セッション5.意外な提案
香凜が逝ってしまった後、剛志は半年近く、メモリーバンクに足を向けることができなかった。葬儀を終え、仕事にも復帰できた。少しずつ、ほんの少しずつだが、剛志は一人の生活に慣れ、前に進み始めた。だが、香凜に会いに行くことはできなかった。ハマダさんからは丁寧なお悔やみと近況照会のメールが過度にならない程度に届いた。その最後には必ず「オフィスに来られる日をお待ちしております」と書かれていた。
剛志は覚悟していたとは言え、香凜がいなくなった現実を心の奥底では受け止められずにいた。深すぎる喪失感の中で香凜に会ったら、正気を保てる自信が持てなかった。香凜に会いたい気持ちはもちろんある。だが、会った後の孤独感に耐えられないと思ったのだ。剛志は真っ暗な迷路の中にいるようだった。怯え、恐れ、絶望-。これらを振り払い、迷路の出口を見つけるまでに、剛志はおよそ1年の歳月を要した。
「高木様、ようこそおいでくださいました」
香凜の死後、初めてメモリーバンクのオフィスを訪れた晩秋の午後、ハマダさんは変わらぬ佇まいで剛志を迎えた。
「セッションをなさいますか」
剛志がどんな思いでこの1年を過ごしたのか。ハマダさんは全てお見通しのようだった。表面的な慰めの言葉は一切なく、近況を尋ねることもしない。かと言って、ビジネスとして紋切型の対応をしている訳でもない。ハマダさんの慈愛に満ちた眼差しが、剛志を心底気遣っていることを物語っている。剛志は勇気を出してオフィスに足を運んだことが間違っていではなかったと確信した。
しかし、剛志はその日、セッションはしなかった。ハマダさんと短く話をしただけでオフィスを後にした。ハマダさんはそれに関して何も言わなかった。もちろん理由を訊くこともしない。
「来ていただくにはさぞかし勇気がいったことでしょう。いつでも構いません。私どもはいつでも高木様をお待ち申し上げております」
帰り際、ハマダさんの伝えた言葉が、剛志の頭の中に残った。
その翌週から、剛志は香凜と週に1、2回のペースで会うようになった。
「一度、セッション抜きでお会いできないでしょうか。できれば会社の外で」
ハマダさんが剛志に電話を掛けてきたのは、ハマダさんが激しく取り乱したセッションの日から3日後のことだった。
剛志はあの日のハマダさんの混乱ぶりに少なからぬ恐怖を覚えてしまい、オフィスを訪れることができないでいた。ただ、一人で部屋にいると気が滅入るので、毎晩のように職場の同僚を誘って飲み歩いていた。ハマダさんの着信を見つけた時も、会社近くの居酒屋にいた。そろそろ一次会が終わろうとしていた時だったので、中座して店の外にでて掛け直した。
「夜分に申し訳ございません」
「いや、構いませんよ。何かありましたか」
「この前は取り乱してしまい済みませんでした」
「ええ、あんなハマダさんを見たのは初めてだったので、ちょっとオフィスに行きづらくなりました」
剛志は少し嫌味を込めて言った。
「本当に申し訳ありませんでした。とても重要なことだったので、我を忘れてしまったのです」
「ハマダさんでも我を忘れることがあるんですね。ところで、とても重要なことって?」
「はい、あの後、いろいろと調査を致しまして、高木様にどうしてもお伝えしなければならない事態に至りました」
剛志は即座に返答できなかった。あのセッションで、香凜は剛志を強く求めてきた。それまでの香凜には見られなかった行動だと、剛志はハマダさんに伝えた。そして、ハマダさんが激しく驚愕したのだった。
<あのあと調べた…何を>
脳内で香凜と逢瀬を重ねるようになって5年近くになる。セッションは百回を軽く超えているだろう。だが、これまでハマダさんがこのようなことを伝えてきたことはない。記憶の世界の香凜に何かが起こったのか。それとも別の何なのか。剛志の不安は増幅した。
「電話じゃマズい内容ですか」
「はい」
ハマダさんは即答した。
「できるだけ早い時期にお会いいただけないでしょうか」
ハマダさんがこれほどまでに望むのだから、思いつきの軽い話題であるはずがない。
「分かりました。僕もこのままだとモヤモヤしたままです。ぜひお話を聞かせてください」
「それでは…」
「時間と場所を教えてください」
