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数時間後。夕暮れ前にパルミエーレ公爵家の屋敷へ帰還すると、すでに家の中はちょっとした騒ぎになっていた。
「お嬢様、お、お帰りなさいませ……」
出迎えてくれた執事のアデルが明らかに落ち着きなく、頭を下げながら目を泳がせている。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「それが……旦那様と奥様が、もう話をお聞きになったようで……」
要するに「王太子との婚約破棄」という一大事が、既に公爵家に伝わったのだろう。それだけなら想定内。私は半ば開き直った気分で屋敷の奥へ足を進める。
すると廊下の奥から、早足でこちらへ向かってくる男がいた。
「アメリア! おまえ、本当に王太子との婚約を破棄したのか?」
そう声を掛けてきたのは、私の兄――ギルフォード・パルミエーレ。歳は私より四つ上で、次期公爵になると目される優秀な人だ。
眉を顰めている兄は、いつも物腰柔らかなのに、今日はどうにも焦っている様子。
「ええ、正確には“殿下のほうから破棄を持ちかけられて”、私も承諾した、という形だけど。急に言われたので困ったけれど……あまり引き止める理由もないし」
私がそう言うと、兄は驚きのあまり肩を落とす。
「いや、普通なら困るどころか大騒ぎだぞ……殿下の婚約者が破棄されるなんて、家の立場や政治的な問題も大きいし……」
「はあ……そのあたりは後ほど父と話すわ。家の立場が大事なのはわかるけど、私にとっても色々あるの。……兄さま、父と母のところへ案内してくれる?」
少し厳しい口調を出した私に、兄は目を丸くする。前までなら「兄さま、すみません……」とおどおどついていくだけだったからだろう。
「……いいさ、今、応接室に二人ともいる。覚悟して行けよ。相当怒ってるし、というか心配もしている」
そう言いながら兄が歩き出すので、私はひとつ息をついてから、その背中を追った。侍女のマリーも後ろからついてきているが、部屋に入る直前に私に小さくささやく。
「大丈夫ですよ、アメリア様。どんな言葉を浴びせられても、アメリア様が決めたことですから」
「ええ。ありがとう、マリー」
扉の向こうには、私の両親――公爵夫妻が待っていた。
公爵である父は、貫禄ある体格を持ち、政務官としても有能と名高い人。母もかつて社交界の華と謳われた美女で、きっちりとした身なりを崩さない。
その二人が私を見るなり重苦しい空気を漂わせるのだから、思わず笑いそうになる。
「アメリア、これはどういうことだ?」
怒気を含む声で問いかける父。何年かぶりに聞く強い口調だ。母も横で眉を吊り上げて、心底納得いかない表情をしている。
私は平然と微笑んで答える。
「殿下が婚約破棄を希望されたので、承諾しました。何度も言われてきた“理想の后”に私がふさわしくないなら、それで構わない、と……」
そこまで言うと、母がドンと机を叩き、声を荒らげる。
「ふさわしくないですって? あなたはそれを受け入れたの? 王太子妃の座をあっさり放棄するなんて何を考えているの!」
「そうだ。パルミエーレ家にとって、おまえが王太子妃になるのは大きな意味があった。それをおまえは……」
父も苦々しく言葉を継ぎ、そして首を振る。視線には少し落胆の色も混じっているようだ。
「両親の期待を裏切ってすみません。けれど、こればかりは仕方ないですわ。殿下も私を選びたくなかったし、私も彼の“理想”に付き合い続けるのが嫌になったんです」
両親はあっけに取られたように目を見開く。これまでの私なら、「ごめんなさい、お父様、お母様」と俯いて謝るだけだっただろうから。
(でも、今の私はもうそんな風に弱気にならない。少なくとも、余命半年を言い渡された今、いい子で過ごすことのほうがよほど無意味だと思うのだから)
父は少し声を落として言う。
「アメリア、おまえな……。体は大丈夫なのか? 殿下は“お前の体調がすぐれず、王太子妃の責務を果たせないかもしれない”と言っていたらしいが、そこに何か隠していることはないか」
ぎくり、と胸が痛む。父は鋭い人だから、私の病状が尋常ではないことを薄々感じ取っているのかもしれない。
(でも、いま打ち明けたら絶対に騒ぎになる。それどころか外出さえ制限されて、ベッドで療養させられかねない)
そう思った私は、努めて平静を装い、「気にしないでください」と返す。
「ちょっと疲れやすい程度ですわ。殿下が心配なさったのは確かですが、それだけで私を見限ったなら、その程度の絆しかなかったのでしょう」
