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セッション4.初めてのセッション

 剛志と香凜はその場で仮契約をした。費用は剛志の年収の優に5年分はあった。郊外なら一戸建て住宅が買えるくらいの金額だった。返済期間は30年で、契約期間は2人が死亡するまで。剛志は貯金をかき集めて頭金を支払い、翌日、メモリーバンクに送金した。さらに銀行に出向いて残りのローンを組んだ。審査を担当した行員は手慣れた様子だった。

「最近、この分野のローンは増えております」

 行員は剛志にそう言った。

「例えば、お墓を建てるとか、永代供養の納骨堂の権利を買うのにもかなりの費用が生じます。特にお若くて、宗教的なこだわりのない場合は、このような選択をされる方が増えているのでしょう」

<恐らく>

 剛志は考えた。これは回収にリスクの少ないローンなのだ。守っていくものの中味を考えると、踏み倒すリスクは低い。生命保険を返済に充てることだってできる。銀行にとっては安全な商品と言えるのではないだろうか。


「ごめんね、こんなお願いをして」

 メモリーバンクからの帰り道、香凜はこう詫びた。だが、剛志は逆に香凜の提案に感謝すらしていた。

「謝ることなんてないよ。むしろ僕からお願いしたいくらいだ」

 香凜が受けた落胆や疎外感、理不尽な病気への怒り、剛志はそれらを想像し、香凜の肩を抱き寄せた。

「だって時間もお金も相当使わせちゃうんだよ。治療費だって嵩むのに」

「お金の問題じゃない。これは2人の将来の問題だよ。香凜がそれを気にする必要は全くない」

 香凜の肩は小刻みに震えていた。

「ありがとう、剛志」

「それより明日から早速セッションだって、ハマダさんは言ってただろう。2人で頑張らなきゃ」

「うん」

 香凜は小さく頷いて言った。

「でも、担当のハマダさん、いい人で良かった」

「そうだね」

「あの人になら、私の記憶を預けても大丈夫のような気がする」

「僕もそう思うよ。きっと大丈夫だ」

 病気を告げられて絶望の淵にいた2人は、メモリーバンクに一縷の希望を見出し、しがみつきたい気持ちになっていた。


 翌日、剛志は仕事を定時で終え、まっすぐにメモリーバンクのオフィスに向かった。仕事を辞めていた香凜は剛志より2時間ほど前からセッションをしている。

 オフィスといっても、そこは病院のようであり、工業系大学の研究室のようでもあった。剛志が作業室と呼ばれる部屋に入ると、香凜は深くリクライニングした飛行機のファーストクラスのような椅子に横たわっていた。頭部にはヘルメットのような帽子を被っている。ヘルメットには多数の光ファイバーケーブルが接続されていて、それらが七色の輝きを放っていた。ケーブルはデスクにある複数のコンピュータにつながり、数人の担当者がディスプレイを真剣な眼差しで凝視していた。

 剛志が横で見ていると、担当者は香凜にいろいろな質問を投げかけていた。「ご家族のことを教えてください」「高校はどちらへ」「ご主人と知り合ったきっかけは何でしたか」-質問の範囲は多岐にわたっていた。生い立ち、家族、学生生活、仕事、結婚、家事-それらを矢継ぎ早に訊いている。なかには「得意料理のレシピを教えてください」と言った質問もあった。香凜はじっと目を閉じて、それらに短く答えているのだった。

 香凜のセッションをじっと見ていた剛志に、ハマダさんが寄り添っている。

「質問に対する答えそのものはさほど重要ではありません。言いたくないことは答えなくても良いし、多少嘘をついても記憶のトレースには影響を及ぼしません。大事なのは、質問された事柄や情景をできるだけ正確に一生懸命思い出して欲しいということです。思い出そうとすることで脳のニューロンが活性化して正確な記憶が呼び覚まされます。本人が思い出せないような潜在的な記憶も掘り起こすこともできるのです」

