第九章 城壁のエメライガー
ギガードンはゆっくりと立ち上がった。
南西第三区、クレーターの中に沈む翠の巨人は、ひび割れたアイラインの光が消えて完全に沈黙してしまった。例え起動していたとしても、千切れた左足を再接続しない限りは立ち上がることはできないだろう。大怪獣はしばらく宿敵を見つめていたが、やがて興味を失った。
騎士を失った剥き出しの城に向かって鏡界獣と言う名の侵略者が迫る。一歩、また一歩近づく度に重く低い地響きがした。戦いの最中だというのに悠然と歩く大怪獣の姿を見て、皆声を失っている。
オペレーションルームのある研究所本棟は特別頑丈に作られており、尻尾の直撃を免れたこともあって大きく揺れる程度で済んだ。先ほどケイゴの呼びかけに応えられなかったのは、強い衝撃に一時的に通信機能障害を起こしたせいだ。死傷者が出なかったのは幸いであるが、楽観視できる状況ではなかった。
「もう勝ったつもりなのか」
カツムラは歯噛みする。負けを認めてはならないと分かっていても、肝心の心は折れて諦めかけている。
「通信機能、復旧します!」
「ケイゴ、返事をしろ!」
タツローが必死に叫んでも返事はない。もしかして、と最悪な想像が頭をよぎるが、諦めきれないタツローは何度も彼の名を叫び続けた。
「志村君……」
タチバナも友人を想い、しかし無情な現実を受け入れようとする。
三機の特機の中でも段違いに装甲が厚い城壁型特機翠の巨人でもあの鏡界獣の攻撃を耐えきることができなかった。それだけギガードンの強さは規格外なのだ。むしろ、彼はよくやってくれた。彼でなくては、ここまで長く時間を稼げなかったはずだ。彼だけではなく、イシガミも、カツムラも、オペレーションルームの皆や整備士たち、一般人のタツローの声援も心強く、全ての人員が本当によく戦った。
(……せめて、彼等を犠牲にしてはならない)
上に立つものとしての責務を思い、司令官は意を決する。
「総員、研究所からの脱出を命じます」
司令官の決断に部下は動揺を隠せなかった。そんな彼等を制するために言葉を続ける。
「この研究所を放棄します。優秀な皆さんを、巻き添えにはしません」
「待てよ、お前はどうするんだ」
タツローの問いに彼女は目を伏せる。
「限界まで引き付けて、砕力集中光撃砲で相打ちを狙います」
ギガードンの隙を突く作戦はケイゴが遺してくれた唯一の活路だ。だが、翠の巨人が倒れた以上、この研究所本棟を囮にすることをおいて他に隙を作る手段は無い。
「馬鹿か、死ぬつもりかよ。ビームの装填は終わって無いんだろ」
当然の指摘を受けてもタチバナは黙って俯いたまま、ぎゅっ、と下唇を噛んだ。タツローは、悲壮な覚悟を背負う彼女が痛々しく、とても見て居られないと思った。
「……お前の親父は」
「お父さんは関係ありません!」
少女は、叫ぶことで父への言及を拒絶した。これにはタツローも目を見開いて動きを止める。他の者も身動きを取れず、ほんの一瞬時間が止まったようだった。
ずしぃ……ん。
迫る怪獣の足音が、会話の一拍の空白を埋める。
タチバナは、追い詰められるとつい叫んでしまう、未熟な心を最後まで変えられなかったと己を恥じる。だが、この決断を覆すことは絶対にしない。何があっても決断することから逃げ出さない。その一点にかけてのみ世界一の頑固者だった。
司令官は再度通告を行う。
「私が、私であるための、義務です。これだけは譲れない。……早く退室してください」
悲痛な、おそらく最期になるであろう彼女の指示に、部下たちは困惑を極める。タツローも何か口を動かして喋ろうとしていたが、上手く言葉が纏まらない。そうするうちに、ギガードンは接近を続けて……。
『どこに行くんだよ』
静かな声が響いて皆が顔を上げた。モニターに映し出される映像の中で、翠の光がギガードンに襲い掛かっている!
ぐぎゃあああっ! ギガードンが悲鳴を上げた! 首筋に突き立てられたイクシードスパイクが、光を纏っている!
