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セッション1.久しぶりのデート

「久しぶりだね。忙しかったの?」

 その日、香凜は少し不満げに話し始めた。

「ごめん、急な出張で北海道に行くことになってね」

 剛志はできるだけ平静を装って答えた。

「北海道? それで仕事はうまくいったの」

「ああ、バッチリだよ」

「それは良かった」

 1週間も会いに来なかったから、少しすねて見せただけなのだろうか。表情はまだ硬いままだ。

「北海道のどこ?」

 香凜の質問はどことなくぶっきらぼうな感じがする。

「函館だよ」

「函館! 懐かしいね」

 香凜の表情が急に明るくなった。

 剛志と香凜は、付き合い始めて最初の夏、車で北海道を旅したことがある。もう10年近く前のことだ。2人の休みが急に重なったことが分かった金曜日の夜、羽田空港で待ち合わせて新千歳空港に飛んだ。千歳のホテルで1泊して、翌朝早くから、レンタカーで主に道南地方を無計画に走った。夏と言っても、東京のように蒸し暑くなく、空気はどこまでも清涼で軽かった。行き当たりばったりの3泊旅行だったが、2人にとっては忘れられない思い出になっている。

「全然変わってないよ、あの時から。ロープウエイ、夜景、ベイエリアの赤レンガ倉庫、五稜郭公園」

 香凜は黙って剛志の話を聞いていた。きっと当時の旅行を思い出しているのだろう。薄っすらと微笑んでいる気配がある。

「あの教会はどうなったの、工事中だったところ」

「ああ、ハリストス正教会だね」

「そう、変わった形の教会だった」

「改修工事は終わったみたいで、きれいになってたよ」

「中は不思議な感じだったね」

 函館山のふもとには2つの大きな教会がある。カトリックの元町教会とロシア正教のハリストスだ。

「イコンが何だか怖かった気がする」

 ロシア正教の教会は、キリストや司祭の肖像画イコンを飾るのが普通だ。礼拝堂の雰囲気はカトリックやプロテスタントとは大きく違う。

「そういえば、香凜は結構怖がってたよね」

 香凜は小さく頷いた。

「ところで、あの牧場は? まだあるの」

 2人にとってあの牧場と言えば、函館空港の近くにあるアイスクリーム直売所のある所ということになる。地場の乳業メーカーが直営している牧場で、濃厚な味で知られるソフトクリーム店が牧場の一角にある。観光ガイドブックには必ず載っている。

「もちろん行ったよ。飛行機の時間まで少しあったからね」

「どんなだった」

「平日だったので、激混みってほどではなかったけど、なかなかのにぎわいだったよ。家族連れやカップルや…」

「私たちみたいな?」

「そうだね。でも年齢層は少し高めだったかもしれない。老夫婦みたいな感じのカップルも結構いた」

「ふ~ん」

 香凜の表情はまた少し曇った。

「私も行きたかったなぁ」

 剛志はやはり言葉尻に棘を感じた。今日はご機嫌斜めのようだ。

「行けるさ、僕が行ったんだから、香凜も必ず」


「本日はいかがでしたでしょうか、高木様」

 エントランスにはいつもの紳士がいた。名前はハマダさん。濃紺のスリーピーススーツを一分の隙もなく見事に着こなしている。今日のネクタイは紺地に黄色の細いストライプ。身長は剛志と同じ175センチほどだが、背筋をピンと伸ばしているので、身の丈以上に大柄に見える。お辞儀の完璧な角度もそうだが、所作は流れるようで、ひと言で表現するならとにかく品が良い。

 言葉遣いは丁寧過ぎるくらいの丁寧さで、普通の人だと鼻につくくらいの接客ワードと言えなくもないが、ハマダさんの口から発せられると、ごく自然に受け止めることができる。そこはハマダさんの人格のなせる業だ。彼と剛志はもう長い付き合いになる。

「良かったですよ、今日も。ただ…」

 剛志の最後のワンフレーズに、ハマダさんの眉間の辺りの筋肉が少し動いた。

「ただ…。何かお気に召さないことでも」

 ハマダさんの反応を敏感に受け止めた剛志は、手を軽く振りながら繕った。

「いやいや、たいしたことではありませんよ」

 しかし、剛志の言葉にハマダさんは全く納得していない。

「どのような小さなことでも構いません。お感じになったことがあれば、何なりとお伝えください」

 深刻な表情のハマダさんを見ていて、剛志は吹き出しそうになった。いつもそうなのだ。ハマダさんは、どんな小さなことにも妥協しない。

「これはハマダさんのせいではありませんよ。ちょっとだけ機嫌が悪かっただけですから。いつも最高だとかえって不自然でしょう。たまにはこういうことがあっても…」

 ハマダさんは二、三度、首を横に振った。

「いえ、それはいけません。放置すると、より大きなトラブルになりかねません。状況を詳しくお聞かせ願えますか」

 やれやれ、こうなるとハマダさんは対処法を見つけるまで、決して諦めない。剛志は半ば観念して説明を始めた。久しぶりの訪問だったので多少拗ねている様子だったこと、仕事の出張の話をしたら「私も行きたかった」と不満げだったこと、2人がかつて訪れた思い出の地・函館の話になってやや機嫌が戻りかけたが、最後は「行きたかった」と膨れ気味だったこと。ハマダさんは剛志の説明をじっと聞いていた。

「出張に連れていけと言われても困るんですけどね。こればかりはどうにもならない」

 剛志が自嘲気味に言うと、ハマダさんは斜め下に視線を落とし、何やら小さく呟いた。どうやら対処法のヒントが見つかったようだ。

「よろしゅうございましょう。次回のご訪問までに、奥様のご機嫌をお直し致します。ご心配なさりませんように」

 ハマダさんは香凜のことを未だに「奥様」と呼ぶ。正確には「元奥様」なのだが。

 剛志が強く依頼した訳ではなかったが、ハマダさんは自分なりに対処法を見つけたことに満足した様子だった。ハマダさんがこう言い切ったからには、次は素敵なデートが実現できるに違いない。これまでがそうだったように。剛志は次週に訪問の予約をした。


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