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廃ホテルの一室をハヤミが訪れると、くすんだマットレスの上でその少女――カエデは胎児のように丸まっていた。部屋を見回せば衛生用品や保存食、衣類が慎ましく整頓されている。チグサが少しずつくすねて揃えたものだろう。天井には雨漏りもなく、野盗のねぐらとして申し分ない。にも関わらず、ここが手付かずだったのはフロアで腐っていた手首や足のせいに違いない。
――チグサの人避け工作。ただの医療者にしてはゾっとするほど気が利いてるよね。
吊るされた点滴バッグを認める。睡眠薬と『アンチ・レイン』の併用だった。
薬液は既に空で、ビニール管を辿るとカエデの細腕に針で留まっていた。ハヤミは値踏みする。傍には開封された『アンチ・レイン』の箱があり、中にはまだ『昼の分』と書かれた未使用の薬液がある。しかし箱が開封済なら汚染リスクが高いため、持ち帰るほどの価値はない。
ハヤミはマットレスの傍に腰を落ち着けると、何気なく天井を見上げた。幾つもの絵が貼られていて、そこから視線を感じたのかもしれない。
どの絵にも二人の少女が描かれている。背丈の離れた仲良さそうな姉妹――おそらくチグサとカエデだろう。それらの背景はどれも青空で、場所は公園、レストラン、学校だ。いずれも少し前に失われてしまった、そしてかつて何処にでもあった風景だ。チグサは『青が足りない』と言っていたが、それは何も絵だけの話ではない。残酷な夢を見せているとハヤミは思った。
「チグサ。『晴れたら一緒に行こうか』って出任せでも言って、この子の笑顔を買ってたの?」
呟きながら目線を下げたとき、カエデの枕下に光るものを見つけた。静かに取り出してみると状態の良い医療用メスだった。一昨日にキャンプ医のフチュウが『ないない』と親指の爪を齧っていたが、ここにあったのか。
――チグサめ。こんな護身用ってないでしょ。
不用心だとハヤミが顔をしかめたとき、カエデのうなじに付いた奇妙なミミズ腫れに気付く。目を凝らして『M||||』と読めたとき、ハヤミは自身の瞳孔が開くのを感じた。
――カイセイの被検体。
『M』はモルモットの頭文字、隣の縦傷『||||』は『カイセイ』の投薬実験に四度生き残ったことを示している。あそこは医療機関を謳った人体実験施設だ。バベルのような実験棟を囲う盛り上がった埋立地が、破棄・化学処理された被検体を押し固めた『屍の山』だと知った時、彼らは人を鼠とさえ思っていない化け物だと理解した。カエデの首で腫れている『||||』をハヤミは目でなぞる。
――投薬実験は『成り損ない』の濃縮血液をぶち込むんだ。あの痛みは大人でも一回でイカれる。二回も耐えたら焼却隊の候補だ。それを……。
ハヤミは得心した。貴重な医療者としてカイセイで厚遇を受けていたであろう彼女が、身分を捨て、危険を承知でカエデを連れて逃げ、割に合わない物資調達係として『ヤマネコ』に移住してきた理由、そこにはもう考察するほどの余地はなかった。
――カイセイの化け物に成れなかったんだな、チグサ。
それはこの世界では通用しない綺麗ごとだった。それは人が生き残るために捨てたもので、捨てきれなかった人間はもう雨と霧に淘汰された。だからチグサが死んだのは必然で、今まで生き残っていたこと自体が何かの間違いなのだ。ハヤミは何故か、それを繰り返し自分に言い聞かせた。
ハヤミの気配を無意識に感じ取ったのか、カエデの指がすがるようにハヤミの手を手繰り寄せる。小さいくせに力強く、そして熱っぽい指だった。
――面倒な自責を背負わされたな。
ハヤミはメスを降ろして再び天井を見上げる。こんなのはまるで呪いだ。天井の絵画が滲んで見えてきたから、目線を割れ窓へと外す。欠けた歯みたいになったガラス、そこから伺った雲はまだまだ重苦しい。この様子だと雨は長引きそうだから、少し時間を潰してからヨシノを呼ぶことにした。
ハヤミはカエデの指を解いてから重い腰を上げると、『昼の分』と書かれた薬液を点滴に入れて時計代わりにした。無くなる頃には雨も止み、目の滲みも取れるだろう。
「曇ったら一緒に行こうか。注意区画の『地図更新』。……しっかり働きなよ」