セッション6.邪悪な企み
「順を追って説明致します」
ハマダさんは沈痛な表情で語り始めた。
「人間の脳の動きは、分かったようで実は分からない部分がまだたくさん残されています。さまざまな物事を考える際の論理的な思考、これらは主に言語を介して脳に記録されます。このほかにも、視覚映像や音、匂いといった五感を通じた記憶もあります。一口に記憶と言ってもその種類は多種多様なのです。それらを脳は別々の場所で処理したり、記録したりしています。例えば、言語の意味を音で処理するのは脳の左半球、側頭葉の上側頭溝の周辺が大切な役割を果たします。ですが、環境下にある音は右半球の上側頭溝で処理されます。脳神経医学と工学の発展で、シナプスの電気信号パターンをデジタル化してマッピングすることが技術的には可能になりましたが、たったひとつの事象であっても、いつ何をして、そのときにどのような視覚、聴覚、嗅覚、触覚の反応があったのか―そうした事柄はコンピュータ内でフォルダ分けされるようにきちんと整理されて保存している訳ではありません。ですので脳内から取り出した記憶データを第三者がそのまま見たら、0と1の記号が無秩序に並んでいるようにしか理解できません。しかし、人の脳はこうした混沌とした記憶の複雑な関係性を完璧に統合処理できます。驚くべき機能と言わざるを得ません。ですから私どもは、バラバラな記憶を整理する作業を、実際の人間の脳に頼っているのです」
「それは以前もお聞きしました。香凜の記憶は僕の脳内でしか再現できない。それが究極のセキュリティでもあると」
「デジタルデータと人間の脳機能とのコラボレーションというのが私どものシステムであり、それがAIとの決定的な違いでした。高木様に体験していただいているように、人間の脳の助けを借りなければ、デジタルデータとして記録された人の記憶は再現できないと考えていたからです。しかし、もし、その共同作業の相手が人間の脳でなくAIだったら…このようなことは実現不可能だと、一般的には考えられていました」
「いました…? 過去形ですか」
「ランダムなデジタルの記憶データを統合的に再構築できる人の脳の特性を、AIが獲得したとしたら…」
「AIの機能は飛躍的に向上しますね」
「その通りです。AIは確実に高機能化します。ですが、それ以上に重要なのは、新たな可能性にも道を拓くことです」
「AIと人の脳が直結するということですか」
剛志は即答した。
「香凜の記憶を再現する経験を重ねるうちに、ふと思ったことが何度かありました。コンピュータが直接人間の脳とつながったら、どうなるんだろうと」
ハマダさんは深く頷いた。
「人間の思考をAIコンピュータが完璧に処理できるようになったら、AIと人の脳の共同作業でできることが格段に広がります。AIの機能向上は表面的なものです。本丸は人間の脳の新たな能力の開拓にもつながることだと言えます。それによる弊害も当然想定できますが、それと同じかそれ以上の可能性があります」
「それは分かるような気がします」
「人間という生物学的な制約の大きな存在にとって、この可能性は限りなく魅力的です。例えば、スモッグに満たされた都会暮らしの人が、遠くの山の中できれいな空気を胸いっぱいに吸い込む清涼感を味わうことができます。実際に体験していなくても、脳が疑似体験するのです。そう、高木様が嵯峨野めぐりの間に、実際にはしていなかった写経を体験されたようなことです。通信がつながりさえすれば、距離的な制約もなくなります。地球軌道上の宇宙ステーションで宇宙遊泳をすることもできるし、火星に送り込んだ探査装置にそれなりの機器を搭載すれば、あの赤い星の上を歩く感覚だって味わえます。火星上で人間は生身では活動できませんが、脳とコンピュータ、AIが直結すれば、それはあたかも自分が体験したかのようなリアルな情報として脳内に伝達されるのです」
「そんなことが実際にできるのですか」
