蜜と金柑飴
五月の風はあたたかく、木々の隙間からは小鳥の可愛らしい声が洩れています。西に傾いたオレンジ色の太陽が、枯れ葉で埋まった地面を明るく染め、わたしはその光を浴びながら、石造りのベンチに腰かけていました。
大学の授業は、もう終わりました。今日は三限にひとつ、五限にひとつ、授業があったのです。もともと真面目な性格でない女子大生のわたしは、大学の授業と真剣に向きあうことなどできず、講義室の後ろの席に座っては、読みかけの小説にふけり、窓の外に立つポプラの木を眺めては、イヤフォンから流れてくる『落日』を聴き入ったりしていました。
風が吹き、地面の枯れ葉は、かさかさと物悲しげな音を鳴らします。なぜに黄昏というのは、こんなにも感傷を香らせるのでしょうか。決して闇の中の孤独というわけではありません。いまだ陽は空にかかり、周囲には少なからず、ひとが歩いているのです。わたしの後方には、テニスコートがあり、そこで汗をほとばしらせる、男女の活気ある声が、夕暮れのキャンパスには響いているのです。
わたしはベンチに腰かけたまま、黙って初夏の空を見つめていました。煙のようにもやもやとした絹雲が、西の空には流れています。その下を、二羽のカラスが優雅に横切っています。大袈裟なことなんて何もない、等身大の光景です。きっと何年も前から在る光景なのでしょう。
前方からひとがひとり、やってきました。
背は小さく、老婦人のようです。その右手に持ったリードには、小柄な柴犬がつながれていました。乾いた音をたてて、その老婦人と柴犬は、枯れ葉を踏みしめながらこちらへ歩いてきます。柴犬は走りまわることなく、落ち着いた様子で、老婦人の一メートルほど前をとことこと歩いています。賢い飼い犬のようです。
「こんにちは」
わたしは、その老婦人に挨拶をしました。呟くような小さな声でしたが、礼儀を知らない無愛想な学生だと思われたくなかったのです。すると彼女は、言葉を返すでもなく、にこっと微笑んで、わたしに軽く会釈をしました。そして手を伸べて、持っていたリードをわたしに手渡しました。突然のことに驚いたわたしは、何が何だかわからないまま、そのリードを受け取ってしまいました。リードの先につながれた柴犬は、なおも落ち着いた様子で、わたしの足元をくんくんと嗅いでいます。
「ちょっと、持っておいてちょうだいね」
その声は、予想に反して若々しいものでした。わたしは言われるがままにリードを受け取り、彼女の顔を見上げました。彼女は、わたしが思っていたよりもずいぶんと若く、見たところ五十歳手前のようです。ただ、その低い背丈と、深みのある落ち着いた身なりから、わたしは、彼女がずいぶんと年を取っているのではないかと思ってしまったのです。
「あなたは、ここの学生さん?」
「はい」
「私も、ここの卒業生よ」
彼女は、わたしの隣に腰かけました。ヘリオトロープの香水がぷんと香ります。彼女は茶色い皮のバッグから水筒を取り出し、コップに緑茶を注ぎ始めました。だいぶ熱く沸かしたようで、白い湯気をゆらゆらと、空気中に立ち昇らせています。
「あなた、ここでひとりで何してたの?」
彼女は緑茶を注いだコップを両手で大事そうに抱えたまま、わたしに訊きました。
「いえ、特に何も……」
事実、わたしはこれといって何かをしていたわけでもありませんでした。午後の授業はすでに終わってしまったけれど、夕食をとる時間にはまだ早く、わたしは学生会館のフロアで小説をぱらぱらと読んだあと、気の向くままに、この広場へと足を運んだのです。ひとりで西日を浴びると、なんだか寂しい気持ちなってきますが、ときに人波と騒音から逃げだしてみたいときが、わたしにはあるのです。しかし、そんな気持ちを詳しく説明する必要はないだろうと思い、わたしは意識的に言葉を詰まらせました。
「そう」
彼女は小さく呟いて、溜め息のような呼気を吐き出しました。わたしは、彼女の横顔を見ながら、こくりと微かに頷きました。彼女は黙ってコップを抱えています。それ以上何も話す様子はありません。周囲に生える松の木々からは、鳥の啼き声が零れています。彼女はなおも黙ったままです。わたしは何だか気まずかったので、余った右手で携帯電話をいじりながら、素知らぬふりをしていました。柴犬は紅色の舌を垂らして、わたしをじっと見つめています。
「一年前の今日ね、主人が亡くなったの」
鬱然とした声が、隣から洩れました。わたしは初め、その言葉を聞き取ることができませんでした。その声は、独り言のように放たれたので、誰に吸収されるわけでもなく、不安定に空気中に浮かんだのです。
「五月十日。主人がいなくなってから、今日でちょうど一年」
「……」
