迷子の星
真っ暗な視界の中、遠い、遠いどこかから、私を呼ぶ声が聞こえた気がした。酷い煙の臭いがして、目も鼻も痛い。でも体は痛くなかった、その時初めて誰かに抱きしめられている事に気が付き、思わず顔を上げた。そこには、顔にたくさんの煤と擦り傷を付け苦しそうに呻く白髪の男の顔があった。誰だろう?と思った瞬間、近くで爆発音が響いた。次の瞬間には私は意識を手放していた。
「……はっ」
浅い呼吸と共に目が覚めた、酷い頭痛と吐き気がする。どうやら悪夢を見ていたらしい、全身汗がびちょびちょで気持ちが悪い。
しかしそこは寝台の上ではなかった。
木々に囲まれた場所で、私は地べたで横になっていた。芝生がとてもふかふかしていたので体は痛くなかった。ゆっくりと起き上がると、ズキン、と大きな痛みが頭に走った。
「うっ……」
片手で頭を支え、ぺたぺたとおでこや頭部を触ってみた。特に血が出ているわけでも無いようなので、気が付かないうちに頭を打ったのかもしれない。そう思い最近の記憶を思い出そうとしたら、また酷い痛みが頭に走った。
痛みに涙目になりつつ、全身がべとべとしていて気持ちが悪いのでとりあえず着替えがしたいと思い慎重に立ち上がる。
立って辺りを見回すと、改めて自分がいる状況が分からなくなった。見覚えの無い森の中にいて、木漏れ日が差して暖かいとはいえ何故芝生の上で寝ていたのだろうか。
汗でべとべとだと思っていたが、着ている服はなんだかカピカピしていて、少し黒っぽく汚れている見覚えの無いものだった。紺色で厚みと重みのある生地、本来ならふわっと広がりそうな広い袖とスカートは、なんだかくたっとしている。いつの間に着たんだろう?と思うとまた酷い頭痛がした。
「ううっ……なんでこんなに痛いの……。」
本当に、何故自分はこんな状態になっているのか、とりあえず分かるところから思い出していくことにした。
「えーと、まず、私の名前は、えーっと……………………あれ…?名前、は……………」
自分の名前が分からなかった、流石に私でも自分の名前をど忘れするなんて思えない。だが、思い出そうとむっとするとまた酷い頭痛が襲ってきた。
「うっ…!……痛ぁ……もしかして、私って今、記憶喪失?」
何かを思い出そうとすると頭痛がする。
痛みに嫌気が差し、頭を使うことを中断した。焦っても仕方がない、記憶より、今の状況の方を考えよう。深呼吸をしてからもう一度辺りを見回した。
「うーん、とりあえず汗を流したいし水場が近くにあればいいんだけど……喉も乾いてるし」
どの方向を見ても出口のような光は見えなかったので、適当に歩くことにした。空気がひんやりして歩く度に風を感じる。汗が乾き始めて少しだけ気分が良くなった。
少し落ち着いてくると今度は喉の渇きと空腹が気になり始めた。
最近の事も思い出せない以上、自分がいつ最後に食事を摂ったのか分からない。動けるし、独り言を言う元気はあるのですぐには死なないだろうが、1人で森にいる以上早めに解決しなければいけない。
しばらく歩いていると、どこかから水が流れるような音が聞こえた。耳を澄ませて木の根っこに転ばないよう慎重に進む。この辺りは日陰が多くて足場が分かりにくいのだ。
すると、木々の隙間から差し込む青白い光が視界の端に見えた。私は思わずぱっと顔を上げ小走りでその方向へ向かった。案の定、根っこに足をひっかけ、「ひぎゃあ!」となんとも可愛くない悲鳴と共に顔からずべしゃと地面にぶつかった。
「……うわあ、泥まみれになっちゃったよ」
地面が湿っていたおかげで怪我はしなかったが、ただでさえちょっとボロボロだった服を更に汚してしまった。顔と手の泥を比較的まだ綺麗な袖で拭い、今度こそ慎重に明るい方へ向かう。
