セッション3.回顧
香凜が腹部に強い痛みを訴えて自宅近くのクリニックを受診したのは、結婚してから3年後の秋だった。二十代半ばの香凜は日ごろ風邪すら滅多にひかない健康体だった。痛みはすぐにひくだろうと高をくくっていたが、最初に痛みを感じてから1週間が経っても、その鈍痛は治まるどころか、よりひどくなっていった。香凜は剛志の強い勧めで、気が進まないまま内科医の診察を受けた。その医師は三十代後半で開業したばかり。経験豊富とは言えなかったが、それを補うだけの謙虚さを持っていた。
「このクリニックの検査機器では分からないことがあります。紹介状を書きますので、大きな病院で精密検査を受けてください。何、心配することはありませんよ。しっかり調べたら安心できます」
若い医師はそう言って自分の出身大学の付属病院を紹介した。
香凜は翌週、紹介状を持って電車を乗り継いで1時間ほどの場所にある大きな総合病院を受診した。香凜は断ったが、剛志は有給休暇を取って付き添った。病院ではほぼ1日掛かりで、あちこちの検査室をはしごしてMRIやら血液検査やらを繰り返し、再び診察室に呼ばれたのは夕方に近かった。
診察室にいたのは「部長」の肩書を持つ五十代の男性医師だった。縁なしの眼鏡かけた「部長」は、香凜が診察室に入っても、デスクの前のディスプレイから目を離さなかった。
「椅子にお掛けください」
ディスプレイに表示されていたのはMRIの画像で、骨格の感じから下腹部のものらしかった。
「ご主人は…、同席されませんか」
画面を凝視しながら「部長」は軽い感じで言った。
「主人を呼んでも構わないのですか」
香凜が小さな声で問いかけると、「部長」は顔を香凜に向け言った。
「同席していただいた方がよろしいと思います」
年配の看護師に促されて剛志が診察室に入ると、「部長」は手で香凜の隣の椅子を指し示した。
「どうぞお掛けください。ご主人にも一緒に聞いていただきたいと思います」
剛志は香凜の肩に軽く手をのせた。香凜は剛志を見上げて少しだけ口元を緩めたが、緊張のせいなのか顔がこわばっている。剛志は席についた。診察室にありがちの背もたれのない丸椅子だった。
「高木さん」
「部長」は椅子を回して2人に正対し、しっかりとした口調で言った。
「検査の結果、奥様の腹部、正確には大腸にポリープが見つかりました」
剛志は頭をハンマーか何かで殴られた気がした。血の気が引いていくのがはっきり分かった。
「ポリープは小さくはありません。すぐに外科手術で取り除きましょう」
剛志は胸が悪いのを通り越し、吐き気を感じた。隣で香凜は小さく震えていた。
「お気を確かに聞いてください。外科手術でポリープを除去した後、抗がん剤治療が必要になります」
香凜は両手で顔を覆った。「部長」は神妙な表情でなおも追い打ちを放った。
「肝臓への転移も認められます。奥様はお若い。病気の進行が早いので、治療はすぐにでも始めた方がよろしいでしょう」
剛志は高熱に見舞われたかのように頭がぼおっとして、うまく考えがまとめられなかった。何を伝えられているのか、自分はなぜここにいて、このような理不尽な話を聞かされているのか。どうして「部長」はこんなに冷静でいられるのか。
診察室を離れようとする剛志に「部長」はさりげなく言った。
「あ、ご主人には入院の手続きなど少しお話しがありますので、残ってください」
肩を落とす香凜の背中を見送って、剛志は診察室に残った。引き留められたのは、入院手続きのことではないことを、剛志は直感していた。「部長」は引き締まった表情で単刀直入に切り出した。
「病気は相当進行しています」
予想通りの言葉に、剛志は身体を強張らせた。
「どのくらい…なのですか」
「ステージでいくと、4-b。かなり深刻な病状と言わざるを得ません」
剛志は頭を抱えた。次の質問は「部長」も想定しているはずだ。剛志は声を絞り出した。
「いつまで…香凜はいつまで生きられるのですか」
「部長」は一瞬視線を落としたが、すぐに剛志の目を見て言った。
