セッション10.永遠の別れと小さな鍵
「ごめん、待った?」
剛志は香凜の姿を認め、駆け寄った。
「ううん、私が早過ぎたの」
夕方近いというのに、まだ真夏の暴力的な太陽が照り付けていた。香凜は微笑んでみせたが、額には少し汗をかいている。ポロシャツに膝上のショートパンツ、足元はデッキシューズ。大学生の一般的な服装だ。
剛志が最後のセッションに選んだのは、初めてのデートのシチュエーションだった。
「暑かっただろ? すぐ電車に乗ろう」
初デートの行き先は貴船神社だ。京都市の北の外れにあり、街中よりは涼しいだろうというのが行き先を決めた理由だった。神社には叡山電車の出町柳から電車で向かう。出町柳駅のすぐ近くには、賀茂川と高野川の合流地点「鴨川デルタ」があり、水辺に涼を求める大勢の観光客らでにぎわっていた。
運よく展望列車「きらら」に乗ることができた。さらに幸運だったのは、窓に向かって座席が並ぶ展望スペースが空いていたことだ。剛志と香凜は並んで展望席に陣取り、車窓の風景を楽しみながら、しばし電車に揺られた。
市街地を窮屈そうに走る叡電の沿線は、岩倉や京都精華大前を過ぎた頃から家の数がめっきりと減り、わずかばかりの田園地帯を通り過ぎると、やがて鬱蒼とした林の間を登っていった。
「やっと汗が引いてきた」
冷房の効いた車内でもハンカチで汗をぬぐっていた香凜は安心したようにぽつりと言った。
「やっぱり京都の夏はすごいね」
2人は貴船口で下車し、駅前のバスに乗り換えて貴船神社に向かった。日が傾き、辺りには夜の気配が忍び寄っていた。バスは山間が迫る車幅ギリギリの狭い道を走っていったが、沿道に家など人の気配がするものはほとんどなく、剛志はこのバスが別世界への道を進んでいるような気がした。
「情緒あるね」
香凜は暗い影に包まれつつある車窓の風景を微笑みながら眺めていた。
10分も経たずに着いた終点のバス停から神社参道に向かう道沿いには旅館や料理店が立ち並んでいた。緩い上り坂を歩いていると、前方の店には明かりが灯り始めた。にぎやかな夜景とも言えたが、不思議な静けさに包まれている。
剛志は思い切って香凜の手に触れた。香凜は一瞬電気に触れたように手を引きかけたが、剛志を拒むことはなかった。2人は手をつないで、神社の鳥居へと向かった。剛志は自分の心拍数が上がっているのを自覚した。
「パワースポットで有名なんだってね、貴船神社」
香凜は楽し気に言った。
「本来は水の神様だけど、縁結びの神様でもあるらしいね」
「調べたの?」
「一応ね」
「私もネットで調べてみた。1400年も前に創られた神社なんでしょう?」
「創建年次は不詳ってウィキペディアには書いてあった」
「でもとっても古いのは確かね。霊験あらたかって感じ」
剛志と香凜は他愛のない話をしながら、本宮参道の階段を一段ずつ上った。両脇には深い朱色の灯篭が並んでいて、ぼんやりと明かりが入っている。
本宮を参拝した後、香凜はおみくじを引いた。この神社のおみくじは、真っ白な紙を境内にある霊泉に浮かべると文字が浮かび上がってくる仕掛けだ。
「なんだか変わってるね」
香凜は腰をかがめて水に浸したおみくじに顔を近づけた。ゆっくりと文字が浮かび上がってきた。
「あっ」
香凜が小さく声を上げた。
「大吉、やったー」
剛志の手を取り、香凜は小躍りした。頬のえくぼが眩しかった。
参道の階段を下り、2人は川床の料理店に足を運んだ。すっかり夜の帳が下り、鬱蒼とした山林が黒い影となって辺りを包んでいた。川のせせらぎを足下に聞きながら、剛志と香凜は日本料理の夕食を済ませた。2人はたくさん話をした。香凜は剛志の目をじっと見ながら話を聞いてくれた。剛志はたくさん話をしたし、香凜も自分のことをたくさん話してくれた。
帰りの叡電はまたもや展望列車「きらら」だった。午後8時近いということもあり、電車に乗客はまばらだった。
