。
「わたくしは妻として、必要な務めを果たします」
侯爵夫妻が揃って安堵する。ほんの一瞬だったが、見逃さなかった。やはり、この二人も一番恐れているのはカーティス家からの支援がなくなることなのだ。責めるつもりはない。家を守る立場なら当然だろう。だからセレンティアも、自分のために動くことにした。
「お義父様」
「何だね?」
「今日から、侯爵家の帳簿を見せていただけますか?」
侯爵が目を丸くした。
「帳簿を?」
「はい」
セレンティアは微笑んだ。
「何もせず待っているのも退屈ですもの」
◇
最初の三か月で、セレンティアはバーミキュラ侯爵家がなぜ傾いたのかを理解した。冷害、鉱山事故、交易路の変化。どれも原因ではある。だが最大の問題は、もっと単純だった。使いすぎなのだ。収入が減っているのに、最盛期と同じ生活を続けている。舞踏会、狩猟、美術品、衣装、馬、酒、そしてリオールの交際費。
「この金額は?」
執務室で尋ねると、老家令が困った顔をした。
「若旦那様がお使いになる分でございます」
「内訳は?」
「それが……」
「分かりました」
追及する必要もない。おそらくミーナに使っている。セレンティアは帳簿を閉じた。
「まず、ここからですね」
侯爵家を救う。リオールのためではない。ここには使用人がいる。領民がいる。三年後に自分が出ていった瞬間、カーティス家からの支援がなくなって全員が困るようでは、後味が悪い。ならば三年間で、自力で立てる状態にしておけばいい。
その翌週、セレンティアは領内の穀物庫で問題を見つけた。
「これは……」
種籾を保管していた袋の一部が濡れている。屋根から雨水が入り込んだらしい。管理人は真っ青になった。
「申し訳ございません!」
「いつからです?」
「昨日の夜からだと思います。今朝、気づきまして……」
袋を開く。まだ完全には駄目になっていないが、このままでは使えないものも出る。セレンティアは濡れた袋へ手を置いた。
「奥様?」
「少し離れていてください」
祝福を使う。《一日回帰》。濡れていた麻袋が乾いていき、中を確認すると、種籾も昨日の状態へ戻っていた。管理人が目を見開く。
「これが……奥様の祝福」
「ええ」
全部には使わない。戻したのは、特に被害が大きかった五袋だけ。それだけでも身体が重い。
「残りは乾燥させてください。それから屋根を直しましょう」
「全部、奥様のお力で戻されないのですか?」
若い作業員が尋ねた。セレンティアは首を横に振った。
「わたくしが毎日ここへ来て、雨漏りするたびに時間を戻すのですか?」
「あ……」
「壊れた原因を直した方が早いでしょう?」
祝福は便利だ。けれど、問題そのものを解決してくれるわけではない。その日から、穀物庫の修繕が始まった。
◇
半年後、カーティス家から二度目の支援金が届いた。予定額の半分だった。その夜、珍しくリオールが帰ってきた。
「セレンティア」
「はい」
「援助金が少ない」
「存じております」
「なぜだ?」
「減らしましたので」
リオールが黙った。
「誰が?」
「わたくしが」
「勝手なことをするな!」
食堂に声が響いた。セレンティアはナイフを置いた。
「勝手ではございません」
「何?」
「カーティス家からの支援は、わたくしとの婚姻に付随する契約です。支払われた資金についても、わたくしには用途を確認する権利がございます」
「だから何だ」
「領地運営と借財返済に必要な額を計算しました。半分で足ります」
「足りるわけがない!」
「足りないのは、リオール様の交際費では?」
彼の表情が変わった。
「お前……」
「半年間、帳簿を見ましたので」
「俺の金をどう使おうと――」
「カーティス家のお金です」
セレンティアは穏やかに訂正した。
「リオール様のお金ではございません」
「妻のくせに、夫に逆らうのか?」
