プロローグ
――名前を呼ぶ夜
玄関の鍵を開けた瞬間、
胸の奥が、ざわりと揺れた。
――静かすぎる。
いつもなら聞こえるはずの音が、
何ひとつ、ない。
「……詩織?」
返事はなかった。
廊下を進むにつれて、
鼻を刺す匂いが、はっきりしていく。
鉄の匂い。
生暖かく、嫌に現実的な匂い。
リビングの灯りは、点いたままだった。
そこで、
足が止まる。
床に倒れている人影。
それが誰なのか、
考える必要はなかった。
白い床に、赤が広がっている。
「……詩織……?」
声が、掠れた。
駆け寄ろうとして、
その背中に――
「動くな」
低い声。
次の瞬間、
腹部に、鈍い衝撃。
「……っ」
遅れて、
焼けるような痛みが来た。
刃物だと理解した時には、
もう体が言うことを聞かない。
振り返る。
男が、五人。
刃を弄び、楽しそうに笑っている男。
感情のない目で、
こちらを見下ろす男。
落ち着かず、
何度も視線を逸らす男。
リビングの奥を、
気にしている男。
そして――
全体を支配するように、
一歩引いた位置に立つ男。
「……まだ生きてるな」
その声で分かる。
こいつが、まとめ役だ。
「ガキは?」
その一言で、
心臓が、強く跳ねた。
「奥だよ。
動いてねえ」
吐き捨てるような声。
視線の先。
リビングの奥に、
小さな体が転がっている。
血は、見えない。
だが、
動かない。
「……」
喉が、鳴った。
名前を呼ぼうとして、声が、
出ない。
「……咲人……」
囁くように、
その名を落とした。
床に、膝がつく。
「……お願いだ……」
金なら出す。
全部、渡す。
だから。
だから――
視線を、
再び詩織に向ける。
腹部から流れ出た血が、
止まっていない。
息をしているのかどうか、
分からない。
「……家族だけは……」
「は?」
笑い声。
刃を持つ男が、
楽しそうに口角を上げる。
「なにそれ。
今さら?」
「……やめろ」
別の男が、
震えた声で言った。
「もう、十分だろ……
帰ろうぜ……」
「黙れ」
指示役の声は、冷たかった。
「見られた以上、
終わらせる」
刃が、
持ち上げられる。
――ああ。
ここで、終わるのか。
体が、動かない。
それでも、
腕だけが、伸びる。
詩織へ。
そして、我が子へ。
「……ごめん……」
父親として。
夫として。
何ひとつ、
守れなかった。
――もし。
もし、奇跡があるなら。
せめて。
せめて、
あの二人だけは。
刃が、
振り下ろされ――
世界が、
白く弾けた。