人間というのは、ふいに放たれる重たい言葉には、柔軟に対応できないようなのです。わたしは、何の反応も示すことができず、彼女の横顔をちらっと見るだけで精一杯でした。あたたかなオレンジ色の日溜まりが、彼女を覆っていました。
「私と主人が出会ったのも、五月の晴れた、こんな日だったの。少しだけ蒸し暑くて、長袖のフランネルシャツを着ていた彼は、肘のあたりまで腕まくりしていたわ」
彼女はようやくコップを口に付け、一口だけ緑茶をすすりました。目を細め、遠くの風景を見ているような眼差しでした。目尻の皺はまだ浅いのですが、どことなく疲れた雰囲気が滲み出ている、そんな気配が漂っていました。
「いいのよ、聞き流して。ごめんなさいね。急にこんな話したりして」
ふと彼女は我に返ったような、明朗な口調でそう言いました。急にわたしという人間を意識したような湿度のある声色でしたが、それでもしっとりと落ち着いた、大人びた女性の声でした。彼女はバッグの中から金柑飴をふたつ取り出して、わたしにくれました。
「ありがとうございます」
わたしは早速そのひとつの包装を破り、黄金色の飴玉を口に含みました。柑橘の爽やかな甘酸っぱさが、口中に広がりました。甘くて、おいしい――。
「あなたは、永遠に誰かを愛そう思ったことある?」
彼女は突然わたしに訊きました。
聞き慣れないその言葉は、わたしの耳にざらりとした、妙な感覚を残しました。
――永遠。
――愛そう。
人生の浅いわたしには、あまりに使いづらい言葉です。長い歴史の中、多くのひとが、その言葉の意味に悩み、もがき、苦しんだのです。ひとを酔わせる崇高な響きでありながら、いつの時代も、その実体を現わすことはなく、必ず美しい実を結ばせる、という単純なものではないようなのです。弱冠二十歳のわたしに、その言葉を使う資格など、到底ありません。
「……いいえ」わたしは、半ば俯き加減で答えました。
「そう、突然変なこと聞いてごめんなさいね」
彼女は申し訳なさそうに、そう言いました。
――事実、わたしには、一ヵ月前まで恋人がいたのです。同じ大学の男性で、二年前の春に自動車学校で出会いました。およそ二年間、わたしたちは恋人同士でした。春には、夜桜を見に、近くの河川敷まで真夜中にドライブをし、夏には、彼のアパートの庭にあるキンモクセイの梢に、ふたりの願いを込めた一枚の短冊をなびかせました。秋には、コスモスの咲き乱れる高原で手をつなぎ、冬には、小さなこたつにふたりで入り、静かに聖夜を過ごしました。
何物にも代え難い、幸せな時間でした。彼は当たり前のようにそばにいて、彼がわたしの目の前から消えることなど、当時のわたしにはまったく想像のできないことでした。
しかしある日、彼はわたしのもとを去りました。「ごめん、他に好きな人ができた」という、うわ言のような言葉を残して、わたしから離れて行ってしまったのです。間違いなく目の前で放たれた言葉でしたが、わたしの耳に届いた瞬間には、もう現実色の褪せた響きへと変わり、それを胸のうちで噛みしめ、理解を以て呑みこむころには、彼はすでに、わたしの知らない誰かと手をつないでいたのです。
そのときから、わたしは永遠というものを信じることがなくなりました。ずっと――。これからも――。そんな軽薄な言葉は、使う分には容易いのです。それを約束する気持ちがない人間でも、その言葉を口にするだけなら、少しも苦労は要りません。ここは、嘘つきばかりが住む世界のようなのです。
わたしは悲しみと焦燥があいまって、涙を流すようなことはしませんでした。泣くもんか泣くもんか、と、下唇をぎゅっと噛み、鼻を強くすすりました。一粒でも涙を流したら、わたしはもう、前へ進めないような気がしてならなかったのです。わたしはひどく疲れました。昼も夜も布団にくるまっていました。わたしは、出口をふさがれた水道管なのです。
「いつか、あなたにも――」
隣に座っていた彼女は、言葉を途中で諦め、すっと立ち上がりました。そして緑茶の入ったコップを持ったまま、とことこと歩き始めました。家に帰る様子はありません。柴犬はわたしの持ったリードにつながれたままで、茶色い皮のバッグは、まだベンチに置かれたままなのです。
彼女はすぐに、歩みを止めました。広場の中央に生える、ひときわ大きな松の木の前に立つと、彼女は空を仰ぎ、誰かに話しかけるように、小さく口を動かしました。木々のざわめきと、鳥のさえずりと、テニスコートの歓声から、わたしには、彼女が何を言っているのか少しもわかりませんでした。彼女は空を仰ぎながら、目をつむって、話し続けました。さらに彼女は持っていたコップを口に付け、静かに、次は二口ほど緑茶を飲みました。そして、残った緑茶を、松の木の幹にかけ始めたのです。
何をしているんですか?