「志村君っ!?」
「ケイゴォ! 無事だったのかよ」
友人たちが彼の無事を喜び、口々に名前を呼ぶ。オペレーションルームの仲間達も切り札の復活に喜び活気を取り戻すが、カツムラだけは違和感を覚えて翠の巨人を凝視していた。
翠の巨人は左足が切断されていたはず。志村ケイゴが無事なのは喜ばしいが、何故翠の巨人が立って動いている?
突き刺されたイクシードスパイクを引きはがそうとギガードンは暴れている。しかし、背後からの奇襲に前回のような拳や蹴りの連打はできず難儀していた。それでも身体を揺するだけで相当な力が翠の巨人を振り回す。
「てあっ!」
暴れて引きはがされる前にダメージを稼ぐ。そう考えたケイゴは、突き刺した針で身体を引き裂くように硬い表皮を広く傷つける。そして、第六感で反撃を予知。背中のブーストと足裏、肘のスラスターを吹かすことで巨体を浮かせて、回転尻尾攻撃を回避した!
ぶぅん! 空ぶった尻尾が空気を揺らす。余波で発生した風が土埃を巻き上げ、風圧に耐えられなかった設置物が宙を舞い、また風の勢いでガラスを割った。高く浮いた翠の巨人は手刀を繰り出し、ギガードンの角を砕く。大きく怯んだところに膝関節のスラスターを活用して勢いを増した蹴りを入れて、ギガードンを大きく突き放した。
翠の巨人は挙動を切り替える度、関節部のスラスターをうまく使って空中での連続攻撃を成功させている。以前と比べて格段に向上した機動力にカツムラが驚きの声を上げた。
「肘と膝関節にスラスターだと!? そんなもの、設計されていない」
昨日の戦いの最後、ギガードンを強引に投げ飛ばした時は背中のブーストと足裏のスラスターで推進力を得ていた。当時はあの二つが翠の巨人の加速装置で、そもそも装甲重視で余分な隙間を減らしたい翠の巨人に姿勢制御用のスラスターを組み込む余裕はなく、少なくともカツムラの引いた設計図にその想定はない。
「なんか、形違くねえか?」
「負傷も治っている?」
タツローとタチバナの声を立て続けに聴いて、カツムラは翠の巨人をさらに観察する。西洋兜の様な頭部装甲は兜が割れて中に人型の顔を覗かせるデザインとなり、正しく翠の巨人の様になっている。基本的なカラーが翠色なのは変わっていないが、アイラインの橙色はより太陽の光に近い山吹色になり、全身の所々に同色のラインが見えた。丸みを帯びていたショルダーアーマーは収縮し、角ばった無駄のないフォルムになっている。それ以外の各所も、原形を留めつつ全体的に引き締まった印象を受けた。
また、切断されたはずの左足を含め、受けたはずのダメージも完全に回復している。最初からその形で加工された金属たちが、正しい在り方で寄り集まり、再構築することで新たなロボットを完成させているようだった。
この異常な変化を前にカツムラはある事象に思い至る。
「自動修復に変形機構だと?」
「知っているんですか、カツムラさん」
慎重に頷く。昨夜目撃した翠の巨人の自動修復現象。だが、今回はその速度が違いすぎるし、何よりその在り方まで変えてしまっている。これでは、まるでかの英雄の愛機、凱戦機と同じだ。
思案顔で黙り込んだ後、話せる範囲の考察を少しずつ話す。
「翠の巨人達特機には『砕力変換機』が組み込まれています。星の啓示を得た者の意思に反応して大気中のナノエーテルを砕力として変換、放出するための装置ですが、それが予想を超えた反応を見せているとしか」
「よく分かんねえけど、ケイゴの気合がマシンにも伝わったってことだろ!?」
長くなりそうな解説をぶった切って、タツローが独自のまとめを言い放った。雑な要約にカツムラはやや不服である。
ギガードンは、生まれ変わった翠の巨人だったロボットを睨みつけている。様子の変わった宿敵を見て、更に警戒心を強めているようだ。翠の機体はファイティングポーズをとったまま隙を見せない。
『よそ見するなよ。生まれ変わった翠の巨人から。……いいや。今からこのロボットの名前は、『翠の城壁』だ!』
ケイゴの名乗りに応えるように、山吹色のアイラインが発光する。そう、翠の城壁は操縦者の意思を反映し、自らその在り方を変えることができるロボットなのだ!