「この作業を続けたら記憶をトレースできるのですか」

 剛志は半信半疑の体でハマダさんに訊いた。

「もちろん1回でうまくいく訳ではありません。こうしたセッションを何度か繰り返すうちに、奥様の脳神経のトラフィックの実像がはっきりしてきます。最初はなかなかうまくいかないものです」

「トレースできるようになるのは、普通だとどのくらいの時間がかかりますか」

「1~2週間で効率がぐんと上がってくる方もいれば、2~3カ月かけてもなかなか進まない方も正直言っておられます」

「香凜はどうでしょうか」

 ハマダさんは頬を緩めた。

「まだ分かりません。ですが、焦ることはありませんよ、高木様。まだ始まったばかりです。記憶の呼び起こしに最も大事なのは、抽象的な言い方になりますが『心を開く』ということです。その意味では、奥様もご主人様も、我々を信頼して心を委ねていただくことが何よりで大事でございます。それに時間がかかるのは当然のことなのです」


 香凜は記憶の抽出作業が遅いタイプと言えた。土、日を除いて香凜は毎日のようにオフィスに通ったが、1カ月が過ぎても、2カ月が過ぎても、記憶のトレースは思うように進まないでいた。そして何より、香凜の体調は、日によってばらつきがあるものの、確実に悪化していった。そのためにセッションを中断しなければならなくなる日も増えてきた。

「焦ることはありませんよ」

 ハマダさんは毎回のセッションのたびに、香凜を励ましたが、作業開始から3カ月を過ぎても想定した成果が得られていないことは、メモリーバンクの担当者の顔を見ていれば分かる。香凜も剛志もタイムリミットを意識し始めた。

「今回はお2人一緒にセッションを受けていただきましょう」

 香凜の体調が思わしくなく、有休をとった剛志が一緒にオフィスを訪ねた日に、ハマダさんはこう提案した。剛志にとっては、これが最初のセッションだった。

 香凜と剛志は隣り合った席に横たわった。担当者が2人の頭にヘルメットを被せた。

「緊張なさらずに…。まずはお2人で手をつないでみてください」

 ハマダさんが静かに言った。作業室はサーバーから発せられる重低音以外、何も聞こえない。空気が静止しているかのようだった。

「お2人が出会ったときのことを、もう一度思い出してください」

 担当者が呼び掛けた。香凜と剛志は記憶を呼び覚ますために、目をつむった。


 剛志が香凜と出会ったのは、2人が通っていた京都にある大学のキャンパスだ。剛志が3回生、香凜は1回生だった。剛志が単位を落としていた一般教養の哲学の大講義がたまたま同じだった。200人近くが入れる大きな講義室は、人気のない朝イチということもあり、受講生はまばらだった。時間ギリギリにやって来た剛志は入口に近い最後列の席に座った。教授が講義室に入ってくるのと同時に、香凜も席についた。

「ふ~、遅刻、遅刻。危なかった」

 剛志の隣に座った香凜は小さな声で言った。その言い方が面白くて、剛志は思わず小さく吹き出した。

「出席をとらない講義なのに、遅刻を気にするなんて」

「えっ」

 ディパックから教科書を取り出そうとしていた香凜は剛志の顔を直視した。

「君、1回生だね」

 目を丸くした香凜は小さく頷いた。

「真面目なんだね」

 香凜は顔を真っ赤にしてうつむいた。


「A-10の活性化を確認」

「ドーパミン放出量が増加中」

「視床下部への刺激も高まっています」

 モニターを監視していた担当者から次々と声が上がった。3カ月に及ぶ低迷期間は、担当者にとっても大きなプレッシャーになっていたのだろう。初めてともいえる好反応に、作業室に活気がみなぎってきた。


 剛志と香凜はその3日後、別の講義でも顔を合わせた。同じ学部とは言え、3回生と1回生が同じ講義を登録するのは珍しい。

「2回生までかなりさぼってたので、普通なら1回生で取っておくべき一般教養を随分とスルーしてた」

「でも、そのおかげでまた会うことができたのよね」

 2人が再び顔を合わせた心理学の講義は、金曜日の4時間目。その後に講義はない。

「講義の後、僕がカフェに誘ったんです」

 作業員の質問に答えた剛志は、そのときの光景を鮮やかに思い出していた。5月の連休明け。記憶の中で美化しているのかもしれないが、梅雨に入る前の輝くような初夏の日差しがまぶしかった気がする。