「あ、きれい」
夏のこの時期、叡電は粋なサービスをする。市原から二ノ瀬駅の間にある「もみじのトンネル」をライトアップするのだ。もちろん夏のこの時期にもみじは紅葉していないが、「青もみじ」が闇の中で輝く姿は、一抹の涼を感じさせ独特の趣があった。電車はその区間に入る直前に速度を落とし、ゆっくりと「もみじのトンネル」を進んでいく。
「もっとゆっくりでもいいのに」
香凜はぽつりと言った。
「そうだね」
2人は一瞬目を合わせた。剛志は香凜の柔らかな笑みを心に刻んだ。
最初のデートの時、剛志はここでこう言ったはずだ。
<今日は来てくれてありがとう。楽しかった>
だが、記憶の世界の香凜にはこの言葉では不充分だ。剛志は香凜の全存在に向けて言った。
「ありがとう。僕と出会ってくれて」
翌日、ハマダさんは「契約解除通知書」という書類を持参して、約束の場所にやって来た。
「このような事態になってしまい、本当に申し訳ございません」
ハマダさんは深々と頭を下げた。
剛志は無言でその書類にサインし、捺印した。ハマダさんは剛志が手渡した書類を両手で恭しく受け取り、貴重品を扱うように慎重にファイルにはさみ、そのファイルを落ち着いた所作で黒い鞄に収めた。
「なんだか、2度目の弔いのような気持ちです」
剛志は心の中を素直に口にした。
「これで香凜と会うことはもうできないのですね」
そう言いながら、剛志の目から涙があふれ出てきた。自分の意志では止めようがない感情が溢れて止まらなかった。剛志は下を向いて歯を食いしばった。
しばらくして剛志が顔を上げると、ハマダさんも泣いていた。
「ハマダさん…」
長い付き合いになるが、ハマダさんがこれほど激しく感情を露わにしたのは初めてだ。2人は声を押し殺して、静かに泣き続けた。
「香凜は幸せですね」
剛志が口を開くと、ハマダさんは不思議そうな顔をした。
「だってそうでしょう。香凜はもう5年も前に亡くなっている。その人のために、他人のハマダさんが涙を流してくれているんですから」
「高木様…」
その後、どのくらい経ったか覚えていない。長い時間だったような気もするし、ほんの短い間だったのかもしれない。2人は一言も交わさずに、しばらくじっとしていた。
「ハマダさん、それでは、僕はもう行きます。長い間、お世話になりました」
剛志は席から立って、ハマダさんに右手を差し出した。ハマダさんは慌てて立ち上がった。
「こんなことになって憤慨する気持ちはもちろんありますが、職を賭してこの邪悪な企みを阻止しようと考えてくださったハマダさんには感謝しています。決して忘れません」
「高木様…」
「香凜を守ってください。最後のお願いです」
ハマダさんは剛志の手を両手でがっちりと握った。
「必ずお守り致します」
「それでは、さようなら。もうオフィスに顔を出すことはないでしょう。ハマダさんにお会いすることも」
「残念でございます、高木様」
これがハマダさんとの最後の会話となった。
香凜と2度目の、そして本当の意味での永遠の別れをしてから、剛志はしばらく仕事を休んだ。何をする気も起きず、部屋に閉じこもっていたが、気が滅入るばかりなので、思い切って旅にでることにした。
行き先は香凜と行ったことのない場所。結局は海外になった。人の少ない場所を探し、オーストラリアの小さな島で少しの間過ごすことにした。静かなリゾートの島だった。
日がな一人で海岸を散歩したり、陽気なスタッフとテニスをしたり、サンゴ礁をシュノーケリングしたり…。およそこれまでの日常とはかけ離れた生活を1週間ほど過ごした。1人でリゾートに滞在する日本人は奇異に映ったことだろう。入れ替わりやって来る新婚旅行と思しきカップルは、いつも1人で行動している剛志に不審の目を向けた。しかし、ホテルのスタッフは干渉し過ぎない程度にフレンドリーに接してくれた。短い間だったが、この島の滞在で、身体に沁みついていたいろいろなものが剥げ落ちていく感覚があった。8日目の朝、ホテルの前のビーチで東の空から昇る朝日を眺めていたとき、剛志は日本に戻ることを決意した。