「このままだと半年。ですが抗がん剤が奥様に合えば1年を越せるはずです。2年、3年と生きられたケースは珍しくありませんし、完治したケースもない訳ではありません。ショックだと思いますが、ご主人が希望を捨てずに、気をしっかりともって奥様を支えてあげてください」
その日はどうやって家まで帰ったか、剛志はほとんど思い出せない。ただ、隣の香凜がずっと剛志の手を握っていたことだけは覚えている。
翌日、剛志は会社を休んだ。剛志が浅い眠りから覚めたときに、香凜の姿が見えなかった。剛志は慌てたが、テーブルの上に置き手紙があった。
<昼までに戻ります。心配しないで>
香凜は朝いちばんで出社し、会社に辞表を提出しに行っていたのだった。手紙の通り、昼前に戻った香凜は、剛志にこう言った。
「悪いんだけど、明日もお休みをとって。一緒に行って欲しいところがあるの」
香凜がこの会社をどうやって見つけたのか、それは訊かなかった。だが、最近、この業種が急速に成長しているのは、ビジネスサイトをみていれば自然に分かる。翌日、香凜と一緒に訪れたその会社は、副都心の大きなビルディングの38階にあった。ワンフロアを1社で独占しているのだから、業績の悪いはずはない。
<メモリーバンク>
曇りガラスの自動ドアには、控えめなロゴでそう書かれていた。ドアが開くと、冴えないIT会社の受け付けのような地味なフロントがあり、紺色のスーツを着た三十代くらいの女性が静かに出迎えた。
「いらっしゃいませ」
カウンター周りに派手さはなく、女性の対応は落ち着いていた。大事な人を亡くしてここに来る顧客が多いので、あえて地味な造りにして、接客対応も控えめにしていると、剛志は後でハマダさんから聞いた。
「予約していた高木ですけど…」
香凜が伝えると、受け付けの女性は軽く会釈をして来意を受け止めた。「ようこそ」と言わないのは、対応が控えめなのと同じ理由なのだろう。
「高木様、こちらへお越しください」
女性はニコリともせずに言った。しかし、剛志はなぜだか冷たく突き放している感じは受けなかった。それがこの会社の接客マニュアルなのかもしれない。2人は「相談室A」のプレートが表示されている部屋に案内された。
「担当の者を呼んで参ります。しばらくお待ちください」
相談室は四畳半ほどの広さで、4人掛けの応接セットが中央にあった。壁の色は淡いグリーン。調度は豪華さを主張していないが、充分に吟味された洗練さがあった。天井のスピーカーからは低いボリュームで音楽が流れていた。薬にも毒にもならないストリングスが主体の環境音楽のようだった。もちろん剛志には何の曲か分からなかった。
「お待たせ致しました」
先ほどの女性が運んできたハーブティーを半分飲み終えた頃、控えめなノックの音と共に、一人の男性が相談室にやって来た。それがハマダさんだった。当時はまだ四十代後半で、今と違って髪は黒く、無香料のワックスできっちりとオールバックに固めていた。若さと老いがほど良い均衡を保っていた。
「コンシェルジュのハマダと申します」
ハマダさんは丁寧な所作で名刺を香凜と剛志に差し出した。名刺にはハマダさんが脳神経外科と精神科の医学博士であることが記されていた。のちに臨床心理士の資格も取得していることも知った。
普通の営業トークなら、ここで「このたびは当社をご利用いただき、ありがとうございます」という文言が続くのだろうが、2人がこの会社を訪れた理由を知っていたら「ありがとうございます」はない。ハマダさんは簡単な自己紹介を終えると、すぐにシステムの説明を始めた。
「BCIという言葉を聞いたことはございますか」
2人が首を横に振ると、ハマダさんは小さく頷いた。