ハマダさんが指定してきたのは、通いなれたメモリーバンクのオフィスからは山手線でちょうど反対側にある駅が最寄りの小さなレストランだった。駅からは徒歩5分、10階建てくらいの中規模なビルの半地下にある隠れ家のような店だ。剛志の会社からは地下鉄を使うと数駅だったこともあり、午後7時の約束には余裕で間に合った。店に入ったのは15分前だったが、既にハマダさんは奥の個室にいた。部屋は4人用の丸テーブルがひとつあるだけのこじんまりとした造りで、壁にはエッシャーの版画「物見の塔」のコピーが飾られていた。窮屈ではないが、どことなく無機質、剛志が少し殺風景な気がしたのは、エッシャーの版画のせいなのかもしれない。
「お呼びだてして申し訳ございませんでした」
剛志が入室すると、ハマダさんは席を立って深々と礼をした。
「そんなに謝らないでください。何か抜き差しならない理由があって会社の外で会いたいとおっしゃったことくらい、僕にだって分かります。長い付き合いですから。今日は客としてではなく、一人の人間、いやハマダさんさえ構わないなら、一人の友人としてお話を伺いに来たつもりです」
「ありがとうございます」
ハマダさんは再び深く頭を下げた。
「友人と仰っていただき、こんなにうれしいことはございません。お客様に対して大変失礼な物言いになりますが、今日はメモリーバンクの社員としてではなく、高木様のお言葉をお借りできれば、一人の人間、一人の友人としてお話を聞いていただきたいのです」
「ハマダさんは僕の周りの誰よりも僕のことを知っています。過去も現在も。どんな話でも僕は聞きますよ」
ハマダさんは小さく頷いて、静かに着席した。
「お腹が空きましたね。話は食事の後ということでどうでしょうか」
剛志が言うと、ハマダさんは微笑んだ。
「そうですね。まずは軽く腹ごしらえといきましょう」
食事のメニューはハマダさんに任せた。しかし、ハマダさんが注文した食事はとても「軽い」メニューではなかった。凍らせた生ハムのオードブルに、上品な薄味のミネストローネ、白身魚のソテーに続いて、パスタやメインのステーキが次々と運ばれてきた。デザートのトマトシャーベットを味わい、エスプレッソの香りとほろ苦さで食事の余韻を楽しむまで、たっぷりと1時間半を要した。ハマダさんと剛志は時折料理に関する感想を口にする程度で、ろくに会話も交わさず、黙々と食べ続けた。
「この会社でいろいろな方を担当させていただくようになって、今年で20年になります」
エスプレッソのデミタスカップをソーサーに戻し、ハマダさんは話し始めた。
「そのなかで、高木様とのお付き合いが最も長ごうございます」
「もう10年近くになりますからね。初めてメモリーバンクを訪れてから。でも、御社のシステムは終身契約なのだから、僕よりも長い顧客もいるんじゃないですか」
ハマダさんは小さく首を横に振った。
「契約期間が長いお客様はたくさんおられます。ですが、大抵のお客様は2、3年もすると来社する頻度が減り、5年もするとほとんどお見えにならなくなります」
「僕のようなケースでも?」
「はい、高木様のように若くして愛する方を亡くされた場合でも」
「お年寄りだとどうなのですか? 時間も比較的自由だし、律儀に来られるのではないですか」
「高齢のお客様もたくさんおられます。ほとんどの場合は長年連れ添った伴侶を亡くされた方です。大半の方の来社頻度は年に1、2回程度です。命日だったり、お彼岸だったり。そのようなタイミングで会いに来られます。なかには毎月の月命日という方もおられますが、かなり少数ですね」
「僕のようにセッションをするのですか」
「いえ、ほとんどの方はセッションをなさらずにお帰りになられます」
「それではオフィスで何を?」
「私と少々お話しされて帰られます。お墓参りのような感覚なのかもしれません」
「それじゃあハマダさんはお墓ですか」
剛志はジョークのつもりで言った。ハマダさんはそれを理解して頬を緩めた。
「そうなのかもしれません、でも、わが社は単なる記憶屋です。そして私はそこのコンシェルジュに過ぎません。セッションもせずにお帰りになるお客様を墓参りに例えるなら、私は墓守と言えるかもしれませんね。私どもが守っているのは大切な方の生きた証です。お客様はここに故人の記憶がしっかりと保存されていることを確認して、安心なされるのだと思っています。セッションをしてもしなくても、皆さんお帰りになる時には穏やかなお顔をされております」