母が困惑し、父は唇を結んで微妙な表情。兄は私を横目で見ているが、ここでは口を出さない。
――いい。もうそれでいいの。私は彼らのために生きるわけではないから。
「王太子妃という道がなくなった以上、私は私の道を歩むしかありません。家がどう思おうと、殿下とはもう終わりですし、これ以上どうにもできないでしょう?」
そうはっきり言い切ると、母は息を詰まらせる。父も苛立ちを抑えるように拳を握りしめているが、ぐうの音も出ない様子だ。
しばし沈黙が落ち、やがて父が渋々と目を伏せる。
「……まったく、おまえがそこまで言うならもう仕方ない。パルミエーレ家として大きな痛手だが、今さら覆ることでもないからな。ただ、今後はどうするつもりだ?」
「そうね。とりあえず好きに過ごそうと思います。自分の体と相談しながら、やりたいことをやる。――ごめんなさいね、お父様やお母様の望むようには動けないけど」
父が深いため息をつき、母は悔しそうに目を逸らす。兄はその場で苦笑気味に肩をすくめる。
「わかった。私たちもすぐに『何か』を決められる状況じゃない。少し時間をくれ。……おまえが賢明とは思えないが、もう止められん以上、なるべく世間体を保つためにも穏便に頼むぞ」
父の最後の言葉に、私は軽く微笑む。
「もちろん、あえて家の名声を汚すつもりはありませんわ。けれど、あれこれ口出しされたら困るから、その点よろしくね」
あまりにも歯に衣着せぬ物言いに、母は「まるで別人ね……」と呟く。兄も気圧されたように私を見ている。
(やっぱり驚くわよね。今まで本心を隠して“理想の后”を演じていたのが嘘みたいに強気になったんだから)
私はさっと一礼し、ドレスの裾を翻して部屋を出る。侍女のマリーが待ち構えていて、「お疲れ様です」と声をかけてきた。
「アメリア様、大丈夫でしたか? ご両親、かなり怒っておられたんじゃ……」
「怒り半分、呆れ半分ってとこね。王太子妃がなくなれば、家の威光も薄れるだろうし。正直、申し訳ない気持ちも少しはあるけど……やっぱり自分の命を最優先にしたいの」
マリーがほっとしたように笑う。
「はい、それでこそアメリア様です。……あ、それと、先ほど兄上様がおっしゃってましたけど、アメリア様の顔色が以前より良くなったと皆が噂しているとか」
「え? 前より良く見える?」
マリーは「ええ、私もそう思います」と頷く。
「殿下に合わせて無理していた時期は、表情も硬かったし、体調不良も重なって辛そうでしたから。最近は、はつらつとして見えるみたいですよ」
私は思わず額に手をやってしまう。実際、病そのものが治ったわけではない。でも、余命宣告を受けて逆に吹っ切れたおかげで、精神的にはむしろ軽くなっているのは確かだ。
「なるほど。そう見えるならよかったわ。私もまだ動けるうちにいろいろ楽しみたいしね……ほんと、半年なんてあっという間だもの」
呟いた言葉にマリーは一瞬驚いた顔をしたが、「そうですね……」と寂しそうに微笑むだけ。私もあえて深くは語らない。
玄関ホールへ向かいながら、私はマリーに提案する。
「ねえ、明日は街に出てみない? 派手なドレスを選びたいし、甘いものも山ほど食べたいの。……殿下に“お菓子は太るからやめろ”とか言われてたけど、そんなの関係ないわよね」
「大賛成です! 何か気になるお店はありますか?」
「友人から“ここのタルトは絶品”と聞いた店があるの。場所は……まあ、探しながら歩くのも楽しいし、ちょっと冒険しましょう」
ちょっと胸がわくわくする。それだけで生き生きしてくる感覚があるのだ。かつては前世含めて“他人の期待に沿う”ことばかりで、私が本当にやりたいことを考える暇すらなかった。
でも今は違う。王太子との婚約という大きな呪縛が外れた以上、私は自分の望むままに動いて構わない――そう決めている。
「ふふ……私、ほんとに変わっちゃったかもね。つい昨日まで“どうしたら殿下に怒られないか”ばかり気にしていたのが嘘みたい」
「はい、でもまわりも戸惑う以上に、実はちょっと憧れてると思いますよ。『あのアメリア様がいきなり強気に!』って」
「それならそれで結構。私、嫌われてもいいし、尊敬されるのも悪くないわ」
マリーと笑いあい、私は階段を軽やかに上る。夕陽が窓から差し込んで、廊下がオレンジに染まる。
いつか本当に体が限界を迎える日が来るのかもしれない。でも、それまでは“今”を楽しみたい。一日一日を――私の好きな格好で、好きな場所に行くために。
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