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盗聴用イヤホンが耳からこぼれたがセンジは動けなかった。バケツで被ったような汗に濡れたくせに、喉は乾き切って唾さえ飲み込めない。足元のイヤーピースは仲間の断末魔と銃声、燃焼音をモノラルで垂れ流し、カイタ病院での虐殺をなお実況中。
――なにが『世間知らずの嬢ちゃんとそのオモリ』だ。化け物じゃないか。
ブツン、と音声が途絶えて砂のようなノイズを流し始める。
4階ビルの屋上に陣取ったセンジは軍用双眼鏡を取り上げ、遠景に霞むカイタ病院を覗いた。窓から溢れる炎。空を燻すような黒煙。瞬く銃の閃光。まるでビルを使った火葬かオーブンか。炎に塗れた転落者が視界を泳ぎ過ったとき、振動していた小型無線機に気付く。手探りで出るとモジだった。
『センジ。さっさと状況を報告しろ。アホな野盗ペアが標的を拉致って、そのあとどうなった? もうドンパチやってる頃だろ。仲間の連中はどうだ。情報通り焼却隊は来たんだろうな。あのホイールマンを言い包めて重機関銃まで仕入れたんだ。へへ。今更『あれがガセで連中はバーベキューを楽しんでる』とか抜かしやがったら、お前ただじゃ……』
「全滅だ」
『……あ? 良く聞こえなかった。今なんて?』
「ホオジロは全滅だ。焼却隊は、銃じゃ始末できない。……戦車だ。戦車がいる」
『おい馬鹿いえ! 火器背負った30人で待ち伏せてんだぞ! 医療機関の警備10人如きにやられるわけあるか! しかも標的なんざまだ小便臭いガキじゃねえか!』
玄関から転び出た一人を視認。纏わりつく炎を必死に叩く生存者に最大倍率でピントを合わせた瞬間、額から血飛沫が弾ける。うつ伏せて痙攣する彼に歩み寄ったのはその『小便臭いガキ』で、その小さな足がめそめそと踏み始めたのは飛散している桃色の軟体――センジは嘔吐した。その汚らしい応答は何よりも雄弁で、モジは事態をようやく飲み込んだ。
『……マジかよ。……くそ! 今更手ぶらで帰れねえぞ! どうすんだよ畜生! おいセンジ何とかしろ! 別の手土産ぐらい持ち帰らねえと、俺ら全員ホイールマンにぶち殺されるぞ!』
センジは口の吐瀉物も拭わず手配書を手繰り寄せる。ホイールマンのシギタとかいうヤツに押し付けられた下手くそな似顔絵付だ。『EX相当:焼却隊のサイジョウ。天使、ポリ容器・注意』という意味不明なメモ書きごと似顔絵を破り捨て、オコリのように震える指でページを捲っていく。快楽殺人犯、連続放火魔、成り損ない逃亡者、轢き逃げ常習犯。こんな評価E以下の首は幾つ詰んでも話にならない。持参してもマイタニの発電所裏に裸で転がされるのがオチだ。否、そんなクズ首だって今日明日でどうにかなる話ではない。
「っはは……はははは……かか」
不思議な笑いが込み上げて来た。なんだか愉快だ。恐らく手配書を最後まで捲ったとき、己はこの狙撃銃M24の銃口を頬張って引鉄を引くのだろう。無線機の吐き出すモジの罵声がラップのようだ。ビートの代わりに鉛弾を撃ってやりたい。とうとう最後のページになり、手が止まった。最後に描かれていたのは赤毛女と黒髪女のペア。
『A相当:ヤマネコの賞金稼ぎハヤミ』『Cマイナス相当:同ヨシノ』。
――これだ。
センジは天啓を得たように空を仰いだ。あれは昼頃だ。『ヤマネコ』が通信設定をヘマして盗聴できた音声があった。『カイタ病院への物資調達』。そんな依頼を二人は請け負っていた。あれがガセでないなら、まさに今ここへと向かっているはずだ。
弾かれたように小型無線機を掴む。喚くモジを遮ってセンジは叫んだ。
「聞けモジ! クソッ垂れの神はまだ俺たちを見放しちゃいない! ハヤミとヨシノがやって来る! あのヤマネコの賞金稼ぎだ! 評価AとC! あいつらの目的地はカイタ病院だが車で行くにはこの道一本だ! ……良いか。残った俺達3人でやるぞ。これでホイールマンのユズリを説得する」
『……その情報、確かなんだろうな?』
「ああ絶対だ。それに、この時世にハイオクのツーシーター乗り回してるバカなんてあの二人ぐらいだ。来たら目をつぶってたってわかる。 ……いいか。運転席側は俺がこのM24で仕留める。お前とハライの二人は、残った助手席側の方を始末しろ。事故った車内で呻いてるはずだ。難しくない」
『……』
センジは返事を待たずに無線を切り、体内に凝った緊張を起死回生の一息と共に吐き出した。拍子に溢れ出てきた涙を拭い、無造作に寝かせていたカーキ色の狙撃銃を起こす。弾倉を取り出して砂ぼこりを払い、中を覗き込むと、7.62ミリNATO弾が鈍く光った。この一発だけは絶対に弾道を曲げない。サイジョウの中距離狙撃を想定し、弾頭にさえ入念にヤスリ掛けした。必ず狙った眉間に吸い込まれる。
弾倉を静かに戻してから丁寧にボルトを引く。一縷の望みが薬室へ送り込まれた。
――クソみたいな人生に、クソッ垂れの加護あれ。
センジは銃床の弾帯に挿していた注射器を引き抜くと、袖を捲って静脈を探る様にさすった。目定め、突き刺し、目を閉じて一呼吸。青い薬液を流し込む。身震いするようなドロっとした陶酔が不安も絶望も押し流した。
――もう大丈夫だ。
センジは酩酊に任せて狙撃準備を整えていく。思考は不要。全ては手足が覚えている。腹ばいとなって双眼鏡を手に索敵体制に入ってから、レンズが例のツーシーター――『淑女』を捉えたのは僅か15分後だった。まだカイタ病院には焼却隊の気配が残っている。この一発を外せば後がないし、手間取れば焼却隊が感知してここまで足を延ばしてくるだろう。つまりは千載一遇にして絶対絶命だ。シラフで平静など保っていられない。
センジは射撃装置になり切るべく心を麻酔し、小型無線機に短く伝える。
「来ぃたぞ、モジ。ハライにも伝えろ」
『……お前ヤってんな? まあいい了解だ。こっちも準備万端だ。予定通りいく。……ヘマすんなよ』
緊張で上ずったモジの声は耳に届いていない。センジは改めて銃把を握り直す。スコープを眼下に寄せ、自身の心音と呼吸音を聞きながらレンズを覗く。車は予測した経路をなぞっている。このコンディションなら距離200でマグカップを狙える。距離150を切れば動体であれヘッドショットなど造作もない。
有効射程の600に入った。深く息を吸って止めて脱力し、骨と地面を一体化させる。
焦らず十分に寄せる。
スコープの照準線は距離150で調整。仰角を加味しても素直に合わせればいい。
1秒、2秒、3秒。運転席の女がクロスラインに入ったと同時、引鉄を絞っていた。
衝撃と閃光。
反動で跳ねた視界のなか、フロントガラスに黒い血が跳ねた。制御を失った『淑女』は減速もせず電信柱へ突っ込み、長い鼻先を潰すように大破した。程なく、断末魔のようなクラクションが響いてきた。