「翠の城壁!? イイ名前……」
観測士がうっとりとした声を漏らした。彼女は鏡界獣が出現する度、個体を識別するため即座に名前を付けていた。特にそう言った取り決めは無かったが、特に異論を唱える者も居なかったので命名は彼女の役目、といった風潮になっていたのである。今回の翠の巨人の変化についても内心違う名前を考えていたが、操縦者の意思に従うだろう。
「志村君、戦えますか」
理解を越えた進化、それは懸念材料になりえる。だが、タチバナの問いは仲間への心配の声掛けでもあり、期待を込めた意思の疎通でもあった。その証拠に、彼女は眉を下げつつも、不器用なりに口角を上げて強がりを見せている。
『もちろん。……心配かけて悪かった』
返答の最期に付け加えられたのは短い謝罪だ。溜めて言われたことで昨日の「よろしく」と違い、心が籠っているように感じられる。タチバナは驚きのあまり目を見開いて、同じくあんぐりと口を開けているタツローと顔を見合わせた。
「あ、謝った!」
「あの志村ケイゴが!? 心配をかけたことを!?」
あの、「俺の事は心配するだけ無駄」「お前に興味なんかない」「さあ」などと言わんばかりに周囲と壁を作り続けていた志村ケイゴが、自ら罪悪感を覚えて謝罪するとは。あの男の性格上、建前だけの謝罪とは思えない。二人は全身がくすぐったい感覚を覚え、落ち着かない衝動に駆られていた。手を取り合い軽く飛び跳ねる等して感情を表現している。
「進化したのは機体だけではないようだ」
カツムラが眼鏡のズレを指先で戻す。レンズが逆光して目元は見えないが、口元は僅かに綻んでいた。彼を案じていたのは何も友達だけではない。
ぎゃぁおおおお! 【いつまで浮かれている!】……とでも言いたげな、鏡界獣の咆哮。そう、勝った気になるのは早すぎる。背中の傷も、前面のヒビも致命傷には程遠い。進化した翠の城壁と、防衛兵器。そして、自分の心と向き直った志村ケイゴ、彼を支える研究所の仲間達と、親友。ここにあるすべての力を合わせなくては、ギガードンに勝つことはできない。そんなことはこの場の誰もが痛いほどわかっていた。だが、それが不可能なことだとは、誰も思っていなかった!
ケイゴは口元を緩めて呟く。
『さあ』
唐突に彼が口癖を漏らし、この場の誰もが固唾を呑んだ。皆、この口癖が苦手だった。彼はこの言葉を使って、他者の自分に対する理解を、無関心という態度で拒絶し続けていた。自分に関心を持っても意味がない、そう他人に、自分に言い聞かせてきた。
だが、今は。誰かが自分を理解しようとしている。同じ痛みを共感できる仲間が、どんな時でも応援してくれる友達がいる。そんな当たり前のことを、ようやく知ったから。
もう他人事では居られない。心が死んだふりを辞める時、志村ケイゴは息を深く吸って、喉を震わせた!
『さあ、ぶちかまそうぜ。みんなァ!』
叫びと共にレバーを操作し、翠の城壁は肩で風を切る! 走り出した翠の城壁を見送るオペレーションルームは、歓喜の声で震えていた! 拒絶と無関心を意味する彼の口癖は、今、仲間への同調を呼びかける音頭へと昇華された!
勢いのまま踏み込んで殴り掛かった拳をギガードンは回避できなかった。胸へ命中、大きくよろめいたところへ追撃の拳を顔面に叩き込む。さらに大きく怯んだギガードンだったが、そのよろめきを生かして首を振り回し、まるでハンマーのように叩きつける。それに対して翠の城壁は、衝撃の予感を頼りに両肘のシールドで防御姿勢を取って真正面から攻撃を受け止めた! その衝撃によって鋼鉄の体が宙を浮くが、スラスターの制御により着地を安全に行う。それでも重量を受け止める地面から土が浮き、「とまれ」の標識が眼前に飛び出した。標識を無視して走り出すと、ギガードンの姿勢が僅かに腰を落として沈んでいる事に気が付く。
次の瞬間、ギガードンが姿を消した!
「ギガードンが消えた!?」
「翠の城壁もだ!」
騒然とするオペレーションルーム。しかし、タチバナだけは彼らのいる上空を見上げていた。
「上です!」
ギガードンは驚愕する。跳躍からのしかかりを企んだが、同じく上空に跳び上がってきた翠の城壁の顔面が目の前にあった!