木の幹に手をつき、顔を覗かせるとそこには小さな池があった。ただの池ではなく、水底が見えるほど透き通った水に、木漏れ日がキラキラと反射してとても美しく、思わず溜息が出た。
「すごい、綺麗…………まるでここだけ別の世界みたい」
池の淵に近づいて水中を覗いてみた。どうやら魚はいないようだ。食事は出来なさそうだが水が確保出来たことに安心した。
その時、水面に人影が映っていることに気が付き思わず飛び退いた。が、周りを見渡しても誰もいない。もう一度しっかり水面を覗くと、そこに映っていたのは、淡い金髪に深い青色の瞳をした整った顔立ちの少女だった。思わずびっくりすると、その少女もびっくりしたような顔をした。しかし周りには誰もいない、どうやら自分の顔に自分で驚いただけだった。まじまじと水面の少女を見るが、まったく見覚えがない。どうやら私は本当に自分の事を忘れているようだ。
「うーん、思ってたより綺麗な顔。」
水面にいる少女の口が私の声に合わせて動く、なんだか不思議な感覚だ。しかし美少女とはいえ、転んだせいで顔は泥まみれだし、なんだか髪も薄汚れている。早く綺麗にしないと勿体ない。
私はそっと手を水に入れた。冷たすぎず適度にひんやりしていて気持ちが良い。手の泥を水中で落とし、少しずつ顔にもかけて綺麗にする。
すくった水をもう一度じっと見つめた、意を決して飲んでみた。とても美味しかった。喉が渇いていたおかげもあるが、なんだか水に味があるような、不思議な味がした。
「……ふう。あとは髪と服の汚れを落とせば完璧だね」
慎重に頭を水面に近づけ水で泥を落としていく。泥で茶色くなっていた髪も金髪に戻ってキラキラと光を反射している。
髪を絞って水気を払ってから、立ち上がって辺りを見回した。
「……うーん、服もだけど体を流したいんだよね……。人気がないとは言え、流石にこんな場所で真っ裸になるわけには…」
自分が人の目にも止まらないような外見をしていたら良かったが、流石にこんな綺麗な少女が1人で素っ裸で居るのは、だいぶ、いや、かなりダメな気がする。
袖とスカートだけでも綺麗にしようと思い、座り直して泥を落した。すると、さっきまでは気が付かなかったが、袖口に刺繍が入っていることに気が付いた。
木漏れ日のせいだろうか、なんだかぽわっと光を帯びているように見えたその刺繍は、見たことのない形をしていた。よく見るとスカートと胸元にも同じ刺繍がされていた。
自分の事が思い出せないのに服のことなんて思い出せるわけがない、そうは思ったがなんとなく目を引かれてしまう。やはりなんとなく発光している気がする。
後ろからガサガサッと葉っぱの揺れる音が聞こえハッとした。振り返っても誰もいない、だが、ここは森の中なのだ。神秘的な池にいたことでなんとなく忘れていたが、急に賊に襲われても私一人では太刀打ちできない、何故警戒してなかったのだろうか。
体が勝手に強張ってしまう、先程水面の自分に驚いたのは正直お化けのようなものに対する恐怖だったが、姿が見えない以上、もしかしたら人かもしれないし、獣の可能性だってある。確認しなくては、そう思い何とか足を踏み出す。自然に体にぐっと力が入る。
落ち着いて、落ち着いて、と自分に言い聞かせながら、精一杯の威嚇として物音がした方を睨む。
「だ、誰か、居るのですか?」
最初の声が裏返ってしまったが、後半は自分にしては威圧感のある声を出せたのではないだろうか。
キッと睨んでもう一歩近づく。相手の姿はまだ見えなくて、自分から近づいているのに、なんだかこちらがじりじりと追い詰められている感覚がした。
もう一度、ガサガサッと葉が動いた。バッと葉がかき分けられた、が、そこには何もいなかった。
困惑で首を傾げながら足元を見ると、そこには一匹の兎がいた。
……兎?