「妻ですから、家計を守っております」
リオールが言葉を失った。
「必要でしたら、ご自身の収入からお使いくださいませ」
「誰のおかげで侯爵夫人になれたと思っている!」
昔なら怖かったかもしれない。けれど今は違う。
「ではリオール様は、誰のおかげで侯爵家の借財を返せているとお考えですか?」
答えはなかった。セレンティアは食事を再開した。
「お料理が冷めますわ」
◇
一年目の秋、閉鎖されていた鉱山の調査が始まった。セレンティア自身も現地へ向かう。事故の原因は、採掘を急ぎすぎたことによる支柱の不足だった。新しい技師を雇い、安全を確認しながら再開の準備を進めていた、その最中だった。
坑道の奥から、轟音が響いた。
「崩れたぞ!」
叫び声。作業員たちが駆けてくる。
「三人、向こうに残っています!」
セレンティアは坑道へ走った。技師に止められたが、構わなかった。崩落した場所では、大きな梁が折れ、その向こうに作業員が閉じ込められていた。声は聞こえる。生きている。
「いつ折れました?」
「今です!」
セレンティアは梁へ手を置いた。《一日回帰》。折れた木材が軋みながら元の形へ戻っていく。周囲が息を呑んだ。だが戻っただけだ。一日前の梁にも、強度不足という問題は残っている。
「今のうちに補強してください!」
作業員たちが動き、仮の支柱を入れて閉じ込められた三人を救出する。最後の一人が出てきた直後、セレンティアは壁に手をついた。
「奥様!」
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。大きな物へ祝福を使うと、ひどく消耗する。それでも三人が生きている。それで十分だった。
「この坑道は閉鎖します」
技師が驚く。
「しかし、奥様のお力があれば――」
「ありません」
「え?」
「次もわたくしが間に合う保証はありません」
セレンティアは折れていた梁を見た。
「祝福で事故をなかったことにするのではなく、事故が起こらない坑道にしてください」
その日から採掘計画を全面的に見直し、再開は半年遅れた。けれど、その後、大きな事故は一度も起きなかった。
◇
二年目に入るころ、リオールが突然セレンティアの部屋を訪ねてきた。手には、壊れた懐中時計を持っている。
「これを直せ」
挨拶もなかった。
「時計職人へお持ちになっては?」
「昨日落としたんだ。お前の祝福なら戻せるだろう」
セレンティアは時計を見た。蓋に小さな百合の紋様。カーティス家にもバーミキュラ家にもない意匠だった。
「ミーナ様からの贈り物ですか?」
リオールが一瞬黙った。それで十分だった。
「お願いする態度ではございませんね」
「何?」
「直してほしいのでしょう?」
「妻が夫の役に立つのは当然だ」
三年近く前の夜から、この人は何も変わっていない。セレンティアは時計を受け取った。
「今回だけです」
《一日回帰》。割れていた文字盤が戻り、歪んだ針も元の位置へ戻った。リオールが目を見開く。
「便利なものだな」
「そうですね」
「それなら、もっと早く使えばよかっただろう。侯爵家には壊れた美術品もある」
セレンティアは時計を差し出す手を止めた。
「リオール様」
「何だ?」
「わたくしの祝福まで、バーミキュラ侯爵家へ嫁入りしたわけではございません」
彼が眉を寄せた。
「妻の力なら家のために使うのが当然だろう」
「使うかどうかを決めるのは、わたくしです」
祝福は神が本人に与えるもの。親のものでも、家のものでも、夫のものでもない。それは王国の神殿法にも明記されている。
「変なところで頑固だな」
リオールは時計を受け取った。礼も言わなかった。セレンティアはその背中を見送った。あの夜、この男が欲しかったのはカーティス家の金だった。今はそこに、自分の祝福まで加わったらしい。だからこそ、決心は一度も揺らがなかった。
◇