「何だかナンパされたみたいで、いきなり誘われるのはどうかなとも思ったんですけど…」

 香凜は少し恥ずかしそうに言った。

「でも、来てくれた」

「言葉が関西弁じゃなかったし、なんとなく出身地が近いのかな…と思って」

 2人は記憶をトレースする作業中だということを忘れて、思い出を語り始めた。担当者から質問がどんどん投げ掛けられ、2人はそれに答えながら、交際を始めるまでの短い時間の記憶を手繰り寄せた。脳神経をモニターするディスプレイを覗き込んでいる担当者の表情がみるみるうちに明るくなった。


「お疲れになったでしょう。余りにも作業がスムーズに進んだものですから、ついつい長時間になってしまいました。申し訳ございませんでした」

 2時間以上に及ぶセッションを終えると、ハマダさんが深々と頭を下げた。

「いえ、香凜も僕も疲れてはいませんよ。昔を思い出せて、逆に少し元気がでました」

「そういっていただけると助かります」

「それにしても不思議ですね。あの頃のことをあんなにも詳しく覚えていたなんて。今日のセッションはうまくいったようですね」

「はい」

 ハマダさんは満面に笑みをたたえた。

「これまでの中で最も作業が捗りました。最初に申しました通り、この作業には心を開いていただくことが必要なのですが、その反応には個人差がございます。今日のセッションが奥様の壁を破るきっかけになると良いのですが」

「壁を破る…」

「人の心というのは計算が成り立たないものです。最初のうち、なかなか作業になじめなかった方が、壁を破った途端に、一気に突き進む場合も多々あります。逆に、すぐ作業になじんだのに、結果的には完了まで長い時間を要するということもあります。奥様が前者であると良いのですが…」

「いろいろと心配をかけてすみません」

 剛志が頭を下げると、ハマダさんはひたすら恐縮した。

「そのようなこと…。我々の仕事ですからお気になさらずにお願いします。これは奥様のせいでも、ご主人のせいでもありません」

 その日以降、香凜のセッションは順調に進んだ。2~3回に1度くらいのペースで剛志も同席したが、「やはりご主人がご一緒の方が脳神経活動は活発なようですね」とハマダさんは微笑んだ。

「このペースだと、あと2カ月ほどもあれば、予定の段階に到達するでしょう」


 しかし、順調な時間はすぐに過ぎ去った。長い冬が過ぎ、春を迎えるころ、記憶を取り出す作業は再び大きな壁にぶつかった。最初のセッションから半年が過ぎようとした朝、香凜はついにベッドから起きられなくなり、救急車を呼んで緊急入院することになった。

 病魔はすでに全身に転移していた。かなりの痛みを伴っていたはずだが、鎮痛作用のあるモルヒネの量を増やすと意識が朦朧とするので、香凜はセッションへの影響を最小限に止めたいと、薬の投与をできるだけ抑えることを希望した。それは香凜の身体に大きな負担を強いることになった。剛志は痛みに苦しむ香凜をみて、医師にモルヒネの投与を頼んだ。

「もうオフィスを訪れることは無理かもしれません」

 剛志はメモリーバンクを訪ねて、ハマダさんにそう伝えた。

「心配には及びません」

 ハマダさんは即座に言った。ハマダさんはいつも冷静だ。取り乱すことなどあるのだろうか、と剛志はふと思った。

「時間を多くかければかけるほど得られる記憶は多くなりますが、採取した記憶の量がすべてという訳ではありません。人間は生きている限り、記憶を蓄積し続けていくのですから、完璧を期そうとしたら作業に終わりはないことになります。どこかで区切りをつけて記憶の領域を限定しなければならないのです」

