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セッション2.暗雲

 次のデートはいわくつきの函館だった。しかし、香凜の表情は会った瞬間から朗らかで生き生きとしていた。ハマダさんマジックが炸裂したのだ。

「やっぱりあのソフトクリームは最高よね。北海道で食べるとどうしてあんなにおいしく感じるんだろう」

 剛志と香凜は函館空港でフライトの時間待ちをしている。香凜はつい1時間ほど前までいた「あの牧場」のアイスクリーム店のことを話している。

「やっぱり牛乳が新鮮だと、ソフトもおいしいんだね」

 香凜はそう言って一人で頷いた。

「あのホテルも10年前と何も変わってなかった。時間が止まっているみたいだったね」

 あのホテル、香凜が言っているのは、ベイエリアに建つ15階建てのホテルのことだった。昨夜、2人が宿泊した。オフシーズンだったので予約なしでも泊れた。

「ベランダの露天風呂が良かったよね。夜景を眺めながらの露天風呂なんて贅沢」

「最初は嫌がったじゃないか」

 10年前、初めて函館を訪れた際にもこのホテルに泊まった。露天風呂はそのときが初体験だった。

「だって誰かに見られている感じがしたし…。それにしても、あのときのお隣さんは凄かったよね。まさか露天風呂で始めちゃうなんて」

「声も相当でかかったしね」

 香凜は含み笑いをした。

「2人でこっそり聞いちゃったよね」

「盗み聞きしなくてもはっきり聞こえたけど」

「こっちが恥ずかしくなっちゃうくらいにね」

 剛志はあの夜のことを思い出していた。隣室の嬌声に刺激を受けて、2人は風呂からあがったあと、体を拭く暇も惜しんで激しく愛し合ったのだ。

 剛志の隣で香凜も遠い目線でぼんやりと宙を眺めている。きっと同じ記憶を呼び起こしているのだろう。


「本日はいかがでしたでしょうか、高木様」

 ロビーにはいつものようにハマダさんがいた。剛志は予定時間を大きくオーバーして1時間近くも部屋から出てこなかった。普段なら30分もあれば、ひとつの旅を終えるくらいの経験ができるのだが、今回は長居してしまった。前回の修正点がきちんと成果を上げたのは明らかで、悪い時間を過ごしたはずはない。感想を聞くまでもないのだが、ハマダさんは少し勝ち誇ったような表情で、評価を促しているように見えた。

「素晴らしかったです。香凜は明るさを取り戻していました。久しぶりに満ち足りた時間が過ごせた気がします。さすがハマダさんです」

 ハマダさんは満面の笑みで応えた。

「お褒めいただき恐縮です。奥様の態度や言動に不自然なところはございませんでしたか」

 剛志は返答に少し躊躇した。

「いや別に…」

 ハマダさんと剛志は長い付き合いだ。剛志の一瞬のためらいを見逃すはずはない。だからこそ、ここまで長い間、剛志に満足を与え続けられたのだ。

「何か…ございました…のでしょうか」

 先ほどまでの柔和な表情が一転し、ハマダさんは眉間に小さな皺を寄せた。こうなると剛志は顛末を詳しく説明するまで、この場から解放されることはない。

「大きな問題という訳じゃないです。ただ、強いて言えば…」

 ハマダさんは剛志の顔に穴が開くのではないかというくらい見つめている。

「機嫌が良すぎたということですかね」

 剛志の返答にハマダさんは一瞬首を少しだけ傾げた。

「そうです。前回が前回だったからそう感じたのかもしれません。でも、今回はとても香凜は明るかった。明るすぎるくらいでした。それに、あんなに僕を求めることは、そうそうあることじゃないので…」

 剛志はできるだけソフトにポジティブな感想を伝えたつもりだったが、ハマダさんの反応は全く予想とは違った。大きなショックを受けたかのように、顔つきが完全に固まっていた。それは今まで見たことのないハマダさんの表情だった。剛志は慌てた。

「そんな驚かないでください、ハマダさん。前回よりは遥かに素晴らしいデートでしたよ。それは間違いない」

 剛志のフォローに耳を貸さず、ハマダさんはおずおずと言った。

「奥様に…積極性がありすぎたということなのでしょうか」

「少しです。ほんの少し。たいした問題ではありません」

 剛志は余計なことを言ってしまったと後悔した。不用意な一言がハマダさんの責任感に火をつけてしまったのだと思った。

「いや…それは…」

 ハマダさんは母親に叱られた子どものように少し背を丸めて、じっと考え込んでいた。こんなハマダさんを剛志は見たことがなかった。剛志は戸惑いを超え、わずかに恐怖を感じた。


 剛志が「メモリーバンク」のオフィスを訪れるようになって、まもなく5年になろうとする。その間、ハマダさんは変わらず剛志専属のコンシェルジュだった。最初の頃から一貫して剛志の満足度が上がり続けているのは、ハマダさんを中心としたチームが親身になって改良を施してくれたおかげであるのは間違いない。

「申し訳ございません」

 長い沈黙の後、ハマダさんは背筋を伸ばして、深々と首を垂れた。

「奥様をそのような態度に仕向けてしまって。さぞかしお気を害されたことでしょう」

 先ほどの勝ち誇った表情とは一変して、ハマダさんはひたすら恐縮している。

「そんな…謝らないでください」

「ですが、契約では生前の奥様の記憶を忠実に再現するこということでした」

「それはそうですが、人間だって年を重ねれば人格だって変わっていきます。ここの香凜だって同じだと僕は考えています。過去の香凜は香凜で、今は今の香凜です。今日のような香凜も、僕にとっては素晴らしい女性です。今まで見られなかった一面は新鮮だったし、結構気に入っているんですよ」

 剛志はハマダさんを一生懸命説得している自分を少し滑稽に感じた。顧客である自分が「素晴らしい」と評価しているのに、ハマダさんは何かに引っかかっている。ハマダさんがそこまで深刻であるなら、その懸念が取るに足らないことであるはずがない。

「ハマダさん、あれから10年近く、正確には11年と3カ月前です。その記憶をもとに、今回の函館デートは構成されたのですよね。これだけの長い年月を経て、当時と何も変わらないことの方が不自然ではないですか」

 これまで接したことのないハマダさんの表情をみて、剛志は危機感を膨らませた。

「メモリーバンクに通い始めて5年がたちます。この間のハマダさんのチームのお世話に僕は本当に満足しているし、感謝しています。ヴァーチャルな世界かもしれないけど、香凜といろいろな経験を共有できたことが、僕にとって大きな心の支えになっているんです。ここがなければ僕の心は壊れていたかもしれない」

「そう仰っていただけると、幾分救われた気持ちがします」

「そうですよ。人間だって10年も経てば、考え方や態度だって随分変わりますよ。古い記憶の中でだけ生き続けるのは自然じゃない。そんなに深刻に受け止めないでください。さっき言ったのは単なる軽い感想ですから」

 必死で語り掛ける剛志だったが、ハマダさんの表情は硬いままだった。いや、表情はより深刻になっているように、剛志には見えた。

「ハマダさん…どうしたと言うのですか」

 ハマダさんの顔つきが一向に変わらないので、剛志の不安はさらに増幅した。これまでもハマダさんは問題が発生すると、大なり小なり苦悩する素振りを見せてきたが、今回の反応は明らかに違う。それは即ち、剛志と香凜がメモリーバンクで過ごしてきた5年余りの関係に大きな影響を及ぼす何かなのではないか。

「はっきり言ってください。香凜に何が起こっているのですか」


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