その年の冬、ミーナ・ブラニールが男児を産んだ。父親が誰なのか、社交界では誰も口にしなかった。口にしないだけで、皆が知っていた。リオールはその子を自分の息子として可愛がっているらしい。セレンティアは何も言わなかった。
ところが春になると、リオールがミーナと子どもを連れて侯爵邸へやってきた。
「ここで暮らしてもらう」
執務室でそう言われ、さすがにセレンティアは書類から顔を上げた。
「こちらで?」
「ああ。別邸では子育てに不便だ」
ミーナは子どもを抱いて、リオールの後ろに立っている。実際に顔を合わせるのは初めてだった。思っていたより幼い印象の女性で、不安そうにセレンティアを見ていた。
「別のお屋敷をお借りになればよろしいのでは?」
「ここは俺の家だ」
「わたくしの家でもございます」
「お前は侯爵夫人になる女だろう。愛人の一人くらい受け入れる度量を持て」
セレンティアはリオールを見た。
「あと一年ですわね」
「何が?」
「いいえ。何でもございません」
残り一年。それだけだ。
◇
三年目、バーミキュラ侯爵が倒れた。幸い命に別状はなかったが、長期療養が必要になった。医師の診断を聞いたリオールは、セレンティアへ言った。
「父上に祝福を使え」
「使いません」
即答した。
「なぜだ!」
「一日前へ戻したところで、病気の原因はなくなりません。明日になればまた同じ状態になる可能性があります」
「だったら毎日戻せばいい!」
セレンティアは彼を見た。
「いつまでです?」
「治るまでだ!」
「わたくしが毎日、お義父様の身体を一日前へ戻し続けるのですか?」
「できるんだろう!」
できる。おそらく。だが、生き物の身体全体を戻す負担は大きい。何十日も続ければ、セレンティア自身がどうなるか分からない。
「お断りします」
「お前は冷たい女だな!」
「医師は、きちんと療養すれば回復すると仰っています」
「万が一があったらどうする!」
「そのために医師がいるのです」
祝福は万能ではない。戻せることと、治せることは違う。
「それに」
セレンティアは静かに続けた。
「わたくしの身体を犠牲にすることを、当然のように命じないでくださいませ」
リオールは黙った。その表情には、理解より不満が見えた。やはり、最後まで、この人はそうなのだ。
◇
侯爵が療養に入ったことで、領地の実務はほとんどセレンティアが担うようになった。リオールにはできなかった。領地の税収を知らない。小麦の取引先を知らない。鉱山の採掘量も知らない。使用人の名前さえ満足に覚えていない。
ある夜、珍しく一人で執務室へ来た。
「セレンティア」
「何でしょう」
「父上から聞いた」
書類から顔を上げる。
「何をです?」
「お前が領地を立て直したそうだな」
「皆が働いてくださいましたから」
「鉱山も黒字になったと」
「今期からは」
「……そうか」
帰らない。何かあるらしい。
「今まで悪かった」
ペンが止まった。
「何がでしょう?」
「いろいろだ」
便利な言葉だ。
「俺は、お前を誤解していた」
「そうですか」
「金を持ってきて侯爵夫人になれれば、それで満足する女だと思っていた」
「リオール様が、そのような妻をお望みだったのでは?」
彼は黙った。
「ミーナともうまくいっていない」
「そうですか」
「子どもが生まれてから、あいつも変わった」
「そうですか」
「……それだけか?」
「他に何と?」
リオールはしばらく迷ってから言った。
「やり直さないか」
セレンティアはペンを置いた。
「誰と誰がでしょう?」
「俺とお前だ」
本気らしい。
「今なら、お前を妻として大切にできる」
今なら。
「領地のことも教えてくれ。俺も覚える。お前の祝福もあれば、バーミキュラ家はもっと発展できる」
そこで、セレンティアは納得した。妻として大切にする。その直後に出てくるのが、領地と祝福。やはり、この人は変わらない。