成田空港から電車を乗り継ぎ、自宅に戻ったとき、郵便受けにメモが残されていた。宅配便の不在連絡票だった。差出人を見て、剛志は驚いた。ハマダさんからだった。何を届けようというのだろう。
剛志は再配達までの時間を待ちきれず、宅配会社の営業所の住所を調べ、直接出向いて荷物を受け取った。それは書類を入れるような封筒だった。
封筒を開けてみると、中にはもうひとつ真っ白な普通の封筒があり、その中には手紙と小さな鍵がひとつ入っていた。剛志は恐るおそる手紙を読み始めた。
<謹啓
このたびは私どもの会社が高木様に大きなご心痛とご損害をお与えし、重ねておわび申し上げます。いくら謝罪しても、充分ではないことは重々承知しております。私もその組織に身を置いたものの一人であります。一生かけて償っていきたいと考えております。
お預かりした奥様のご記憶に関してですが、契約解除通知書をいただいた日に全て消去作業を完了致しました。高木様のご記憶も同様の措置を取らせていただきました。
不正を働いたグループの研究用サーバーは、最後のセッションの際に仕掛けた罠が機能し、所在を特定することができました。お2人の改変された記憶は、同じ日の深夜、私と信頼できる部下が全てを消去させていただきました。一部のサーバーは破壊しました。
高木様ご夫妻に関する記憶は、断片も含めて弊社のネットワーク上に1ビットも残されておりません。製品化の阻止は成功致しました。お2人の尊厳を傷つける行為はギリギリのところで回避することができましたことを、ここに報告致します。
ただ、ひとつだけ、高木様に相談せずに実施させていただいた事項がございます。最初にお預かりしたオリジナルの奥様のご記憶だけは、どうしても完全に消去することができませんでした。高木様が「香凜は生きている」とおっしゃっておられたことを思い出したからです。サーバーからデータを消去することが、高木様の奥様の生命を絶つ気がしたからです。
奥様のオリジナルなご記憶は、同封した銀行の貸金庫に保管してあるハードディスクに保存されております。事前の相談なく、そのような行為をしてしまったことをお許しください。お気に召さなければ、高木様ご自身がそのハードディスクをご処分ください。
最後はこのような形になってしまいましたが、高木様ご夫妻をお世話させていただき、ありがとうございました。私どもにとって、高木様と過ごさせていただいた時間はとても濃密で充実しておりました。担当させていただいたチームを代表して、改めてお礼を申し上げます。
会社の不正行為は古くからの知人で信頼の置ける新聞記者に記事化を託しました。近いうちに公になるものと確信致します。
末尾になりますが、私と幾名かの部下は、消去作業の翌日に辞表を提出致しました。小さな集団ではありますが、いつの日か奥様の記憶データを安全に再現できるよう記憶屋の研究を続けていく所存でございます。そのとき、高木様と再びお会いできたら、これに勝る喜びはございません。
御身体ご自愛の上、ご活躍を心よりお祈り申し上げます。 敬具>
剛志は何度も読み返してハマダさんの思いを記憶に刻み込み、手紙を折りたたんで封筒に収めた。もう二度とこの手紙を開くことはないだろう。
そして剛志は同封されていた小さな鍵を手に取り、ぎゅっと握った。
(了)
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
続編は8月1日から連載を開始する「月世界のコンシェルジュ」になります。
1作目とかなり趣の変わった作品になっています。