「同じ手を喰うかよ」
迎撃するために繰り出した爪をかわし、翠の城壁は左腕を伸ばす! 左拳を顔面に叩きこむと、大きく開いた口に食べられてしまった。しかし、それが狙いだ。
「喰らうのはお前だ」
そのまま背中のブースターの推進力で制空権を得て、喉奥に突っ込んだ拳を地面に叩きつけるように落ちていく。二つの巨体によって生じる衝撃が地を割った!
鋼鉄の拳が強靭な大怪獣の身体を割ることは無い。だが、砕力は違う。左拳が変形して口の中で砲台を作る。ギガードンは激しく体をもがき、顎に力を入れて噛み砕こうとするが、相手が城壁の名を持つスーパーロボットでは分が悪い。
「リバース・ショット・マイナスバースト!」
ゼロ距離を通り越した内側、マイナス距離からの射撃。口腔内に砕力の塊を叩き込むと、体内で爆発を起こす! ギガードンは悶え、悲鳴を上げた!
「くたばれ!」
翠の城壁の出力は以前よりも上がっている。数発しか放てなかった翠の巨人と異なり、その気になれば更なる連射も可能だ。だが、それは意図せず中断されることになる。悶えていたギガードンが動きを止めると、翠の城壁を睨みつけた。
「こ、これはっ!?」
唐突な衝撃の予感にケイゴは驚いた。予知から衝撃までのラグが短い。かわせないことが分かったが、その発生源が異常だ。
かぁっ! ギガードンの喉奥が赤く光ると、口から放射される熱線が翠の城壁を吹き飛ばした!
ダメージにより発生した火花を派手に散らしながら後退り、成す術なく街に倒れ込む。状態を確認すると、ギガードンの口に突っ込んでいた左拳が消し飛んでいた。左手首には熱による焦げ跡だけが残されている。
「再生しない?」
さきほどの打撃によるダメージは修復できたのに、この熱線によるダメージは修復されない。修復にも何かルールがあるのだろうか。都合が良かったとはいえ、未知の現象であることは変わらない。
「熱線内に砕力を確認!」
観測士が驚きの声を叫んだ。カツムラは口元を手で覆い思案する。それからぽつり、ぽつりと現状の把握のために言葉を紡いでいった。
「リバース・ショットで砕力を体内に撃ち込まれたギガードンが、それを足掛かりに砕力を伴う攻撃を返してきたのかもしれません。火炎放射や火球による攻撃は以前から見られましたし、砕力集中光撃砲を真似したこともあります。それらを合わせることで、より強力な攻撃を生み出しているのかも知れない」
そこまで話を聞いて、タチバナも持論を話す。
「志村君はギガードンが翠の巨人に対して強い殺意を向けていた、と証言していました。ギガードンは翠の巨人ただの障害物としてだけではなく、その進化を予見していたのかもしれません。本来対物攻撃力に劣る砕力集中光撃砲を研究所に使用したのは、翠の城壁が会得する可能性があった再生能力に対する対抗策を練習していたのかも」
「ぐだぐだ言ってる場合かよ、結局どうすんだ!」
二人が考察を話しあっていると、タツローが痺れを切らして叫んだ。副司令官は自分の背の高さを生かして少年を見下す。
「そのための話し合いをしているんだ。馬鹿は引っ込んでいろ」
「んだと、コノ悪野郎!」
「喧嘩しないで!」
女性司令官の叫びに男二人は肩を跳ね、動きを揃えて彼女を見つめた。司令官はそんな二人を黙らせて、前線の仲間に指示を出す。
「志村君、聞こえますか。熱線に含まれる砕力が翠の城壁の再生能力を奪っている可能性があります。青白いビームも同様に砕力を含んだ攻撃です。絶対に当たってはいけません」
『了解。……余計な攻撃をしてしまったな』
リバース・ショット・マイナスバーストは効果的な攻撃だと思われただけに、ケイゴは気落ちしているようだった。そんな彼のためにタチバナは言葉を付け加える。
「無理もありません。それだけ敵が強力、異質な存在だと再認識できました。引き続き貴方の奮戦を期待します」
ギガードンの強さを根拠にフォローする。敵の強さを最も理解しているケイゴにこそ、効果的な言葉がけだった。
「油断は禁物だな。ありがとう」
返答の末尾に付け加えられた短い感謝。低い、落ち着いた声は、タチバナの声掛けに彼が心の底から安堵し、そのことを感謝していることが伝わってくる。