「結婚初夜を覚えていらっしゃいます?」
リオールの顔が強張った。
セレンティアは、あの夜彼が口にした言葉を、そのまま彼へ返した。
「俺には愛する人がいる。お前を愛することはない」
「最初から期待しなければ傷つかずに済む、とも仰っていましたわね」
「……悪かった」
「いいえ」
セレンティアは首を横に振った。
「感謝しております」
「感謝?」
「ええ」
あの夜の言葉がなければ、愛されるために努力していたかもしれない。夫が振り向くのを待っていたかもしれない。ミーナに嫉妬し、自分の何が足りないのかと悩んだかもしれない。けれどリオールは最初から期待するなと言った。だから期待しなかった。そのおかげで、自分の人生を見ることができた。
「あと少しですわ」
「何が?」
セレンティアは答えなかった。
◇
結婚から三年。その日、セレンティアは大神殿にいた。三年前にリオールと婚姻の誓約を交わした場所。隣には父、カーティス伯爵。向かいにはリオールとバーミキュラ侯爵夫妻。神殿からは神官と、王国法務院の書記官が立ち会っている。
「婚姻無効?」
リオールは書類を見て笑った。
「馬鹿馬鹿しい」
セレンティアは黙っていた。
「白い結婚を理由にしているそうだな」
「はい」
「忘れたのか?」
勝ち誇った笑み。三年前と同じだった。
「初夜のことを」
「覚えております」
「だったら分かるだろう。俺たちは白い結婚じゃない」
「それを判断するのは神殿です」
「何を調べても同じだ。俺はお前を抱いた」
義母が顔を伏せる。義父は険しい顔で息子を見ていた。書記官が尋ねる。
「それ以降、夫婦関係はございましたか?」
「……ない」
「三年間、一度も?」
「ない。だが最初に一度あった!」
リオールは苛立って机を叩いた。
「それで十分だろう!」
「確かに、婚姻成立後に一度でも夫婦関係が成立していれば、白い結婚とは認められません」
書記官がセレンティアを見る。
「申立人は、それを否定なさるのですね?」
「はい」
リオールが笑った。
「嘘をつくな」
「嘘ではございません」
「俺が一番よく知っている!」
「では」
セレンティアは立ち上がった。
「神殿に確認していただきましょう」
女性神官たちと奥の部屋へ入る。診察には、それほど時間はかからなかった。戻ると、神官が書面を書記官へ渡した。
「確認いたしました」
神官が告げる。
「セレンティア・カーティス・バーミキュラ夫人に、男性との関係があったと認められる身体的所見はございません」
「嘘だ!」
リオールが立ち上がった。
「そんなはずがない!」
誰も答えない。
「俺は確かに――」
そこで、リオールが止まった。何かに気づいたらしく、セレンティアの右手を見つめている。
「……まさか」
「何でしょう」
「お前の祝福……」
やっと。三年かかった。
「一日前に戻せる」
リオールの顔から血の気が引いた。
「まさか、あの夜……」
セレンティアは微笑んだ。
「はい」
否定する理由はない。
「あなたがミーナ様のところへ向かわれたあと、自分の身体へ《一日回帰》を使いました」
静まり返った。
「ですから」
セレンティアは続ける。
「わたくしの身体は、初夜を迎える前の状態へ戻っております」
「そんな……」
リオールが椅子へ手をついた。
「そんなのは卑怯だ!」
思わず、セレンティアは瞬きをした。
「卑怯?」
「俺に黙っていた!」
「何をでしょう」
「自分にも使えることを!」
「尋ねられませんでしたので」
「夫なら知る権利がある!」
「ございません」
神官が口を挟んだ。
「祝福は神より本人へ授けられたもの。婚姻によって配偶者の所有物とはなりません」
リオールが黙った。書記官が書面を確認する。
「三年間にわたり夫婦関係がなく、申立人の身体にも婚姻成立を示す所見が認められない。また被申立人自身も、初夜と主張する一夜以外には関係がなかったことを認めている」
