第5話 セレスの記録
朝が来ても、空は灰色のままだった。
けれど、はるひには確かに”夜明け”を感じて
いた。
灰の修道院での戦いを超え、自分の中に芽生
えた”力”ーー
それは、ほんの少しの自信と、次の一歩を踏
み出す勇気をくれた。
セレスは無言のまま歩いていた。
長い銀髪が灰の風に揺れ、瞳はどこか遠くを
見ている。
その横顔には、今までになく陰があった。
「……なあ、セレス」
「はい?」
「さっきの修道院でのこと。お前、知ってたん
だろ? あの連中のことを」
セレスは一瞬だけ足を止めた。
灰の粒が、彼女の肩に静かに積もる。
「ええ。彼らは、私の”同胞”でした」
「同胞……?」
「私は、”灰巫女”。
この世界の灰律を記録し、維持するために生
まれた存在です。
修道院の人々は、かつて私と共に”観測”を支
えていました。
けれど、灰に呑まれ……自らを神と信じるよ
うになった」
「じゃあ、あの男は……」
「私の、かつての弟子です」
その言葉には、痛みが滲んでいた。
灰巫女ーーセレス。
彼女がただの案内役ではなく、この灰界その
ものと深く結びついた存在であることを、
はるひはようやく理解し始めていた。
塔へ向かう道の途中、灰の霧が濃くなってい
った。
視界が霞み、足元さえ見えなくなる。
「おい、セレス。なんか……妙だ」
「ーー灰獣です。しかも、通常の個体ではあり
ません」
霧の中から、音もなくそれは現れた。
四足の獣のような体。だが、その背から無数
の腕が伸びている
顔は人の形をしており、泣き声のような呻き《うめ》
が響いた。
《灰獣・多肢型》
「くそ……でけぇな」
「はるひ、油断しないで。こいつは”観測者の記
録”を喰らう」
灰剣を構え、集中する。
灰の流れ、風の乱れ、すべてを”見る”。
「《観測同期》ーー発動!」
視界が灰に染まる。
獣の動きが、遅く……見える。
ーーが、その瞬間。
「なっ……!?」
視界がノイズに覆われた。
灰獣の身体の一部が、まるで幻のように揺ら
めく。
”見えているのに、見えない”。
「これは……観測を、妨害してる!?」
セレスが叫んだ。
「灰獣の中でも、強者が持つ能力。 《灰乱(ア
ッシュジャミング)》……!」
「クソッ、こんなタイミングで!」
槍のような腕が飛ぶ。
防御が間に合わないーー!
ドン、と鈍い衝撃が身体を貫いた。
視界が弾けるように白く染まり、息が詰ま
る。
血の味が口の中に広がった。
「はるひ!!」
セレスの叫びが聞こえた。
けれど、遠い。
身体が灰に沈んでいく感覚。
……駄目だ、意識が……。
ーーその時、何かが聞こえた。
誰かの泣き声。
セレスの声。
灰の中で、微かに届くその震えた声が、胸を
打った。
”この世界を……見て。お願い、観測者。”
それは祈りのように響いた。
はるひは、ぼんやりと目を開けた。
灰の流れが見える。
けれど今までと違う。
”色”がーー見える。
灰の流れの中に、感情のような光が混ざって
いた。
怒り、悲しみ、絶望、希望ーー。
それらが渦を巻き、灰獣の中で蠢いている。
ーーこいつ……泣いてるのか?
無意識に、言葉がこぼれた。
その瞬間、灰剣が震え、刃に光が宿る。
《新スキル:灰識 》発
動。
灰獣の動きが止まった。
はるひはゆっくりと立ち上がり、剣を構え
る。
灰の中の”痛み”が、剣を通じて伝わってく
る。
「……あんたも、失ったんだな」
一歩踏み込み、灰剣を突き立てた。
刃が光り、灰獣の身体を包む。
轟音と共に、霧が吹き飛びーー静寂が戻る。
獣の姿は消え、灰だけが残った。
はるひは膝をつき、深く息を吐いた。
「……生きて、ますか?」
セレスが駆け寄る。
はるひは、震える手で灰剣を支えながら笑っ
た。
「うん。ギリギリだけど、なんとか。
でも……今、あいつの”気持ち”が見えた気がし
た」
「それが、あなたの新しい観測ーー≪灰識≫で
す。
感情、記憶、心の灰を読み取る力。
努力が、あなたを”より深く世界を見る者”へ
変えています」
「……努力って、ほんとしんどいな」
「けれど、それがあなたの強さです」
セレスは微笑んだ。
彼女の瞳にも、どこか涙の光があった。
その後、灰の霧が完全に晴れ、塔の輪郭がく
っきりと浮かび上がった。
遠くで、鐘のような音が鳴る。
それが、次の試練の合図のように響いた。
灰堂はるひは剣を握り直す。
この世界を”見る”ーーその決意を、胸の奥で固
めながら。