「記憶の領域…ですか」

「その通りです。奥様の場合は、ご主人と一緒にいた楽しく、幸せな記憶、これを残されようとしておられます。そうした思い出は、もう充分に抽出を終えております。これ以上の記憶の採取が難しいのであれば、これまでに集めた記憶をひとつの人格として形づくる作業に移らねばなりません。それが仕上げの作業になります。急ぎましょう」


 翌日、メモリーバンクの担当者2人とハマダさんが香凜の病室にやって来た。ハマダさんは事前に、香凜を個室に移すよう剛志に依頼していた。

 担当者は大きなスーツケースを2個持って来た。

「それでは始めさせていただきます」

 担当者はそう言うと、スーツケースからいつものヘルメットを取り出し、眠っている香凜の頭に被せた。

「眠っていても大丈夫なのですか」

 剛志が訊くと、「はい、睡眠中も脳は活動していますので」とハマダさんは答えた。

「ご主人もお願いします」

 ベッドの横で剛志もヘルメットを装着した。これは2人の記憶と思考のパターンを同期するための作業で、これまでもオフィスで何度か試したことがある。

「奥様の状態からみて、これ以上、安定的に記憶を取り出すのは難しいと存じます。ですが、脳は活動していますので、お2人の思考をアジャストする作業は可能です」

 昏睡している香凜の傍らで、そのようなことを淡々と話す担当者を、普段だったら怒鳴りつけて病室から叩き出すところだろうが、今の剛志は精神的にギリギリの崖っぷちにいた。香凜に残された時間はわずかしかない。せめて香凜が望んだ記憶の保存は全うさせてやりたい。剛志の頭の中にあるのは、その一点だった。それしか考えられなかった。

 これまで香凜の脳神経の活動を蓄積してきたデジタルデータは、メモリーバンクのサーバーの中にある無機質な0と1の羅列に過ぎない。しかし、ハマダさんが説明してくれたように、これを剛志の脳の中で再現することで、香凜の記憶が初めて蘇ることができるのだ。

 病院での作業は毎日行われた。しかし、それが1週間目となる日、病室に突然「面会謝絶」の札が掛けられた。香凜の病状は少しだけ安定し、短時間なら話すこともできるようになっていたのだが、担当の医師は病室に部外者、特に医療と多少でも関わりのある人間を入れることを快く思わなかったらしい。

「奥様はとても深刻な状態におられます。何が起こるか私どもにも分かりません。面会はご家族だけ、しかも短時間にされた方がよろしいかと」

 医師は言葉の端々にメモリーバンクへの嫌味を滲ませた。剛志は抵抗したが、担当医の措置に変更はなかった。


 病室での作業ができなくなり、剛志は仕事を休んで、ほとんどの時間をメモリーバンクのオフィスと香凜の付き添いを往復しながら過ごすようになった。オフィスでの作業の中心は剛志の脳と香凜の記憶をシンクロさせることに移っていた。

「高木様には何度も説明させていただいておりますが、私どもがお預かりしている奥様の記憶はご主人の脳内でしか再現することができません。思考の相互作用をそのようにプログラミングしてあるからです。記憶のデータにコンピュータでアクセスしても、それはランダムなデジタル信号にすぎません。たとえそれを第三者が手に入れたとしても、何のことか分からない混沌としたデータにしかみえないでしょう。担当している私どもでさえ、かなりの手間と知識を使わねば、記憶データに関連した意味を見出すことはできないくらいなのです」

 システムについて説明するハマダさんはいつも雄弁だ。

「どんなに技術が進歩しようと、人間の脳の全てを記録し、機械で再現することはできません。それを再び形づくるには人間の脳の助けがどうしても必要になります。高木様の場合、奥様の記憶はご主人の脳細胞でのみ再構築できます。別の言い方をすれば、奥様の記憶を解読する鍵穴はご主人がただ一人脳細胞という形でのみお持ちなのです。それが究極のセキュリティともなります。私どもがこれからその鍵をお造り致します」

