セッション8.逡巡
ハマダさんと剛志はその日、3時間以上も話し合いをして別れた。剛志は小さなレストランを出て、あてもなく街をさまよい歩いた。繁華街では酔客が歓声を上げ、閑静な住宅街は街頭のLEDが寂しげに路地を照らしているのみで静まり返っていた。そのどちらでも、剛志はたとえようのない孤独を感じて胸が締め付けられた。それは香凜がいなくなってしばらくの間、深い淵に身を沈めているかのように剛志をとらえて離さなかった感情であり、ハマダさんの下で香凜と再び会うようになってからは忘れていた感情だった。何時間かけてどのような経路を辿って部屋に戻ったのか、剛志は翌日全く覚えていなかった。
ハマダさんは別れ際に言った。
「今起こっている事態について、高木様には一切責任はございません。全て我々メモリーバンクが責めを負わねばなりません」
剛志は途中からハマダさんの話に反応することができなくなっていた。予想していなかった事柄が次々と投げ込まれて、頭の中が混乱状態にあったのだ。ハマダさんは構わず一方的に喋っていた。
「納得がいなかいことは重々承知しております。それは我々チームも同じです。しかし、高木様ご夫婦の尊厳を守るために、今できる唯一のことが契約の解除だと、申し上げなければならないのが辛ろうございます」
結局、剛志はその場でハマダさんの提案を受け入れることなどできなかった。ハマダさんもそれは予想していたのだろう。沈黙する剛志に向かって、再度頭を下げた。
「決断には時間が必要であると思います。ですが、これだけはご理解いただきたく存じます。奴らの作業はこの間にも着実に進んでおります。私の推測だと、製品の完成までに残された時間はわずかであると…。苦しい選択だとは存じますが、ご決断はできるだけ早くしていただいた方が…」
ハマダさんの口ぶりも最後の方は苦し気で、途切れがちだった。しかし、その言葉はハマダさんの決意であり宣言であるように剛志は感じた。
剛志は「考えさせてください。こちらから連絡します」とだけ告げて、エッシャーの版画が飾ってある殺風景な部屋を後にしたのだった。
剛志には心許せる友がいた。大学時代からの付き合いで、香凜との結婚のときには自分のことのように喜んでくれたし、悲しい別れの際には一緒に泣いてくれた。香凜を失ったどん底から立ち直れたのは、メモリーバンクの香凜だけでなく、その友人の存在も大きかった。
「それで、剛志はそのままハマダさんを残して店を出てきた訳だ」
マコトは剛志の話をひと通り聞いたあと、そう言って手元のビールジョッキをあおった。
「もう、どうしていいのか分からない」
剛志も同じくジョッキを傾けた。これが5杯目になる。
「それにしてもハマダさん、度胸あるよな」
「えっ」
「だって、剛志にその事実を伝えた時点で、会社員としてはアウトだぜ。会社がやったこと自体は酷いことだし、剛志が怒って当然だ。俺だったら机をひっくり返して暴れたかもしれない。でも、ハマダさんが黙ってたら…」
「そう、製品が完成して世に出回ってしまう」
「お前の知らないうちにな。知らないことが幸せってこともあるけど、これは違うな。とても許せることじゃない。後で知ったらショックは今の何倍だぜ。ハマダさんはそのために職を賭して会社と闘うことにしたんだ」
マコトは自分で言って自分の言葉に頷いていた。
「ハマダさんは、本当に僕たちのことを真剣に考えてくれている」
「それは間違いないな」
「でも…」
剛志は言い淀んだ。
「香凜ちゃんとのことを全部チャラには出来ないってことなんだろう」
マコトは剛志がメモリーバンクで香凜と会い続けていることを知っている。最初の頃は「忘れるべきだ」と、記憶との逢瀬を否定していたが、やがてこの特殊な形の夫婦生活を認めるようになった。
「もう5年になるのか…」
マコトはしみじみと言った。
「最初は信じられなかったよ。香凜ちゃんの記憶とアクセスするなんてこと」
「僕だってそうだ。最初は半信半疑だった。でも、あの頃はメモリーバンクが唯一の希望だったんだ」
「ただ昔を振り返るだけじゃないんだよな」
「ああ、この前も僕が行った函館出張に、次のセッションでは香凜と一緒に行けた。信じられないくらいリアルな体験だったよ」
「俺は体験したことないんで、まだ心の底では信じられない気がするけど、お前がこの5年の間、香凜ちゃんの記憶とアクセスすることで、立ち直ってきたことは分かる」
剛志は黙ってビールを流し込んだ。
「だから今さら香凜ちゃんと別れるのは無理だってことだよな。金輪際会えなくなるってことだしな」
二人の間に沈黙の時間が流れた。
「ところで…」
最初に口を開いたのはマコトだった。
「これからどうなるんだよ。剛志が契約を解除して、それで全て終わりなのか」
「分からない。ハマダさんから伝えられたのは、僕に契約を解除してほしいということ、それだけだ。それ以上は聞けなかった。頭がいっぱいだった」
「契約の解除だけだったら剛志が泣いてそれで終わりか、それはフェアじゃない気がする」
「ハマダさんは何かを考えているようだったけど。あのときに言われたのは契約の解除だけだった」
「ハマダさんが誠実なのは分かるけど、契約の解除だけってのは対外的に会社の不祥事を隠蔽することなんじゃないのか。それだけだったらメモリーバンクが剛志に対してやった不正は闇に葬られる。剛志と香凜ちゃんの記憶データを使った研究とやらも、ストップするとは限らないぞ。相手は既にお前を裏切ってるんだ。契約解除で全てを終わらせるというのは虫が良すぎる」
剛志は黙ってマコトの話を聞いていた。
「損害賠償とかを請求できるんじゃないか。記憶の保管にはかなりの料金がかかったんだろう? 泣き寝入りは納得できないよな」
「たくさんの金がかかったけど、それ以上のことが、この5年の間に得られた。金の問題じゃないんだ」
「そうか…そうだよな。とりあえず賠償問題は別として、不正をマスコミに暴くって方法もある。個人の記憶はプライバシーの塊だ。それを勝手に利用していたことが明らかになったら、奴らのビジネスに大きなダメージを与えられる」
「ビジネス…ダメージ…だめだ、今はそこまで考えられない」
剛志は小声で言った。
「やっぱりな…」
剛志の様子を見て、マコトは確信を持った。
「要するにお前は香凜ちゃんと会えなくなるのが怖いんだろう」
剛志は頷いた。マコトの言うとおりだ。会社の不正、ハマダさんの立場、契約解除-そういった雑事はどうでも良い。剛志にとっての懸念はただひとつ。これから未来永劫、香凜に会えなくなるということなのだ。
マコトが静かに言った。
「でもな、これ以上は無理だと俺は思う。香凜ちゃんと会うのはもうやめにすべきだ。すぐに契約を解除して、メモリーバンクにそれ相応の責任を取らせる。それしか剛志の取るべき態度はないぞ。これに関してはハマダさんと同じ意見だ」