「ブレイン・コンピュータ・インターフェイスの略語になります。脳とコンピュータを繋ぐ技術、システムのことです。最初、この技術はBMI、ブレイン・マシン・インターフェイスとも呼ばれていて、主に手足に障害を持つ方々の義手や義足を本人の意思通りに動かすことや、人が行くことのできない危険な場所で作業をするロボットやアンドロイドを遠隔操作する用途に使われておりました。このシステムの研究が始まった目的は、頭で考えた通りに機械を動かす、というものでした。初期のモデルは脳から発せられた指令、信号と言った方が正確ですが、それをコンピュータで的確に処理、伝達できなかったので、動きは原始的にも関わらずエラーが多かったのです。しかし、脳と機械の情報のやり取りに関する知見が蓄積されていくうちに、脳から発せられた信号がどのように身体の部位を動かしているのかが詳しく分かるようになりました。そして、その逆、つまりは脳のどの部位にどのような刺激をどのような強さで与えると、どのような神経活動が誘発されるのかが明確になってきました。簡単に申せば、脳から指令を出すだけなく、脳に特定の信号を伝達することで、さまざまな脳神経的な活動を促すシステムへと発展していきました。脳からのアウトプットだけでなく、インプットに関する理論が確立されていったのです」
香凜と剛志は黙ってハマダさんの話を聞いていた。ハマダさんは淡々と語り続けた。
「エンジニアリングの分野がそのような成果を積み重ねている一方で、医学界にも大きな進歩がありました。脳の神経活動を細かくマッピングし、ヒトの神経活動をリアルタイムで正確にトレースする技術です。これは脳神経の物理的、電気的な構造を明らかにしました。それはやがてヒトの記憶をデータとして記録する技術への扉を開きました。当社はこれらの技術を用いて、お客様の記憶をデジタルデータ化して保存することを承っております」
検診の後、剛志は香凜の本当の病状を伝えられずにいた。だが、香凜は全てを悟り、ここに自分の記憶を残そうと考えたのだ。その切ない願いに、剛志は胸が締め付けられた。
「三十代のご夫婦ですと、お若いので脳神経活動も活発です。脳の分析と記憶パターンの抽出には、1年もあれば充分だと存じます」
「1年…ですか」
剛志はつぶやいた。時間はギリギリかもしれない。
「奥様の記憶を抽出するだけでなく、デジタル化した記憶データを、ご主人の脳神経活動にアジャストする作業が必要になるのです。そこに若干の時間が要ります」
「僕の脳に」
「いくら記憶のデータをデジタル信号として記録しても、それだけでは意味をなしません。そのデータは特定のヒトの脳細胞の中でのみ再現できるようにしているのが、当社の最大の特徴でございます。奥様のご記憶をご主人の脳の中で再現するための調整作業、それにはご主人のご協力が欠かせません」
「僕の脳との調整が終わったら、香凜が僕の中に現れるということですか」
ハマダさんは頷いた。
「その通りでございます。ヴァーチャルな世界ではありますが、お2人でご一緒にこれまでの記憶を辿ることができます」
「でも人にはどんなに親しくても、他人には知られたくない個人的な秘密みたいなものがあります。全ての記憶を僕が知ることは、香凜も望まないと思うのですが」
「もちろんでございます。ご主人の中で再現できる奥様のご記憶は、お2人の関係性があるものに限られます。言い換えれば、ご主人と奥様がともに経験したものでなければ、再現はできないということでございます。奥様が単独でお持ちの個人的な記憶にはアクセスできないような仕組みになっております」
「なるほど…」
ハマダさんはなおも続けた。
「お2人ご一緒でという条件付きですが、ヴァーチャルな記憶の世界では新たな体験も可能になります」
「新たな体験…。過去の記憶を遡ることだけではなく」
「はい、どのようなことでも、という訳には参りませんが、ご主人の記憶や経験にある程度ひもづいた内容であれば、奥様の記憶に新たな体験を付加し、それを共有することができます」
「例えば、実際には2人で行ったことのない場所に一緒に行ったり、とかですか」
「ご主人が行ったことのある場所であれば、奥様とご一緒に行くという体験を新たな記憶として付加し、それを蓄積することができます。いわばお2人で新しい未来をつくるということも可能になるのです」
香凜の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「奥様は重い病気だと伺っております。取り組まれるなら、出来るだけ早い方がよろしいかと存じます」