 剛志単独のセッションは、香凜のように複数が担当せず、いつもハマダさん一人が相手をした。剛志単独の作業が半月を過ぎた頃、ハマダさんがおもむろに言った。

「これから奥様とお会いいただくことになります。大抵の場合、最初はうまくいかないことが多いです。不自然に感じられたところがございましたら、遠慮なく申してください。奥様のお姿、声、匂いなどはご主人の脳内にはっきりと記憶されています。奥様の記憶をそこに注入することで、高木様の脳がご自分の記憶と奥様の記憶を複合的に再現するのです。その鍵穴を改良し、複合的な再現を精密化することで、より本物に近い奥様を再現できるようになります。奥様により自然でいていただくためには、高木様に協力いただかなければなりません」

 ハマダさんはそう言って、いつものヘルメットを剛志に被せた。

「緊張せずに、リラックスを」

 この言葉はすでにセッションの際の常套句だ。しかし、そう言われたからリラックスできる訳ではない。ヴァーチャルな世界で初めて香凜に会うのを前に、剛志はやや緊張していた。

<うまくできるのだろうか>

 剛志の不安を察知したのか、ハマダさんはなおも言った。

「高木様が奥様を求めさえすれば、自然な形で奥様が現われるはずです。難しいことを考える必要はありません。いつものように奥様のことを想うだけで良いのです」

 剛志は目をつむった。そして、できるだけ心を平静に保つよう努力した。しかし、香凜のことを想い浮かべると、病室で痛みに苦しむ顔やこれまで1年近くにわたってメモリーバンクで重ねてきたセッションの情景が走馬灯のように去来して、気持ちを落ち着つかせることがなかなかできなかった。

<これまでやってきたことは正しかったのか。時間の無駄ではなかったのか>

 心の平穏を保とうとすればするほど、剛志の混乱は深まった。

「高木様が今感じておられる混乱や戸惑いは、奥様の願いを叶えてあげたいという高木様の強い思いがそうさせているのです。無理にそれを取り除こうとなさらないでください。焦ることはありません。時間は充分にあります。ゆっくりと気持ちを落ち着かせてください」

 ハマダさんの静かな声が剛志の混乱を少しだけ鎮めた。

「奥様との間にはたくさんの思い出がございますでしょう。その中でも特に楽しかったことを想い起してみてはいかがですか」


「ごめんね、待った?」

 不意に聞き慣れた声がして、剛志は我に返った。目の前に香凜がいた。白いミニのワンピースが夏の日に照らされて眩しかった。

「いや…今来たばかりだよ」

 剛志は京都の嵐山、渡月橋の東詰めに立っていた。修学旅行生が記念写真を撮る場所だ。白いドレスは誕生日に剛志がプレゼントしたものだ。確か結婚する前の年、香凜が24歳の時だ。

「このドレスは…」

「季節が今にピッタリでしょう。ちょっとミニが恥ずかしいけど」

 香凜はそう言ってはにかんだ。

「でも着てくれてうれしい。良く似合っているよ」

 香凜は返事をしない代わりに微笑んで見せた。頬にえくぼができた。剛志が一番好きな香凜の表情だった。

「それじゃあ、行こうか」

 剛志は香凜の手を握った。2人は天龍寺に向かった。嵯峨野めぐりが今日の目的だ。

 天龍寺を皮切りに、野々宮神社や落柿舎、常寂光寺、二尊院を回った。散策の小路沿いには鬱蒼とした竹林があり、そよ風を受けて葉がざわめいていた。夏の盛りで空気は重苦しいほどに熱気を帯びていたが、行く先々の寺院で嗅いだ線香や香の匂いが、わずかばかりの涼を感じさせた。

「大学にいた頃にはいつでも来られたのに、もったいなかったね。もっといっぱい見ておけば良かった」

「大学生と寺や神社は、相性が悪いんだよ」

「バイトとか飲み会とか、そんなのばっかりだったものね、特に剛志は」

 香凜はそう言って笑い、ハンカチで額の汗をぬぐった。


 2人は少し遠いが化野念仏寺まで足を延ばした。8千体に及ぶ石仏や石塔が並ぶ「西の河原」は見るものに畏怖を与える。京都の暴力的な蒸し暑さも、この場所だけは例外だとでも言うように、境内には冷ややかな空気が沈殿していた。