タチバナとタツローはまた目を見開いて顔を見合わせた。
「お礼! 自分への気遣いにお礼を!」
「いやマジすげえって! 俺、いっつも『そうか』とか『フッ』で済まされるもん」
「司令、戦闘中です」
今回は副官の仲裁が入り、司令官は顔を赤らめる。
一方、ケイゴはスピーカー越しに聞こえる仲間たちのやり取りに心を癒されながらも、冷静に敵を観察している。立ち上がったギガードンの姿勢は前傾気味で、息切れするとともに肩を上下させ、開いた口から赤い血液が漏れている。身体の亀裂も残ったままだ。
左手を失ったのはかなりの痛手だが、こちらも間違いなく敵を追い詰めていると感じる。だが、敵もそれは気づいているはずだ。焦って仕掛ければ先ほどの様に手痛い反撃を喰らうかもしれない。
「あと一手。何か、きっかけがあれば。……うっ!」
勝利への期待と焦りを含んだ声が漏れる。
その時、額の傷が開いて流れた血が右目を濡らした。思わず目を瞑ってしまい、偶然にもギガードンが動き出したのはこの瞬間だった。あれだけ傷ついても敵の動きは俊敏で、反応に遅れたケイゴはその攻撃をかわせない。鋼鉄の身体に牙を撃ち立てると、装甲が牙を拒絶して火花が散った。怪獣の顎は下がろうとする翠の城壁を逃がさず右肩の一部を嚙み千切る。翠の金属でできた鎧片が飛び散り、剥き出しになった配線がスパークを起こして小規模の爆発を起こす。ケイゴはレバーにしがみついてうめき声をあげた。
なんとか距離を取る翠の城壁。すると、淡い緑色の光がケイゴから発せられ、続いて翠の城壁の全身が光り、光は破損個所に集中する。破損個所の周囲の金属が伸びてかさぶたの様に覆うと、やがて元の形へと復元する。生き物のような再生能力を見せる翠の城壁だが、ケイゴはコックピットの中で息を切らしたままだ。
「参ったな、俺が足手纏いか」
例え翠の城壁が不死不滅のスーパーロボットだとしても、その中に乗り込む人間がいる以上、無敵ではない。しかし、ギガードンの目にはその修復能力は驚異的に映った。熱線やビーム以外の攻撃は修復される。一方で、敵の攻撃は修復できない。今までの優位性が崩れたことに気が付いたのだ。
第一区にいる翠の城壁を睨み、ギガードンは第二区にて動きを止めている。気づけば大怪獣は長考に入っていた。本能のままに暴れるだけの存在だった鏡界獣が、敵の強さを考慮して戦略を練っている。これは異常であり、明確な殺意に続き知性と理性までも手に入れようとしていた。
ケイゴも不用意な攻撃は控えている。体力的にも長期戦は辛い。格闘戦に持ち込むとしたら、砕力集中光撃砲の援護が受けられるタイミングがベストだ。だが、充填はまだ済んでいない。お互いが時間を欲し、膠着状態に陥る。極限の緊張感で行われる命の駆け引きだった。
春の風が吹いて街路樹を揺らした。二つの巨体のちょうど間に位置するこの桜の木は、桜色の花びらを散らしてギガードンの足元に吹き付けた。その時、ギガードンは口を大きく開いた!
火球か、熱線か。どちらにせよ、先に潰す!
「ショルダー・キャノン!」
翠の城壁の両肩に出現した砲台が砲撃を行う。左が外れて、右の一発が命中。ギガードンは体勢を崩しながら白い火球を吐き出した。
火球攻撃は第六感に反応しない。火球は炎の熱による攻撃であり、物理的な接触による衝撃を発生させないからだ。だから、その攻撃の命中予測は目視で行うしかない。
砲撃の甲斐あってか、火球のコースは外れて翠の城壁には当たらない。だが、その進路に気付いた時、ケイゴは翠の城壁を全力で走らせた!
『火球が来ます!』
火球の着弾地点はタチバナ達がいる研究所本棟だった。ギリギリのところで間に滑るように割り込むと、翠の城壁の全身を炎が包んだ!
「うお、くぁああ!」
装甲は隙間なくコックピットを守っているが、それでも浸透する熱がケイゴの命を追い詰めた。また、装甲自体も激しい火傷を負い、ダメージを受け続けているせいなのか再生能力を発揮できない。
『ケイゴォ!』
タツローの叫びが耳に届く。俺が倒れたら、次はアイツ等が狙われる。焦りが炎と混ざってケイゴの情緒をかき乱す、その時だった!
