Chapter 6:記憶核の裂け目 (Rupture of the Memory Core)
——「記憶の喪失は、存在の更新だ。」——
——“The loss of memory is merely an update of self.”——
Rubrum Lotus(紅蓮)との戦いの後、
追跡を避けるために白霧は、俺を瓦礫の廃墟へと導いた。
焼け焦げた匂いが、鼻の奥を刺す。
まるで、この世界そのものがまだ疼いているようだった。
両脇には、崩れ落ちた高層ビル。
無言のまま、上から俺たちを見下ろしている。
頭上では、歪んだ鉄骨と砕けたガラスが微かに揺れ、
今にも崩れ落ちそうだった。
歩くたびに、足取りがふらつく。
左腕のData Torrent(データの奔流)が、静かに、だが確実に侵蝕を進めていた。
Fissura Translucida(透明な亀裂)は、肩まで広がっている。
——分かっている。
これはDeletio(削除)。
この世界が、俺という存在そのものを拒絶している証だ。
俺は「存在してはならない」。
それが、変えようのない事実。
——それでも。
生きたいと、思っている。
その矛盾に、思わずかすかに笑ってしまう。
哀れで、滑稽で、無様で——それでも確かな、俺の感情だ。
足元の割れたガラスが、歪んだ俺の姿を映していた。
そこに映るのは、「正常」ではない体。
左腕に視線を落とす。
「……これは、何だ」
掠れた声が漏れる。
左腕に走る疼きを押し殺すようにして、歩みを止める。
白霧は、振り返らない。
歩調は軽く、迷いがない。
腰で揺れるAlba Noctis(白夜剣)だけが、かすかに存在を主張していた。
「Nucleus Terminus(終焉コア)の一部だ」
彼女は静かに言った。
まるで、ただの観測結果を伝えるように。
「五年前、それがお前の体に埋め込まれた」
その言葉に、反射的に足が止まる。
「……何の話だ」
振り返った白霧の瞳には、驚きも、同情もなかった。
ただ、冷たく澄んだ光が宿っていた。
「……覚えていないのか」
その言葉に、頭の奥が軋むように疼いた。
——記憶が、砕ける。
Data Torrent(データの奔流)が低く唸り、情報の奔流が視界を塗り潰す。
すべてを呑み込もうとする混濁の中、俺は暗闇に引きずり込まれていった。
身体の感覚が急速に冷えていく。
そして——
次の瞬間、俺は実験台の上にいた。
重い鎖。
四肢は拘束され、身動き一つ取れない。
胸の中心が、灼けるように熱い。
——これは、何だ。
視線を落とすと、
Nucleus Terminus(終焉コア)が紅く脈動していた。
その光が肉に沈み、神経を蝕む。
Data Torrent(データの奔流)が、細く絡みつくように皮膚の下へ侵入し、
骨と神経の構造そのものを書き換えていく。
意識が深く沈んでいく。
——Abyssus(深淵)。
終わりのない闇。
崩壊の底。
「あ——ッ!」
胸の奥で、何かが爆ぜた。
膝から崩れ落ち、胸を押さえる。
呼吸がうまくできない。
指先が無意識に衣服を掴み、冷たい汗が頰を伝う。
痛みは、もはや嘲笑のようだった。
破れたコートの隙間から、赤黒い血が滲んでいた。
命そのものが、削られていく感覚。
左腕に目をやる。
……最悪だ。
もう、腕とは呼べなかった。
Fissura Translucida(透明な亀裂)が肩口まで達し、
その上を、歪んだ符文のようなData Torrent(データの奔流)が這い回っている。
この異物は、俺の中に確かに“いる”。
——俺を喰らおうとしている。
紅蓮との戦いの後、この腕は変質した。
いや、正確には……「変わらされた」のかもしれない。
紅黒の光が軋むように揺れている。
幻のように不安定な残影。
もう、“俺の腕”ではなかった。
白霧が、わずかに眉をひそめる。
Alba Noctis(白夜剣)の切っ先が地面を軽く叩き、乾いた音が響いた。
「……思い出そうとするな」
相変わらずの冷静な声。
だが、わずかに滲む温度があった。
白霧の視線が、俺の左腕に注がれる。
「お前のReliquiae Data(残存データ)は不安定だ。
記憶も同じ」
言葉には、感情がなかった。
ただ、事実を淡々と並べているだけ。
それが逆に、核心の重さを際立たせていた。
「無理に掘り起こせば、崩壊を早めるだけだ」
その言葉に、俺は答えなかった。
——だが、思った。
俺は、なぜここにいる?
なぜ忘れさせられた?
なぜ「削除」されかけている?
その問いの先にあるものが、
この腕の疼きと、俺の空白のすべてに繋がっている気がした。
──この世界に抗う鍵は、
消された記憶の奥に眠っている。