薄い灰色の毛並みがとてもふわふわしている。遠目から見たら毛玉にしか見え無いだろう。毛並みの良さだけで言えば今の私よりも綺麗なのではないか。
私はそーっと手を伸ばす。兎はぴょんと跳ね横に避けた。
うーん…お腹は空いているけど私一人じゃ調理もできないし、捕まえるのも難しいよね
食料として兎肉にすることも考えたが、生き物を捕まえるより木の実や果実を探したほうが体力的にも良さそうだ。
今度はゆっくり、下から掬うように手を伸ばした。兎が逃げなかったので顎を撫でることができた。とてもふわふわだ。
「早く仲間のところに帰ったほうが良いんじゃない?君も迷子なの?」
兎は耳をぱたぱたさせてくりくりとした目でじっとこちらを見つめている。抵抗しないので、頭も撫でてみた。しばらくふわふわを堪能していると、飽きたのか兎はぴょんと跳ねて茂みの中へ消えていってしまった。
次に会えた時には兎用に葉っぱを用意しておいたほうが良いかもしれない、そんなことを思いながら私は立ち上がった。
なんだか癒やされてしまったが、しっかり警戒して自衛しなければ。ふんすと息を吐いて気合いを入れていると、今度は少し距離があるところからまたガサガサと音が聞こえた。
兎だろうか?と思い目を凝らしてみると、苔が生えた大きな岩が目に入った。
すると、岩が動き出した。動き出したというよりは空中へ上がっていったという方が正しいのだろうか。思わず自分の目を疑ったが、瞬きをした次の瞬間には先程まで遠くに離れていた岩が、すぐ近くの距離にあった。
木々がひしめく音と共に、ふっと視界が暗くなった。上を見上げると、先程まで見えていた太陽が大きな岩面によって遮られていた。まるで洞窟にいるみたいだ。
……潰される!
自衛できるように、と意気込んだばかりだがこんな異常事態で自衛も何もあったものじゃない。
突如襲いかかってきた死ぬことへの恐怖で身体から抜けそうになったが、私はなんとか力を振り絞って、まだ囲われていない後方へ走り出した。自分がこんなに早く走れるなんて思っていなくて何度も躓きかけたが、命の危機に瀕しているからだろうか、今は誰にも負けないくらいの走りをしている気がした。
何がどうして岩の怪物に襲われかけているのか分からないけど、自分が何者かも分からないまま死ぬなんてできない。
走りながら、ズキンと頭が痛んだ。
なんとなく、以前にも似た恐怖を感じた出来事があったような気がした。
ぜえぜえと息をしながら、やっと見えてきた木々の終わりに希望が見えた。だが、希望はすぐ絶望に変わった。木々を抜けた先にあったのは森の終わりではなく、高くそびえ立つ土の壁だった。
上を見上げても終わりが見えない、登ることもできないその壁を見て、さっきまでの力は完全に抜け落ちその場に座り込んでしまった。
息を整える間も無く、後ろから岩の怪物が近づいてきた。汗が入ってしみる目をこすって、壁にもたれ掛かった。
暗い影が近づいてきて、私は目を閉じる。
…こんな早くに死ぬなんて
この怪物のことも、自分のことも、どうしてこうなってしまったのかも分からないまま死ぬなんて。
まぶたの向こうで、赤い光が見えた気がした。
「……うっ…………ん?」
どうやら気を失っていたようだ。心地よかった日差しがなくなり、夜が更けていた。淡い光をした満月が見える。
……あれ?怪物は!?
先程の出来事を思い出してハッとした。辺りを見ても、あの怪物はどこにもいなかった。
体を触ってみたが、森を抜けた時についた切り傷がたくさんあるだけで、それ以外は目立った怪我は無かった。
絶対に死ぬと思っていたのに、見逃されたのだろうか。
手を握ったり閉じたりしてみる、問題なく動いた。
「はぁーーー…………よかったぁ……。」
死の危機が去ったことで体の強張りも抜け、長い溜息が出る。
気づいたら知らない森にいて、宛もなく彷徨って、怪物に追いかけられて、恐怖で気を失って……どっと体に疲労が押し寄せてきた。
なんだか頭が回らなくて、ぼーっとしながら夜空を眺める。
ガサ、と音がした。動かない体の代わりに思わず心臓がギュッとする。
正面の茂みから聞こえたが、夜空の明るさに目が慣れて暗い茂みは良く見え無かった。
ガサガサと茂みの音と共に人のような影が見えた。
今度こそ、襲われる?
背の壁に手をついて、背筋を伸ばした。
距離が近づくにつれ、月光で形がはっきりしていく。なんだか、頭が三角形に尖っていた。
木の陰を抜けたその人の顔が見えた。
……男の人?