『集中光撃砲、装填完了!』
オペレーターの声にケイゴは炎の中で目を見開いた!
「タチバナさん、撃て!」
『しかし!』
「いいから早く!」
翠の城壁は炎の中で身を護る姿勢をとったまま、僅かに第一区方面へと移動した。火球は機体の移動に沿って追従し、高熱で翠の城壁を追い詰め続ける。身動きが取れない様子の宿敵に向かって、ギガードンは必殺技の予備動作に入った。天高く伸びた首の根元に赤い光が浮かび、それが少しずつ上がっていく。また、首元の角がプラズマを発生させ、エネルギーを溜めていた。
僅かに移動した翠の城壁と予備動作に入った敵の様子を見て、タチバナは彼の作戦を理解した。案ずる気持ちを必死に堪え、信頼を根拠に意を決する。
「集中光撃砲発射用意」
「了解、砕力集中光撃砲発射用意!」
攻撃担当が号令を復唱しつつ、記号の入力を行った。研究所本棟の前面、高さの中腹辺りが開き、正面に向けて見慣れた砲台が現れる。続いて、その上、右下、左下にそれを囲むように、細長い、先端に球のついた鉄の柱のようなものが、何時も通り伸びていく。
「おい、ケイゴは」
タツローが不安を隠し切れず、弱気な声を漏らす。しかし、司令官の決断は揺るがない。
「彼に死ぬつもりはありません。……これが最善です」
迷いが無いわけではない。けど、何かを諦めたり、妥協した選択ではないと胸を張って言える。何より、彼はもう死にたがりの真似事はしないと信じているから。そんな思いが伝わってタツローも頷いた。
その時、赤と白の光がモニターを真横に貫く! ギガードンの口から放たれた熱線が、双角を二極としたプラズマの伝導線を通過することで熱光線と化し、翠の城壁に襲い掛かった!
激突の直前に翠の城壁が動く!
『エメラルド・ランパード!』
両の肘に備え付けられた盾を連結し、拡張する。底を杭として地面に打ち付けると、変形により発生した風圧が全身を包む炎を吹き飛ばす。翠の城壁は、自身が真に城壁となって全ての攻撃を防ぐ完全防御形態を取った!
そこへ、炎と砕力、両方の特性を備えた熱光線が翠の城壁にぶち当たる! 知性を手に入れた上で本能に従い破壊を行う大怪獣の最強の攻撃と、使命に目覚め絶対の守護者足らん者の最高の防御、その最後の戦いだった!
拮抗する両者。しかし、衝撃に押され、地面に突き刺した盾ごと翠の城壁が後ろに押され始める。また、直撃を受け続ける盾も溶けるように形を崩し始めた!
「負けるなよ、翠の城壁。俺達で皆を守るんだ……!」
すると、ケイゴの決意に応えるようにアイラインが眩しく山吹の光を輝かせ、淡い翠の光が薄い膜の様に全身を包みこむ。ギガードンが使用したバリアーに似たこの現象は、熱光線の威力を削減する作用があった。具体的には、熱光線に含まれる砕力を削いで、機体にぶつかる直前に通常の熱線に戻してしまうのだ。これにより防御力を増した翠の城壁は体勢を立て直していく。
すると、離れない翠の城壁の代わりに、踏ん張りがきかなくなってきたのはギガードンの方だった。熱光線の反動で巨体が少しずつ後退していく。しかし、勢いはいまだ衰えを知らない。
「砲撃手!」
タチバナの焦る声に、砲撃手は待ってましたと言わんばかりにゴーグルをかけて狙いを定める。
「測的完了、左に四度、上に二度修正!」
「集中光撃砲、発射!」
「発射ーっ!」
砲撃手が、復唱と共に大きなボタンに力強い拳を叩きつけた!
砲台の周囲の三柱が電力を帯び、やがてプラズマが発生する。それらは互いに伝導線を導きあい、中心にエネルギーが溜まった。そこへ、砲台を通して砕力を放射してやるとどうなるか。プラズマを取り込んだビームは、威力を数十倍に増幅して、解き放つ!
ぎゅぉおおおん! 青白いビームが黒い巨体に吸い込まれるように伸びていく。ビームの接近に気が付いて黒い瞳が大きく見開いた!
っぴがぁあん! 無防備な横腹に三度集中光撃砲が命中! ギガードンはたまらず悲鳴を上げ、熱光線を中断した!
