第15話 記録なき観測者(ゼロ・オブザーバー)
――灰の風が、沈黙を裂いた。
灰遺の都の中心、記録核の上空。
灰堂はるひと、その“影”が対峙していた。
互いの姿はまったく同じ。
だが、空気が違った。
目の奥にある“何か”――それが決定的に異なる。
影のはるひは淡々と口を開いた。
「僕は“記録”。君がこれまで観測したすべての情報の写像。
君が恐れたもの、失ったもの、願ったもの――そのすべてを純粋化した存在だ」
「つまり、お前は俺の“可能性”ってわけか」
「違う。僕は“完成形”。人の限界を超えた観測体。
感情や迷いを切り捨て、純粋な知識として存在する」
影の声には、温度がなかった。
しかし、その一言一言が、刃のように鋭く響いた。
「君が観測を続ける限り、いずれ“矛盾”に呑まれる。
観測者は世界を解き明かす存在でありながら、同時に“存在を壊す”因子でもある」
「そんなこと、分かってるさ」
はるひは灰剣を構え、低く息を吐いた。
「けど――俺は、壊すためじゃない。“生きるため”に観測してる」
「生きる……?」
影の表情がわずかに動いた。
「愚かだな。
観測は感情を必要としない。結果こそが全てだ。
君のような“不確定な観測者”は、この世界に不要なんだよ」
灰光が弾けた。
影のはるひが動く。
空間が歪み、灰の剣が閃く。
刃が衝突し、光が走った。
衝撃で地面が砕け、灰の柱が吹き上がる。
セレスたちは思わず後退した。
「な、何が起きて……!」
「二人の観測が干渉している!」
ライゼが叫ぶ。
「同一存在による“観測共鳴”だ! このままじゃ都市全体が崩壊する!」
だが、はるひは退かない。
刃がぶつかるたび、記録の断片が流れ込む。
過去の戦い、仲間の声、笑顔、痛み。
それらすべてが灰の中に溶けていく。
「……見えるか、はるひ」
影が低く囁く。
「これが“君の終焉”だ。
観測の果てに残るのは、世界の虚無。
記録は積み重なるほど、矛盾を孕み、崩壊へ向かう」
「違う……」
はるひは苦しげに息を吐く。
「それでも、俺は観測をやめない。
たとえ矛盾の果てでも――俺は、“人として”見続ける」
その言葉に、影が一瞬動きを止めた。
「人として?」
「ああ。俺は、誰かのために戦う“理由”を持ってる。
セレスを救いたい。
ジルやシオン、ライゼ――仲間を守りたい。
それが俺の観測の意味だ!」
灰光が脈動した。
はるひの瞳が深く輝く。
「《観測拡張――零界相》!」
空間の灰律が反転する。
影の世界が崩れ、真白な光が走った。
観測情報が剥離し、二人の間で流動を始める。
「馬鹿な……! 記録を逆流させているだと!?」
「お前の記録は、俺の中に還る。
“人”の記録は、ただのデータじゃない――想いだ!」
灰の嵐が巻き起こる。
セレスたちが結界を張り、光の奔流を見つめた。
「はるひ……!」
その中で、二人の“灰堂はるひ”が衝突した。
観測と記録、心と理。
その境界が、完全に融け合っていく。
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光が収束したとき、そこに立っていたのは――ひとりだけだった。
灰の風が静かに吹く。
倒れた灰剣がひとつ、音もなく崩れ落ちる。
はるひは膝をつき、深く息を吐いた。
右腕には淡い灰の紋が刻まれている。
「……終わったのね」
セレスが駆け寄る。
はるひはゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「ああ。けど……少しだけ違う」
「え?」
「俺の中に、“もう一人の俺”が残ってる。
たぶん、完全に消えたわけじゃない。
記録として――俺の一部になったんだ」
ライゼが頷いた。
「それでいい。
記録は消すものではなく、“受け継ぐ”ものだ。
それが灰律の根本原理でもある」
ジルが笑う。
「つまり、また一段と強くなったってことか?」
「さぁな」
はるひは立ち上がり、空を見上げた。
灰の雲の隙間から、淡い光が差し込んでいる。
その光が、まるで“灰神の涙”のように静かに降り注いでいた。
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やがて、灰遺の都の記録核が静かに沈黙した。
脈動は止み、灰の風が穏やかに流れ出す。
「……次はどこへ向かう?」
ジルが問う。
はるひは少し考え、短く答えた。
「北だ。灰神の記録が示していた“原初の観測域”へ」
セレスが目を見開く。
「まさか、灰神が最初に降り立った場所……!」
「ああ。すべての始まりにして、世界が灰へ還る“門”。
――《神代境域》だ」
その名を告げた瞬間、遠くで低い轟音が響いた。
空が軋み、灰の雲が裂ける。
そこには、巨大な光の柱が天へと伸びていた。
灰堂はるひは、灰風の中で目を細めた。
「……次で、終わりだ」
灰神の記録が、静かに揺らめく。
人と神、記録と観測――そのすべてを懸けた旅は、
最終局面《クロノ・ゲート編》へと進んでいく――。