ペンが走る。
「白い結婚を理由とする婚姻無効申請を受理いたします」
終わった。三年間、待ち続けた言葉だった。セレンティアは静かに息を吐いた。
「待て」
リオールだった。
「婚姻が無効になったら……カーティス家からの支援は?」
父が答える。
「当然、終了だ」
「そんな!」
「婚姻に付随する支援契約だからな」
リオールの顔色が変わる。
「だが、侯爵家は――」
「ご心配なく」
セレンティアが言った。
「領地経営は黒字化しております。借財も残りわずか。鉱山も安定しました。通常の侯爵家として暮らす分には問題ございません」
リオールが安堵する。
「ただし」
セレンティアは続けた。
「リオール様の多額の交際費や賭博費用、ミーナ様とお子様に現在と同じ生活をさせる余裕まではございません」
「……」
「そちらはご自身でお願いいたします」
父が横を向いた。肩が少し揺れている。笑っているらしい。
「待ってくれ、セレンティア」
リオールが一歩前へ出た。
「本当に終わりにするのか?」
「はい」
「俺はやり直そうと言っただろう!」
「お断りいたしました」
「なぜだ!」
セレンティアは彼を見た。三年前、同じような問いを自分もした。なぜ結婚したのか、なぜ抱いたのか。あのとき彼は言った、分かっているだろう、と。だから。
「分かっているでしょう?」
それだけ返した。
◇
大神殿を出ようとしたときだった。
「待ってくれ!」
背後からリオールの声がした。振り返る。
「お前なら戻せるんだろう?」
「何をでしょう」
「時間だ!」
リオールは必死だった。
「壊れた時計を戻した。鉱山の梁も戻した。お前自身だって戻した!」
嫌な予感がした。
「だったら三年前に戻せばいい!」
セレンティアは、しばらく何も言えなかった。
「今度は間違えない。初夜のあとにミーナのところへなんて行かない。お前を大切にする。領地のことも覚える」
「リオール様」
「だから戻してくれ!」
「無理です」
「なぜだ!」
「《一日回帰》ですから」
リオールが止まった。
「わたくしが戻せるのは、触れたものの時間を一日だけです」
「なら……」
少し考えてから言う。
「何度も使えばいい!」
その瞬間、セレンティアは最後に残っていた何かまで消えていくのを感じた。この人は知らない。生き物に使うと疲れることを。身体全体なら、なおさらだということを。知らないのは仕方がない。セレンティアが教えていないからだ。けれど、聞こうともしない。三年を戻すには何回使えばいいのか、その間セレンティアがどうなるのか。そんなことより、自分がやり直せることの方が大切なのだ。
「お断りいたします」
「セレンティア!」
「それに」
自分の右手を見る。この手で、いろいろなものを戻してきた。濡れた種籾、折れた梁、壊れた時計。そして、三年前の自分自身。
「戻せるものと、戻したいものは違いますわ」
リオールが黙る。
「あの夜、身体は戻しました」
けれど。
「あなたから言われた言葉まで忘れたわけではございません」
――俺には愛する人がいる。
――お前を愛することはない。
――最初から期待しなければ傷つかずに済む。
全部覚えている。でも、もう痛くない。
「それに、わたくしはこの三年間をなかったことにしたくありません」
帳簿を覚えた。商人と交渉した。穀物庫を直した。鉱山へ通った。領民の名前を覚えた。失敗もした。それでも、できることが増えた。三年前には知らなかった自分を知った。
「あなたは三年前へ戻りたいのでしょう」
セレンティアはリオールを見る。
「わたくしは、先へ進みたいのです」
それだけだった。
「ごきげんよう、リオール様」
今度こそ背を向ける。もう呼び止められても、振り返らなかった。
◇
大神殿の階段を下りると、父が待っていた。
