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天候が薄暗い雨上がりに変わってしばらく、廃ホテルの玄関に1台の車が横付けした。かつてそれは『淑女』と呼ばれた優美なスポーツカーだったが、いまは雨と悪路に鍛えられて『熟女』としての凄みを醸している。
黒髪の女――ヨシノは車高の低い運転席から不格好に降りると、ドアに背中を預けて闇煙草を取り出す。湿気てなかなか火が付かないから、彼女は嗜好品の悪評を列挙して諦めることにした。
「初期はプードルの糞を捲いてた。アタリを引いたセゴは右目が白濁。ハヤミの舌打ちが三割増し。これが最悪」
煙草をしまってヨシノは銃を抜いた。回転扉の向こうで人影が揺れたのだ。警戒の必要はないが銃口を向けるのは社交辞令。程なくそれは割れガラスを潜って姿を現した。
「アタシだよヨシノ。今度こそセーフティ外してある?」
ヨシノは「今度からそうする」と銃をしまった。
「で、ハヤミ。私に無断で決行した依頼はどうだった? また私とアキから小言もらう感じ?」
「この依頼は雨天決行よ。暗黙の受諾条件は『死亡経験あり』。ヨシノはあるの?」
「なかったね。オマワリに駐禁喰らう前にさっさと出よう。無免許だってバレるから」
ハヤミの背に負われたカエデを一瞥したが、ヨシノは特に触れなかった。
ハヤミはカエデを抱いて助手席に座る。ヨシノが運転席でキーを捻ると、『淑女』は3500CCのエンジンを唸らせた。
ホテルのゲートには鳳凰のオブジェがある。世界に霧が満ちる前、『永遠の繁栄』を祈念して建てられたものだ。真鍮製の羽は無法者によって全て抜かれており、いまは七面鳥のような姿でアクラを見守っていた。ヨシノはすれ違うとき「駐車券よ」と窓から煙草を投げた。
フロントガラスを流れる世界は死んでいた。
重苦しい空には鉛色の雲。林立する廃ビル。舗装道路の至る所に樹皮のような亀裂が走り、隙間には生き汚く暗緑色の草が生している。そして、霧向こうには相変わらず異形の影がチラついていた。
ハヤミは抱いたカエデの肩に鼻を埋めている。消毒アルコールの匂いがするのだ。チグサによる看病の名残だろう。身体に伝わる体温は高く、心拍は早い。全てが死んだ世界で彼女だけが生きている。そんな錯覚をした。
「チグサが匿ってたんだ、この子。だいぶ弱ってるけど、フチュウに診せてみる。もし動けるなら『地図更新』のコマになるでしょ。アキの名采配でキャンプはいつも人手不足だし」
年齢10前後の死にかけた少女。有望な人材だった。ヨシノは突っ込む気にもならない。
「それでチグサは? 監禁してるの? それともまた見逃した?」
「殺しちゃったよ。足止めで撃ったら、そこから入った雨水でイカれた。ごめん」
ハヤミの鼻声を聞き、『そんなことだろう』とヨシノは嘆息した。唐突な拉致の原因もそれに違いなかった。路上で死んでる親猫の傍で子猫が鳴いていれば、気の迷いで持ち帰るヤツがいる。そしてもし親猫を轢いたのが自分ならその確率はさらにあがる。ハヤミはそういうのにハマったのだ。
「いいよ。テルテルボウズを前にしたアキの演説を一つドブに捨てられたんだ。報酬のもう半分をくれてやっても構わないぐらい」
「まさか。半額以上にケチがついたら三発撃って換金所のナカノに持ってくよ。『キャンプ民を一番殺してるヤツ仕留めたけど、いくら?』って」
「一発は私の銃でやらせてよ。……ねぇハヤミ。そんな強く抱いたら、その子苦しくない?」
ハヤミは大切な人形を抱きしめる少女のようだった。取り上げられまいと守るように腕は固く、そして鼓動が感じられるほどカエデを抱きしめている。
「この悪路だと危ないから。『淑女』のサスペンションって死んでるし」
声が湿っていた。そしてそれ以後、ハヤミは話さなくなった。長い直線道路を持て余したヨシノは再び闇煙草を取り出してライターを擦る。今度は火がついた。
「最近のハヤミってウェットだよね。私もそろそろ何かで泣いとこうかな。お勧めのネタあったら紹介してよ」
ヨシノは淡い血色の煙をウットリと燻らせる。いったい何を巻けばこんな高揚感が安く手に入るのか、恐ろしくて知りたくもなかった。カエデが小さく咳き込んだとき、間髪を入れずハヤミが腕を叩いてきたので、名残惜しくも「環境に配慮」と窓から捨てた。