第8話 灰神の眼
灰の塔・第二層を抜けた先は、世界そのもの
が裏返ったような空間だった。
天と地の境がなく、上下すら曖昧な灰の渦が
広がる。
灰の光が星のように漂い、遠くで雷鳴のよう
な低温が響く。
「……ここが、第三層か?」
ジルが呟く声が、灰に吸い込まれる。
空気が重い。灰そのものが意志を持つよう
に、彼らの足取りを縛りつけてくる。
セレスが静かに頷いた。
「”灰神の眼”が眠る階層です。塔の中心核……こ
の塔を”観測”している存在そのもの」
その言葉に、はるひの心がざわついた。
”塔を観測している存在”ーーそれは、つまり
”観測者の上位存在”だ。
彼らを見下ろす”誰か”が、この世界にはいる
ということ。
「灰神……って、まさか本当に神かよ」
「神と呼ぶにはあまりに冷たい存在。記録と秩
序を守るために生まれた《灰律の核》。感情の
ない”観測そのもの”です」
セレスの声には、かすかな怯えがあった。
彼女が恐れるほどの存在ーーそれがこの階層
にある。
灰の渦の中を進むうちに、視界の奥に”目”が
見えた。
巨大な灰色の瞳。
まるで空そのものが見つめ返してくるかのよ
うな錯覚。
その瞬間、はるひの《観測》が弾かれた。
視界が白く焼け、脳裏に無数の情報が流れ込
む。
古代の記録、灰律の誕生、そしてーー観測者
の系譜。
(……これが、”灰神の眼”……!)
頭が割れそうだった。
視た情報が多すぎて、脳が処理しきれない。
観測というより、”観測されている”。
セレスが慌てて駆け寄る。
「はるひ、やめなさい! それはあなたの観測
域を超えています!」
「でも……この塔の真実が、そこに……!」
灰の瞳がゆっくりと回転した。
空間が歪む。
まるで世界そのものが”視線”に反応している
ようだった。
その時、耳の奥で声がした。
それは誰の声でもない。
灰そのものが語りかけてくるような、無機質
な響き。
《観測者はるひ。識別コ-ド・不完全。灰律と
の同調率、上昇中》
《問う。おまえは世界を”修復”するか、”書き換
える”か》
はるひの呼吸が止まった。
灰神が、問いかけている。
その問いは、まるで選択の強要だった。
「……修復も、書き換えも、同じだろ。壊れて
るなら、直すしかない」
そう答えた瞬間、灰の眼が明滅した。
《選択・承認。灰識認定レベル上昇》
視界が反転する。
灰が流れ込み、彼の右眼が蒼く発光した。
「はるひ!? その目……!」
シオンが叫ぶ。
はるひの右眼には、灰の紋様がきざまれてい
た。
《灰識眼》ーー塔の構造、魔
素の流れ、命令の根源すら視る”神眼”。
ジルが呆然と口を開く。「おい……それ、や
ばい力じゃねぇのか」
「……これは、観測を超えた観測。世界の命令
文が視える……」
はるひは手を伸ばし、空間の一点を掴む。
そこにあったのは、見えざる”記述”。
灰神が管理する”世界の構文”そのもの。
「《灰識再構築・局所律改変》……!」
指先で文を撫でると、塔の空間がうねった。
灰の渦が静まり、足場が現れる。
道が、できたのだ。
セレスが息を呑んだ。
「まさか……灰神の命令を書き換えるなんて……
そんなこと、人間には……!」
「俺は人間だ。けど、”観測者”でもある。どっ
ちの境界も超えてみせる」
彼らは灰の眼の前を通り抜け、第三層の中
心へと向かった。
そこには、灰の台座と、古代の碑文があっ
た。
セレスが碑を撫で、古代語を読み上げる。
『灰神は観測者に眼を与えた。ゆえに人は”真
実”に触れ、やがて滅びを知る』
「……滅び?」
「灰神の眼を得た者は、やがて”神の観測”と同
調し、人としての境界を失う。あなたのよう
に」
はるひは静かに拳を握った。
「そんな運命、俺が上書きしてやる」
灰の台座の上に、黒い影が立ち上がる
形を持たぬ、純粋な観測の化身。
《灰視の番人(アッシュウォッチャ-)》ー
ー灰神の眼を護る守護者だった。
シオンが祈りを構え、ジルが短剣を抜く。
セレスは詠唱を始める。
そして、はるひは灰識眼を開いた。
「見える……お前の動きも、命令も!」
灰視眼が輝き、敵の行動構文が空中に浮か
ぶ。
『防衛命令:対象排除』ーーなら、上書きす
ればいい。
「《灰識干渉ーー命令再定義:護衛対象・
我々》!」
灰光が弾け、番人の動きが止まる。
光が逆流し、敵の灰体が溶け、跪いた。
やがて静寂の中に、灰神の声が再び響く。
《観測者はるひ。貴様は境界を越えた。次なる
階層にて、”灰律の真核”に触れよ》
灰の瞳が閉じ、空間が静まる。
塔の中心に、光の階段が現れた。
ジルが息を吐きながら笑う。
「おいおい、どこまで行く気だ? これ、もう
人間の領分じゃねぇぞ」
「……それでも進むさ。ここまで来たんだ。観
測者として、努力の果てまでな」
セレスがその背を見つめ、微かに微笑んだ。
「なら、私たちも共に歩みましょう。あなたが
”灰”になるその時までーー」
灰光が昇る。
階段を登るたび、はるひの眼が淡く輝いた。
それは、人の眼ではなく、神の観測を宿す”灰
神の眼”だった。