「終わったか」
「はい」
「そうか」
それだけ言って、父は歩き始めた。セレンティアも隣に並ぶ。
「怒っていらっしゃいます?」
「誰にだ?」
「わたくしに」
「なぜ?」
「三年間、黙っていましたから」
父はしばらく考えた。
「怒っている」
「やはり」
「もっと早く相談しなかったことにな」
セレンティアは俯いた。
「申し訳ございません」
「だが、お前が自分で決めたことなら仕方ない」
父は前を向いたまま言った。
「帰りたくなったらいつでも帰ってこいと、手紙に書いただろう」
覚えている。結婚から三か月後、支援契約の変更を頼んだとき、父から返ってきた手紙。
――分かった。
――帰りたくなったら、いつでも帰ってこい。
あの手紙だけは、今も大切に持っている。
「ただいま、お父様」
三年遅れで言った。父が足を止め、それから、
「おかえり」
短く答えた。
◇
カーティス伯爵邸へ戻って七日、セレンティアは父の執務室にいた。
「もう働くのか?」
「十分休みました」
「七日だぞ」
「七日も、です」
父が呆れた。
「それで?」
「南部に、お祖父様が購入したままになっている土地がございますでしょう?」
「あるな」
「あそこを任せていただきたいのです」
父が眉を上げる。
「何をする?」
「薬草を育てます」
すでに考えていた。バーミキュラ領を経営する中で、薬草の多くを国外から輸入していると知った。国内で安定生産できれば需要はある。
「王都の薬師組合にも相談しております」
「いつの間に」
「三か月ほど前から」
父が笑い出した。
「離縁する前から次の仕事を考えていたのか!」
「婚姻無効です」
「そうだった」
「それに、何もしないで暮らすつもりはございません」
侯爵夫人ではなくなった。誰かの妻でもなくなった。だからといって、三年前の伯爵令嬢に戻るつもりはない。
「好きにしろ」
父は書類へ署名した。
「ありがとうございます」
「失敗しても構わんぞ」
「失敗する前提で仰らないでくださいませ」
「三年で侯爵領を立て直した娘に、何を心配しろというんだ」
書類を受け取る。自分の土地、自分の仕事。考えるだけで忙しくなりそうだった。でも、それが嬉しい。
窓辺には花瓶が置かれ、朝摘んだ花が一輪、少しだけ萎れていた。以前なら何気なく祝福を使ったかもしれない。セレンティアは花を見て、そのままにした。明日には、もっと萎れるだろう。やがて花びらが落ちる。それでいい。何でも戻す必要はない。
七歳のとき、神殿で《一日回帰》を授かった。触れたものの時間を、一日前へ戻す力。幼いころは、とても便利な祝福だと思った。大人になっても、それは変わらない。壊れたものを戻せる。傷ついたものを戻せる。失敗した一日を、ほんの少しだけやり直すこともできる。
けれど、時間を戻せることと、過去へ戻りたいことは違う。三年前の夜、セレンティアは自分の身体を一日前へ戻した。けれど人生までは戻さなかった。だから今がある。
「お嬢様」
侍女が扉から顔を出した。
「南部へ向かわれる馬車の準備ができました」
「今行きます」
立ち上がる。机の上には、新しい土地の資料が積まれている。薬草畑、水路、雇用、薬師組合との契約。やることはいくらでもあった。考え始めれば、三年でも足りないかもしれない。それでもいい。これから過ごす三年は、誰かから逃げるために待つ三年ではない。自分で選んで進む三年になる。
部屋を出る前に、セレンティアは一度だけ自分の右手を見た。三年前、この手で一日を取り戻した。だからもう、戻らなくていい。今日より明日、明日より、その次の日へ。一日ずつで十分だ。
セレンティア・カーティスは扉を開けた。今度は、自分の時間を前へ進めるために。
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