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【同日・午前9時】

 アクラ旧市街は廃ビルが幾つも林立するせいで、見上げる者に巨人の墓地を想起させた。

その廃色世界に落とされた一粒の黄色い染み。それはずぶ濡れになって走っている一人の女だ。レインコート越しとはいえ眠い汚染あめさえ省みる余裕のない彼女――チグサが必死なのは、胸に抱いた医薬品『アンチ・レイン』と無関係ではない。何せこれはキャンプ『ヤマネコ』から盗み出した希少品なのだから。


 ――ハヤミが来る。


 半時間前、小型無線機から漏れたクロノの声はそれのみで途切れた。彼女は全てを察して覚悟を決め、震えを飲み込み、隠れ家への忍び足を逃亡の駆け足に変えた。もはや雨を避けて瓦礫伝いに進む余裕は失われたのだ。

 それからは四肢を引き千切るほどの勢いで駆けた。呼吸も忘れ、感覚を放棄し、無我夢中に。医薬品(これ)を失えば自分は化け物に変わってしまう――そんな恐怖さえ押し殺して。

どれほど走ったかは分からない。もう肺は爛れそうなほど熱く、口内は血の味が滲み、頭は酸欠で締め付けられている。しかしついに、今にももつれそうな足を狙いすましたように、鋭い熱がふくらはぎを掠めていった。

 支えを失ったチグサは派手に転倒する。

 絶望は雨音を割る銃声(はんきょう)が告げた。


「……っ!」


 もはや悲鳴をあげる酸素さえなく、口に広がる血の味をぎゅっと噛み締めた。立ち上がるのは気力だけで、既に限界だった全身は激痛を訴えるばかりで痙攣し、彼女はただ瀕死の虫のように身を捩るしかなかった。


「……マジで最悪のタイミングだったね、チグサ。アキはの面目は丸潰れだよ」


 雨水を踏む足音に肩がびくりと震えた。それは恐怖よりも理不尽さに対する怒りなのかもしれない。死に物狂いで走り続けた己に追いついたのが、この歩みにも等しい足だというのか、と。


「それからアンタを見逃した物資の見張り担当。クロノだっけ。『屠畜部屋』に連れて行かれたってさ」


 『ヤマネコ』から追跡者として差し向けられたハヤミは、チグサの前でしゃがむと、色素の薄い目で覗き込んだ。


「アキはアンタを生かして連れて来いって。待ってるのは『テルテルボウズ』だろうね。分かるだろ。チアノーゼの顔が雲みたいに膨れて、足元が大雨になるやつ。最低の雨乞いだよね」


 無反応なチグサに肩をすくめ、ハヤミは『アンチ・レイン』の箱を水溜まりから拾うと水気をきってミニリュックへとしまう。

 依然として沈黙を守り続ける彼女を不審に思い、銃口でチグサの濡髪をかき分けると、胸元のネックレスが微かに光った。


「理由を話してみない? アタシは『ヤマネコの秩序』なんてケツのホクロよりも興味がない。だからそのネックレスに血化粧でもして持ち帰るシナリオを考えてる。ヨシノ仕込みのね。もちろん『死体』にうろつかれたら困るから、ハッキリ聞いておきたいんだ。このまま『消える』って。それにいつまでも雨曝しじゃ――」


「……カエデがね、お家で待ってるの。丸3日食べなかった日も、湿った毛布に包まった夜も、あの子は全然文句言わない。言えないのかな。お家に着いてスニーカーを脱いだらね、靴擦れで血だらけだったのに、私に隠して笑うの。あんな嘘つきな子、怒ってあげなきゃダメよね」


 チグサの呆けた笑顔から、ハヤミは事実を悟って舌打ちする。威嚇で撃った一発がふくらはぎを掠めたらしい。その傷口から入った雨水のせいで汚染が急激に進行し、チグサは状況判断力を失ったのだ。これで取引はお釈迦だ。


「私が廊下で合図したら、小さくドアを開けて覗いてくるの。いつも涙の跡がついてるくせに、『寝てた』って。……笑っちゃうよね」


 チグサが壊れたスピーカーのように続ける中、小型無線機が尻ポケットで震える。取り出すと着信周波数は『ヤマネコ』。ハヤミはしばし躊躇ったが、やがて嘆息して応答した。


『アキだ。見つけたのか?』


 ノイズ混じりの声は静かで冷えている。電子音で肉声が削ぎ落されても不快な寒気が残る当り、それはアキが持つ本質的なものなのだろう。


「ああ、アクラの旧市街だ。ナカノにはビンゴだって伝えてくれ。あとその臭い包帯もママに洗濯してもらえって」


『生きてるか? 死んでるか?』


 チグサは変わらず独り言を続けている。


「……ヘマして『成り損ない』にした」


『そうか。なら仕留めて証拠を持ち帰れ。『アンチ・レイン』を忘れるな。報酬は契約通り半分だ』


 一方的に切られた小型無線機を「クソ野郎」と毒付きながらしまい、ハヤミはチグサの様子を伺った。


「絵がすごく好きなの。キャンプから持ってきたチョークは最初に青が小さくなった。カエデはもっと青い空が欲しいんだって。だから早く青を買って来ないと。いま必要なの。青が。青が。青が」


 次第に荒くなっていく呼吸にはすすり泣くような、あるいは含み笑うような濁りが混じる。そして嘔吐のように唾液をこぼし始めたのを見て、ああ、とハヤミは理解する。瞳の奥で虫が孵化したらしい。覗き込むとやはり瞳孔に渦が巻いていた。彼女が霧に溶けてしまうまで、もう時間がないだろう。

ハヤミは銃口を胸に押し当て、奥に感じる鼓動へ狙いを定める。そしてチグサの髪を撫でながら、まるで子供を諭すように問いかけた。


「ねぇ。おうちはどこ?」


 チグサだったものはハヤミを見つめて数秒、素直に口にした。

 ハヤミは(ディフェンダー)の引金を絞った。


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