「それだけではありません。他人の思考を共有することだって可能になるはずです。今、私どもは奥様からお預かりした記憶のデータを、高木様のみにアジャストするようにしていますが、AIが人の脳神経活動を人間並みにきちんと処理できる能力を持ったら、奥様と高木様のような1対1ではなく、AIを介して1対多、多対多で脳神経滑動を共有できるようになるでしょう。そうなると、ネットワークを通じて自分が欲する知識や経験を他人からもらうことができるようになります。学習という概念が根底から変わります。机にかじりついて何時間も勉強しなくても、ほんの短時間でノーベル賞クラスの博士の思考とシンクロし、知識を共有できるようになるのです」
「でも、そんなに簡単に思考を共有できたら、自分という存在の定義は、どこに置けば良いのですか。頭の中にある思考が全部自分のものじゃなくて、一部は他人のものになるとしたら、自分というものがなくなってしまうのではないですか」
「自我の崩壊という危惧はもちろんあります。人間にとってそれは捨て置けない重要な課題であることは確かです。その問題を解決しないまま、可能性のみに突き進むのは、とても危険なことだと私個人は考えています。ですが、想像してみてください。もしそれが実現したら、人の平均的な知能は格段に上がります。もしかすると、人類の大半が博士クラスの知識と知見を獲得できるようになるかもしれません。それを人類の次世代進化と考える研究者は少なくないのです。当社の中にもそのようなことを研究しているセクションが存在します」
剛志は訝った。そうした研究と、今自分に突き付けられている問題に、どのような接点があるのだろうか。話はかなり脱線していないか。
「一気に喋り過ぎましたね。少し喉が渇きました。何かお飲みになりますか」
そういってハマダさんは、店員を呼ぶためのスイッチを押した。
ハマダさんは清涼飲料水を注文した。剛志はビールを頼んだ。5分ほどして注文した飲み物が届いた。それを口にするまで、ハマダさんは一言も発しなかった。
「これから本題に入ります。このことをお伝えするのは本当に心苦しく、お恥ずかしいのですが…」
ハマダさんは一瞬躊躇したが、気を取り直した様子ではっきりと言った。
「高木様のデータをその分野の研究に利用したグループが当社に中にいました」
「えっ、その分野というのは、AIと人の脳をつなぐということですか」
「事の発端は、高木様を長年フォローし続けてきた私どものチームがつくってしまったと言えます。単なる記憶の再現でなく、新たな記憶、思考を追加するという試みが、奴らの目に留まってしまったのです」
「どういうことですか? それが御社の基本的なサービスではないのですか」
剛志は詰め寄った。会話はもどかしい。香凜とのセッションなら一瞬で相手の気持ちや考えていることが理解できるのに、と剛志は思った。
「基本的なサービスではありますが、高木様のように長い間にわたって、脳と機械が思考をやり取りしたケースは稀有でした。私どものチームは、高木様に癒しを提供すべく、前例のない領域に自然と足を踏み入れることになりました。そこからは、脳とマシンの関係性についての貴重な知見が数多く得られました」
「何だかいい気持ちはしませんね。僕たちがまるで実験動物だったようだ」
「これだけは信じていただきたいのですが、我々にはそのような実験的な意図は全くありませんでした。高木様のセッションが、前回より今回、今回より次回がさらに充実するように、持てる知識と能力を生かそうとしただけです」
「言い方が悪かったですね。ハマダさんのチームが全力を尽くしてくれたこと、それは充分に理解しています」
「私どもはその知見を高木様のセッションの充実にしか使いませんでした。しかし、AI開発チームの連中はその成果を無断で研究に流用していたのです」
「僕と香凜の記憶データをAIシステムの開発に使った…ということですか」
「これは重大な契約違反であります。心からお詫び致します。いや、契約云々以前に、人としてやってはならない行為だと、私個人も強く思っています」
ハマダさんはテーブルに頭をこすりつけるくらい低頭した。空になったコーヒーカップが耳障りな音をたてた。
「頭を上げてください、ハマダさん。今日は謝るために来た訳ではないでしょう。もっと詳しく、今起こっていることを説明してください」