「何だか怖いね」

 香凜は剛志の腕をぎゅっとつかんだ。

「霊感が強い方じゃないけど、これはさすがに何かを感じる」

「そうだね。余り長くいる場所じゃないかも。早く出ましょう」

 そう言って香凜は剛志の手を強く引いた。


 剛志が目覚めたの時、傍らにはハマダさんが立っていた。

「いかがでしたか」

 ハマダさんが静かに聞いてきた。「最初のコンタクトとしては、いささか長時間になりました。お疲れになったでしょう」

 確かに剛志は少々疲労を感じていた。実際にはメモリーバンクのオフィスで安楽な椅子に横たわっていただけなのだが、頭の中では半日掛けて嵯峨野めぐりをしていた。どちらかと言うと、長時間に及ぶ散策の後の疲れを感じている。剛志は軽い頭痛も覚えていた。酷暑の中に長い間いたみたい、軽微な熱中症と言えなくもない。

「どのくらいセッションしていたのですか」

 ハマダさんはちらりと時計を見た。

「およそ7分、正確には6分37秒でした」

「たったそれだけ…。随分と長い時間が経ったように思えるのですが」

 ハマダさんは小さく頷いた。

「人間の実際の動きに比べて、脳の活動はそれほど高速なのです。中国には豆が茹で上がるまでのうたた寝で、自分の一生の夢を見るという物語があります。それはまさに脳の働きを言い当てています。普段、睡眠中に見る夢も一瞬のフラッシュのようなものだという説もあります」

「では、今僕が体験した香凜との追体験は、夢のようなものだと…」

「夢も脳の活動によって起こる神経活動の一種ですから、似たようなものと言えるかもしれませんが、厳密には違います。夢はお一人の脳神経活動がもたらしますが、今、高木様が体験されたことは、高木様の脳と奥様の思考記録が共同作業で実現したものなのです」

「だからなのか…」

 ハマダさんは剛志の顔を凝視した。

「何か不思議なことでも…」

「僕たちは京都の嵯峨野めぐりをしていました。嵐山、天龍寺から化野念仏寺まで、僕の中ではほぼ半日を掛けてかなりの距離を2人で歩きました。その間には、寺で感じた線香や香の香り、竹林のざわめき、いろいろなことがリアルに感じられました。もう10年も前のことなのに、こんなにも詳細に覚えているなんて驚きです。不思議だったのは、自分がしていないことも経験できたことです」

 ハマダさんはじっと剛志の話を聞いている。

「実際の嵯峨野めぐりの間に、香凜はある寺で写経をしたいと言いました。今回のセッションにもその場面はでてきました。本当だと写経をしたのは香凜で、僕はその間、寺の外で煙草を吸いながら待っていたんです。書きあがった般若心経を見ただけです。でもセッションの中では、僕が写経をしていました。余り日の差し込まない書院で、きちんと正座をして、小さな机に向かって筆を走らせました。半紙の上に薄っすらと浮かんでいるお経を筆でなぞりました。墨の匂いさえ感じたくらいです」

「それは奥様の記憶が高木様の中で混同したものです。記憶のシンクロは初期の段階でかなりの頻度で起こり得ます」

「それは香凜の記憶が蘇った証拠ですね」

「はい、ですが、これが頻繁に起こると、高木様が混乱してしまいます。奥様の記憶が高木様ご自身の記憶と混ざり合うことがないよう、これから調整を重ねることになります」


 生身の香凜は病院のベッドの上で病との勝ち目のない消耗戦を闘っていた。しかし、剛志はサイバー上に記録された香凜と、メモリーバンクのオフィスで頻繁に会っていた。セッションを重ねるごとに、剛志の脳内に現れる香凜のイメージはどんどん鮮明になり、より自然になってきた。着ている服やアクセサリーの細かな部分まで、まるで映画のシーンのように完璧に再現できる時もあり、少なからず幸福感を味わっていた。ハマダさんが言ったように、2人の記憶の混同が起こる回数も減っていった。