つばの広い尖った大きな帽子、体は暗い色のローブで覆われていて、長身な事は分かったが顔が半分ほどローブで隠れていてよく見えない。
足音もなく無言で近づいてくる。下がろうにも後ろには壁しかない、逃げ場は無かった。
手が届きそうな距離までその人は近づいてきた。
「……………………。」
沈黙が流れた。サクッと殺されて追い剥ぎをされるかと思ったが、その人は近づいたのにもまったく動かない。近くで見ると、本当に背が高く、月がその人の後ろにあるせいで逆光で表情も見えない。
すると、急に襟元を掴まれた。
「貴様、何者だ?何処からやってきた、誰の差し金だ?」
ぐっと掴まれた襟元に絞められた首が苦しくて、手で抑えようとしたら今度はそのまま両手首ともひとまとめに掴まれて頭上で押さえつけられた。
壁の砂利が手に食い込んできて痛いのに、力が強すぎて腕はびくともしなかった。
「命が惜しかったら早く答えろ、俺の気が変わる前に。」
「うっ……まって、下さい、苦しくて、喋れな……っ」
ぱっと襟元の手が離された。ゲホゲホと咳が出て、涙で視界が滲む。喉が痛い。
視線を上げるとその人と目が合った。
薄い金色をしたその瞳は、暗がりなのに淡く光っているように見えた。こんな時でなければまじまじと見ていたい程綺麗な瞳だった。
………殺気と警戒心が籠もっていなければ。
私が小動物だったら気を失っているだろうと思うくらい怖く睨まれているが、なんとか声を出す。
「私は……」
聞かれたことに答えようとしたが、口が止まった。よく考えたら、どれも分からないことだった。私が人に聞きたいくらいだ。
「俺は答えろ、と言ったはずだが、殺されたいのか?」
「ち、違います。私も私の事が分からないのです、気が付いたらこの森にいて、自分の事もこの場所の事も何も覚えていないんです!本当です!」
今度はちゃんと首を絞められる気配がして、必死に訴える。だが、金色の目から殺気は消えない。
「自分の事が分からないだと?その衣を着ていて本当に分からないのか?無駄な足掻きは俺を不愉快にさせるだけだぞ」
「自分の名前も分からないのです!この服だって、目が覚めたときに着ていただけで何も知りません!どうしたら信じてもらえるのですか?」
その人は心底不愉快そうに眉を上げながら、上から下まで私をじっと見た。
先程まで襟元を掴んでいた手が、急に視界を覆った。
「本当に貴様が記憶を失っていると分かれば、命だけは助けてやる。」
その言葉を最後に、また私は意識を失った。
「……う……」
眠気が残る目擦りながら周りを見て、唖然とした。見たことのない家にいる。それほど広くない部屋で、山小屋のような造りの部屋だった。
のそりと起き上がると、自分がベッドに寝かされている事に気が付いた。厚めの掛け布団がかけられている。よく見たら着ている服も変わっていた。
頭が追いつかない、私はどうして知らない家で寝ているのだろうか。思い出そうとするとズキンと頭が痛んだ。
そうだ、記憶を失って森を迷っていて、それから怪物から逃げて……
ガチャと音がした。バッとその方向を見ると知らない男の人が扉を開けて入ってきた。
長身で、着崩してはいるが質の良さそうなお金もちっぽい服装をしている。紺色の長髪を後ろでひとまとめにしていて、歩くとさらさらと揺れていた。
その人の金色の瞳と目が合った。
その瞬間、この人が夜に首を絞めてきた人だと分かった。
自分の顔色が青ざめていくのが分かる。コツコツと靴音が近づくたびに苦しくなってきた。
その人は近くにあった木のスツールを取りドカッと座った。足を組んで横にある机に肘をつく。不愉快そうに見下ろされた。
「やっと目覚めたか、貴様、虚弱すぎるのではないか?」
「……あの、これはどういった状況なのでしょう…?」
また危害を加えられると思ったが、睨まれているだけで首を絞めてきたりする様子は無かった。
その人はトントンと机を指で叩きながら大きく溜息をついた。
「はあ。貴様が嘘をついていないと証明しろと言ったから、この俺がわざわざ検査をしてやったんだ。ありがたく思え。お前は嘘をついていなかった。」
「はぁ…そうなのですか……信じて頂けたのなら良かったですが、私は何故ここにいるのですか?ここはどこですか?」
じろり、とさらにきつく睨まれた。
「嘘かどうか判断するための魔術を使おうとしたら、お前が勝手に意識を失ったんだ。嘘をついてない事が分かっても起きないから、仕方なく、この俺が!わざわざ、俺の工房に!運んでやったんだ。感謝しろ。」
フンと鼻を鳴らしてそっぽを向かれた。