――もちろん、心の声は彼女に届きません。コップから流れ落ちる液体が、木の幹を歪な形に濡らします。濡れた部分は、濃い褐色に染まり、いくつもの雫をしたたらせています。
コップの中を空にした彼女は、優しい微笑みを浮かべて、木の幹を見つめると、ぺこりと小さなお辞儀をして、こちらに戻って来ました。わたしの隣に腰を降ろすと、持っていたコップを水筒の頭部に取り付け、バッグにしまいました。
「昔から、本当に自由なひとだったの」
先ほどよりも温かみのある、柔らかな声で彼女は言いました。
「……何をしてたんですか?」
わたしは、思わず訊いてしまいました。彼女の横顔が重く沈んでいたなら、わたしはこのような質問はしなかったように思えます。しかし、落日の射光もあるのでしょうが、彼女の横顔は仄かに明るく、頬が薄紅色に染まり、優しげだったのです。
「むかしね、わたしたちが大学生だったころ、ふたりでよくこの広場を歩いていたの――」彼女は話し始めました。わたしは視線を再び前に戻し、濡れた木の幹を見つめながら、彼女の声を聞いていました。
「――それである日、いつものように、ふたりで散歩していると、彼が突然ふっとあの松の木に走りだしたの。突然どうしたんだろうって思って見ていると、彼はまじまじと木の幹を見つめているの。すると急に舌を出して、ぺろって、その幹を舐めたのね。わたしは驚いたわ。近寄って彼にどうしたのかって訊いてみると、彼は幹を指さして、木の蜜が垂れていたから舐めてみたって。その少年のような笑顔が可愛かったわ。わたしも彼の笑顔が伝染して思わず笑ってしまって、おいしかった? って訊くと、彼も笑ったまま、まずかった、って」
彼女は、そこまで話すと、バッグの中から一枚の写真を取り出して、わたしに手渡しました。写真の状態としては、皺もなく綺麗だったのですが、長い年月にわたり光に晒されたことがわかる、色褪せた真影が映っていました。
写真の中のふたりは笑っていました。仲良く並んで、彼女のひと回りもふた回りも大きい彼が、彼女の肩に手を回していました。彼女は大きな麦わら帽をかぶり、青と白のボーダーのTシャツを着ていました。その隣に立つ彼は、紺色の無地のポロシャツを着ていました。ふたりの背後に立つ松の木は、今日と変わらず青々と生い茂っていましたが、そのさらに後ろに立つ学生会館は、今とは違う茶色いレンガ造りの、レトロな外観をしていました。
「わたしはさっき、永遠を誓ってきたのよ。あなたはもう死んでしまって、わたしを裏切るようなことはできないから、わたしも同じように、あなたを裏切るようなことはしません――って。とても遠回りな、長い月日を経た、誓いの口づけね」
彼女はそう言って笑いました。彼女が笑うと、その横顔の口元や目尻に、艶やかな皺が刻まれ、とても魅力的に見えました。
「永遠に愛し合うことは難しくても、永遠に愛することは、わたしにとってそれほど難しいことじゃないわ。待っていてくれているあの人を裏切ることはできないもの」
彼女はそう言うと、わたしの手の平からリードを取り、バッグを抱えると、音も無く立ち上がりました。心なしか、先ほどよりも、彼女の身体が大きく見えました。
「ありがとう」
彼女はわたしの右手にそっと手を置きました。そして柴犬を連れて去って行きました。
わたしは彼女の手の温かみを右手に感じていました。しっとりと湿っていて、女の強さを感じました。このとき、わたしはふいに、涙を零しました。ひと月前、恋人を失ったときに一筋も涙を流さなかったわたしが、このときなぜか涙を流してしまったのです。自分でもなぜだかわかりません。二粒ほどのわずかな量でしたが、胸に心地良い空白感がすうっと訪れました。嬉しい涙、悲しい涙、苦しい涙――そのどれにも属さない不思議な涙が、人間には備わっているのでしょう。
陽はさらに傾き、東の空は藍色に染まっています。キャンパス内のひとの数も、少なくなっています。わたしはベンチから立ち上がって、広場の中央に立つ松の木に歩み寄りました。幹には、緑茶が残した染みが、いまだ歪に滲んでいます。その褐色の染みは、この日最後の陽光に照らされ、美しく映えて見えます。わたしは舌の上で、小さくなった金柑飴を転がしました。瑞々しく、じわっと溶けて、とても甘く思えました。