剛志は真顔で頷いた。
「そのような気持ちでメモリーバンクのオフィスを訪れる気持ちは分かるような気がします。でも、僕の場合は違った…」
「高木様は奥様の記憶を保存するだけでなく、気持ちとしてはまだご一緒に生きている。そう思われていますね」
「古い記憶の中で思い出をリプレイするという感覚ではありません。香凜に会いに来ると、いつも新鮮な気持ちになれます。それは出会った頃のフレッシュな気持ちを蘇らせたというのとは少し違います。香凜が亡くなった後も、一緒に新しい思い出をつくっている。そんな気持ちです」
「そう言っていただけるとうれしいのですが…」
「だからこそ、こんなに長く続いてきたのだと、僕は思っています」
ハマダさんの表情は段々と苦々しいものになっていった。あのセッションの後の顔つきに近づいている。剛志は警戒感を強めた。
「私どもも最初のうちは、弊社のシステムが絶望感の中におられた高木様に癒しを与えることができていると考えて、うれしゅうございました。そして、奥様が高木様の中で、高木様の求める姿であり続けられるよう、スタッフ一同で全力を挙げて作業に当たってきたつもりです」
「その点に関しては、僕も大いに感謝しています。香凜に病が見つかり、いつかは失う時が来ると分かった時、僕は絶望の淵で身動きが取れなくなりました。そんな時、メモリーバンクに出会った。記憶のデータ化は正直言って、最初は半信半疑でしたが、ハマダさんたちスタッフの献身的な作業を見て、「今はこれに賭けよう」と思いました。香凜が亡くなった後もそうです。立ち直ることができたのは、生身ではないけれど、香凜の人格がメモリーバンクで生き続けていると信じられているからです。これは癒しという言葉では足りない。僕自身が壊れていくのを食い止めてくれた。そのくらい大きな出来事なのです」
剛志が力説すると、ハマダさんはますます表情を暗くした。
「本当にハマダさんのチームのお陰なんですから」
ハマダさんは無言で頷き、しばらく黙っていた。やがて決意したように顔を上げ、再び話し始めた。
「これをお伝えすると、私は会社にいられなくなるでしょう。ですが、高木様にはどうしてもお伝えしなければならない、と私の中で判断致しました」
<会社にいられなくなる?>
剛志は今回の事態が香凜の記憶データに起こった何らかのトラブルだと想像していた。だが、事はそう単純ではないらしい。ハマダさんの真剣な眼差しを目にして、剛志は慌てた。ハマダさんのいないメモリーバンクはあり得ない。
「ちょっと待ってください。ハマダさんが会社にいられなくなるような重大な事態だとしたら、僕との契約はどうなるのですか。解除ですか。香凜とはもう会えなくなるということなのですか」
香凜の死後5年を経ても、剛志はまだ香凜の死を受け止められないでいる。メモリーバンクで頻繁に逢瀬を繰り返していることもあるが、やはり気持ちの奥深い部分で、香凜の存在から離れることができないのだ。
<会えなくなるかもしれない>
今の剛志に香凜との関係を断ち切る選択肢はない。突然突き付けられた契約解除の可能性を前にして、剛志は大きく開いた暗い穴の淵に立っているような心持ちになった。何としても今の生活を続けたい。
<そうだ>と剛志は思った。<今日はハマダさんを説得しに来たのだ。このまま続けさせてほしいと>
「我々は踏み込んではいけない領域に、いくつか入ってしまったのかもしれません」
しかし、ハマダさんは剛志の願いを断ち切るように言った。
「踏み込んではいけない領域、僕のケースでですか?」
ハマダさんは頷いた。
「高木様には酷なお願いであることは重々承知いたしております。ですが、私はあえて今日申し上げなければなりません。奥様にお会いになるのは、もうおやめになり、弊社との契約を解除すべきだと」
こう伝えられる予感はあったのだが、実際に最後通告を受けて剛志はその場で固まった。見るからにハマダさんの決意は固そうだった。これまで剛志のことを常に気遣ってくれたハマダさんがこれほどまでに強い態度で宣告したということは、その理由は何万年も動くことのない岩盤のように強固なはずだ。剛志はこの時点でハマダさんを説得する意欲をまだ失ってはいなかったが、説き伏せられる可能性が限りなく低いことを察知し、恐怖感を膨らませた。




