0-1
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【午後2時】
キャンプ民に家畜という蔑称があるのは、課せられた労働にしくじれば『支給肉』として挽かれるという与太話のせいだ。しかしキャンプを追われた野盗が廃棄肉とさえ呼ばれないのは、その価値さえないからなのか――と、ヨリキは腰ベルトを緩めつつ自虐した。
「後がつかえてんだヨリキ! さっさとやれ! ……ああ、くそ」
猿のように盛ったハザキが鬱陶しいが、ヨリキはそれ以上に自分が腹立たしい。組み伏せた女にいまさら欲情できないこの惨めさは何なのか。この人形みたいな少女、何か怖気が引かないのだ。
少女を捕まえたのは路地裏で遺体漁りを済ませた帰りだった。手付かずのサントリーを片手に浮かれて例の廃病院を冷やかしに行ったら、その玄関でフラついていたのだ。廃ビルの陰から訝しんでいたら、コイツはめそめそと泣きながら何かを踏み潰していた。たぶん蟻か何かだろう。そして『パセリの政治』がどうとか意味不明な歌を口ずさんでいたようにも思う。とにかくイカれているのに間違いはなかった。
『おい。廃病院にナース着任だぜ。仕事は死亡確認のみってか』と笑って見逃すには、しかしヨリキもハザキも女に飢えていた。だから二人は頷き合って病院内に連れ込んだのだ。カイタ病院のヤバさは折り紙つきだが、だからこそ『手早くヤっちまえ』と。しかし組み敷いた途端、ヨリキは痒みさえ感じるほどの鳥肌が全身に沸き、その怖気にすぐんでしまったのだ。
一体何なんだよと、この端正な顔に魅入られている内、一つの異常に気付いた。
――汚れていない。
真っ白だ、否、清潔なのだ。それは野良暮らしで久しく忘れていた衛生感覚だった。押し倒した時の煤け以外、彼女には汚れが一つも見当たらない。それどころか消毒液の甘みさえ鼻につく。止まらぬ怖気の理由がそれだと気付いたとき、爪垢の噴き出たハザキの手が肩を掴んできた。
「ヨリキ! さっきからタラタラしやがってぶち殺すぞ! 自慢の『銃』が使えねえんなら――」
爆風で世界が割れた。
剥き出しの石膏壁で身体が鞠のように弾み、背筋を鋭い痺れが走る。世界から音が消え、視界が暗く濁った。ヨリキは肺の奥で息が詰まったと理解し、意識して胸を上下させる。痛みと苦みを伴って回復する感覚。そこへ意識を集中させつつ、まだ滲んでいる世界を必死に見渡した。
黒と赤が混ざっている。煙と炎だ。そして熱。瓦礫が一帯を埋め尽くし、舞い上がった埃を炙るように火の粉が舞っている。
「……。くそ。なんの、爆発だ。古いガス管でも……残ってやがったか」
ハザキが呻き、ヨリキは頭を抑えた。まだ耳鳴りと眩暈が酷い。頭が割れそうだ。ぶれる視界を正したいが、出来ることが思いつかない。それでも、腰の銃把を強く握りながら、何とか立ち上がった。
受付跡の壁が黒く爆ぜている。
そこから吹き込む風はヒリつくほどの熱気を孕み、埃っぽい喉に染みて咳き込んだ。乾く目を瞬かせながら奥を覗くと、炎の海が揺らめいている。まるで巨大な焼却炉のようだ。
炎の滾る音に瓦礫の軋む音が紛れる。
崩落が始まったかと身が竦んだが、違う。何か巨大な塊が炎を掻き分けてきたのだ。その輪郭はそして、人型だった。
断続的な低音に頭蓋が震える。室外機の駆動を想起させるそれは、しかし極度に大型化された機械式酸素ボンベの呼吸音だった。
程なく『それ』は現れた。
機械の怪物か、はたまた潜水服の化け物か。3m半ばにも迫ろうかという巨躯に息を呑む。全身を覆う分厚い金属装甲、そこに穿たれた弾痕と焦げは激戦と歴戦を物語り、グローブのような手が握った盾付火炎放射器は、敵対者の運命を端的に示している。しかし何よりも、その。球面の金属マスクに荒く描かれた赤い十字マークこそ、その象徴だった。
「おいおいおい焼却隊とか冗談だろ!」
ハザキは悲鳴のような声をあげて護身用のサブマシンガンM10を掃射した。閃光が乱舞し、減音器付の銃口がガスを噴き出すような発射音をたてる。バラけた弾が全身に激しい火花を散らせたが、怪物は微動だにしない。弾倉は2秒を待たず空になり、ハザキは薬莢の転がる音を聞きながら立ち尽くした。
我に返ったヨリキも銃を引き抜き、「吹っ飛べ!」と半ば懇願するようにその大口径のリボルバーを発砲した。爆音を伴って銃口が跳ね、強烈な反動を制御できず横倒しになる。防弾ベストさえ貫く破壊力が怪物のマスクを穿ったが、その効果は首を傾げさせただけだった。
――ヒグマも仕留める50口径だぞ……。
怪物が一歩を踏み出したとき、初めて少女が声を発した。
「お願い。ころさないで」
甘やかな声を二人が振り返ると、ハザキの側頭部からパチンと鮮血が散る。
膝を折って崩れ落ちた彼――その頭、こめかみより吐かれた脳漿をヨリキは浴びたが、彼が釘付けになったのはその向こうだった。赤く染まった視界の奥、仰向けに寝たままの少女。その小さな手に銃が握られていたのだ。いつの間に、とさえ思えない。ただその渦巻いた瞳がこちらを向いていて、その口が三日月みたいに笑っていて――そこから目線を外せなかった。
『びちゃり』と唐突に視界が濡れた。
直後、顔の生皮を剥ぎ取るような激痛が襲い、ヨリキは横転して悶絶した。痛みから逃れんと掻き毟った瞼や頬が薄皮のようにめくれていく。指の隙間で酸が弾けて白煙が昇る。
「あああぁぁああ!!! あっぐうううう!!っっがああああああああ!!」
悶えるヨリキの絶叫には少女の狂笑が混ざっていた。