 初めて香凜とセックスしたのは、剛志単独のセッションが5、6回目に及んだ時だった。ハマダさんはそうなることを予想していたのか、4回目のセッションからカプセル内でのセッションを薦めた。カプセルは調整が終わったいわば製品版のセッションに使用する。これだと外部から完全に隔離される。たとえヴァーチャルな脳内作業であっても、それは現実と大差のないリアルな経験に限りなく近い。万が一セックスの際に射精しても、スタッフの前で恥ずかしい思いをすることはない。ハマダさんは多くの客を担当してきた経験で、剛志と香凜の間に、近いうちにそのようなことが起こりうることを予想していたのだ。

 日常生活の中で、剛志の頭の中は病と闘う香凜で占められていた。性欲を感じている余裕などなかった。だが、記憶の再現というヴァーチャルな世界に身を置くと、剛志は現実の香凜ではなく、その世界の香凜と愛し合うことができる。肌の感触、洗いたての髪の匂い、すべてがリアルに感じ取れるのだから、自然とそうなることもある。剛志はセッションの最中は現実の香凜を忘れることができた。

 そのセッションで剛志はきちんと射精をした。記憶の世界から離脱した剛志は、現実に戻って病床の香凜をすぐさま想って、深い自己嫌悪に陥った。カプセルからでてきた剛志は酷い表情をしていた。ハマダさんは即座に全てを理解した。

「高木様」

 ハマダさんの声はいつにも増して穏やかで、剛志の胸に沁みとおるようだった。

「これは正常で当たり前の反応なのです。ご自身を責めてはなりません。高木様は奥様を深く愛しておられるからこそ、共有意識の中でこのようなことが起こったのです。奥様は決してお怒りにはなりません。むしろ喜ばれるはずです」

 剛志はハマダさんの前で子どものように声を上げて泣いた。


 剛志は進まない足で病院に向かった。一人でのセッションを終えるごとに、香凜にその様子を報告しているのだ。この日、剛志がメモリーバンクに行くことは、前日に伝えてある。どうしても病院には行かなければならない。

 香凜は剛志から単独セッションの話を聞くのを楽しみにしている。香凜がどんな姿で現れ、どんな所に行って、どのような記憶を共有し再現したのか。それがどのくらい現実味があって自然に感じられたのか。剛志は事細かに香凜に言って聞かせた。ヴァーチャルな記憶体験は、2人にとって思い出の場所や出来事ばかりだ。香凜はいつも剛志の体験談を楽しそうに聞いた。

「それじゃあ、私の記憶は剛志の中でひとつになるの」

 あるとき、香凜は剛志に問い掛けた。

「最初の頃は香凜しか知らないはずのことが再現されたこともあったよ。嵯峨野めぐりの時の写経のようなことだね。それは恐らくエラーみたいなものかもしれない。けど、ハマダさんたちが修正して、近頃はほとんどそういったことは起こらなくなった」

「じゃあコントロールはできるようになったんだね」

「多分、大丈夫だと思う」

「良かった。私の記憶が全部行っちゃったら、剛志が大変でしょう。私はほんの一部でいいの。楽しかった記憶だけ一緒にいられたら」

 剛志はこの日のセッションのことを話すかどうか迷った。それは浮気の告白のような気がしたからだ。だが、剛志はハマダさんの言葉を信じて、思い切って打ち明けた。

「そう…」

 剛志の説明を聞いた香凜は、小さく呟いた。しばらくの沈黙の後、香凜は笑顔で言った。顔は笑っていたが、瞳からは一筋の涙が流れ落ちた。

「ごめんね、本当は私がしてあげられたら良かったんだけど」

「そんなことはないよ。僕こそ香凜が病気と闘っている時なのに…」

 剛志も泣いていた。香凜は剛志の掌にそっと手を重ねた。

「少し嫉妬しちゃう。メモリーバンクの私に。でも、何だかうれしい気持ちもあるわ」

 香凜はやさしく微笑んだ。病室に静かな時間が流れた。2人は黙ったまま涙を流し続けた。どのくらいの時間が経っただろう。香凜がぽつりと言った。

「私がいなくなっても、いっぱい愛してね」


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