なんというか、短気な子供っぽい人だということは分かった。態度は悪いがすぐには殺す気は無いようだ。
「……感謝致します。えーと、その、魔術というのは何ですか?私、魔法は知っていますが魔術とは魔法のようなものですか?」
その人は金色の目を大きく見開いた。もしかして魔術というものさ一般常識なのだろうか。
私が知っているのは魔法だ。自分、または周囲にある魔力を操り、本来人の力では起こせない特別な現象を生み出す事、それが私の知っている魔法だ。
……言葉の意味は覚えていても、どうやったら魔法を使えるかは全然思い出せないけれど。
「……貴様にここの一般常識が無い事は分かった。魔術の説明は後だ。まずは貴様に自分の名前だけでも思い出してもらう、手を出せ。」
その人が左手を差し伸べてきた。夜に見たときは手袋をしていたのか分からないが、明るい場で見るととても白くて綺麗な手をしていた。
「あの、何を……」
「良いから早く出せ、それとも、また首を絞められたいのか?」
バッと手を出した。また首を絞められるなんてたまったもんじゃない。
手のひらを重ねるように左手を置くと、その上に四角い白い紙を乗せられた。
白くて綺麗だと思ったが私の手と比べると大きく、すらりとした男性の手だった。
その人はじっと紙を見つめブツブツと呟いた。
すると、紙の真ん中から黒っぽい紫がじわじわと広がっていった。
ズキンと頭が痛んだ。頭を押さえようとすると、乗せている方の手首をガシっと掴まれ「おい、勝手に動くな」と言われる。動くなと言われても、こんなに頭が痛いのにどうしろというのだ。
ズキ、ズキ、と痛みの範囲が広がっていく感覚がする。痛い、痛い。勝手に涙が出てくる。片手で頭を押さえることしかできない。
いつまで続くのか、と思って耐えているとふっと痛みが引いて行った。驚いて正面を見ると、手に乗せていた紙が真っ黒になっていた。見上げると、心底不愉快そうな顔をしている顔が目に入った。
「これで終わりだ。自分の名前くらいは思い出せるんじゃないか?記憶を探ってみろ」
その人は真っ黒になった紙を取ると、ぺいっと手を離した。
「記憶を探ってみろって言われても……」
何かを思い出そうとすると度にあの酷い頭痛がしたのだ。無駄に痛い思いをしたくはない。
「いいか?貴様には魔術がかけられていたんだ。細かい制約は知らないが、それはもう陰湿でネチネチしたようなヤツが考えただろう面倒くさい魔術だ。その魔術のせいで、何かを思い出そうとすると強い痛みに襲われていたんだ。」
「はあ…そうなのですか……」
つまり、誰かに魔法のようなものをかけられたせいで何も思い出せなかったってこと?
「だが、俺がその魔術を剥がした。一気に記憶が戻る訳では無いだろうが、もう先程までの頭痛はしないだろう。なので、貴様は自身について思い出せ。それから貴様の扱いを決めるからな。」
じっと目を見つめられた。この人の言う通りならば、もう痛い思いはしないということだろうか。私はおそるおそる目を閉じ、もう一度自分の事について考えてみた。
……前に、誰かが必死に叫んでいた気がする。それが誰か、思い出せないけれど。
どこかで、火に包まれて崩れていく建物を見た気がする。酷い煙の臭いがして、それで……
あの時、私にかけられていた言葉は………
「……………メルンを、殺せ……?」
目の前の人の金色の目が先ほどより大きく見開かれていることに私は気が付かなかった。
見覚えのある映像が断片的に頭に流れ込んでくる。
「わ、私……処刑を、逃れるために………逃げて………でも、追い詰められて、それで、私………」
知らないはずがないのに、確かにあったことなのに、思い出せなくて気持ちがぐちゃぐちゃになっていく。
ぽん、と頭の上に手が置かれた。
「落ち着け。無理に恐怖したことを思い出す必要は無い。名前が分かればそれで良い、お前の名は、なんだ?」
「私の、名前……は」
金色の瞳とじっと目が合う。私は深呼吸をして、落ち着いて思い出す。
……白い髪をした人が、私を守ってくれていた気がする。その人が、私に呼びかけていた名前は…………
「………あの人が、私をそう呼んでいたんです、メルンって………それが私の名前です」
目の前の金色の目が少しだけ細められた。がたり、とスツールを動かし立ち上がると、また頭をぽんぽんとされた。
「よくやった。今日はもう考えなくて良い。明日からこき使ってやるから、それまでここで休んでて良い。」
ひらひらと手を振りながら紺色の髪を揺らして、長身の男はドアから出て行ってしまった。