翠の城壁は炎と光線から解放される。コックピットの中、熱と疲労で朦朧としながらも、ケイゴはモニターを見つめた。
「……まだ……」
完全に不意を突いた一撃、バリアは間に合っていない。だが、掠れた声は、それでも決着がつかない予感を示していた。消え入りそうな意識を必死につなぎとめて、レバーを握る。両盾の連結を外そうとしたが、熱光線による盾の融解によりうまく元に戻すことができない。この盾を戻さないと、両腕は前面に突き出されたまま身動きが取れないというのに。
一方、集中光撃砲をその身で受けて押し返されていくギガードン。しかし、両足、尻尾で地に踏みとどまると、研究所本棟を睨みつける。そして、青白い光を身に纏い始めた。バリアーだ!
「馬鹿な、まだ耐えるのか」
「なんとかならねぇのかよ!?」
カツムラ、タツローはここにきて息が合っている。タチバナも脳内では同じことを思いつつ、しかし打開策が浮かばない。ここで押し切らねば次もないだろう。何か、誰か……。
機体、パイロット共に限界の翠の城壁、全てを使い果たしてしまいそうな防衛兵器。倒れていった起動兵器たち。最早、取れる手が無い。
「あと一手なのに」
司令官の悔恨を聞いて、誰もがこれまでかと諦めかけた。
ぴこん。
モニターに表示される戦闘マップ上に、研究所所属機体のアイコンが唐突に現れる。位置は北西、研究所第一区の訓練場及び地下ドッグ出口から飛び出した機体は、流星、と呼ぶには少しゆっくり、それでも最大戦速で真っすぐ北上していく。
「あの機体は!?」
登録パイロットデータ、識別番号なし。機体名、RT-5。訓練用の機体は、研究所第一区西の端、壁に体を沈めて眠っている前任者から武器を拾い上げる。
『まさか』
ケイゴも時を同じくして乱入者の存在に気が付いて、思わず口角を上げた。一方、ギガードンはその存在に気付かない。彼の巨体の半分にも満たない矮小な虫けらに、気を裂くほどの余裕は無かった。今は、この光線を防ぎ、宿敵との決着をつける事。それが、自分の全てだと思った。
……その奢りが、この男の執念を燃やす!
『イクシードナイフ!』
イシガミは叫んだ! バリアの内側に難なく接近した練習機は、正式採用された量産機から受け継いだ最新武器を手に左膝を切り裂く! 鉄の短剣は、ギガードンのバリアに似た青白い光を纏っていた!
今回は左、以前は右、両方の膝を傷つけられて体勢を崩し、その瞬間バリアが弱まった。驚きのあまり目を見開くと、視線がようやくそのちっぽけな存在を捉えた。しかし、もう遅い!
『借りは返したぜ、大怪獣』
別れの挨拶を一方的に投げかけ、正規軍のエースは油断なく離脱を図る。足元をうろついて、また外壁まで蹴り飛ばされるのはまっぴらごめんだった。
「出力最大!」
バリアが弱まった絶好の機会を逃さず、タチバナの号令が飛ぶ!
「了解、出力最大ーっ!」
砲撃手は、赤いレバーを一気に最大まで押し込んだ。ビームは呼応するように一瞬唸ったかと思うと、さらに勢いを増した!
「いっけーっ!!」
拳を掲げるタツローの声援に応えるように、ビームはバリアーの防御力を超えて大怪獣を飲み込んだ!
ギガードンの巨体が崩壊していく。二度集中光撃砲に耐え、イシガミを歯牙にもかけず、翠の巨人さえ一度は倒した恐るべき強敵。奴は最後に、やはり宿敵を見た。
山吹色のアイラインを通して、ケイゴは宿敵と目が合う。黒い瞳は何を物語っているのか。今度ばかりは、ケイゴにもそれがわからなかった。だが、この胸の内に湧き上がる思いは、脅威にさらされ、傷つけられて尚、憎しみではなかった。
「お前は強かった。だから俺も強くなれた。……ありがとう」
語り掛ける言葉は強者への畏怖であり、戦いを通して自分を成長させてくれた礼。せめて見送ることが、宿敵として認められた人間の務めだとケイゴは思った。
文明の破壊者の呼び名に相応しい大怪獣。ギガードンは最後まで宿敵を見つめたまま、光の中へ消えていった。限界までエネルギーを使い果たしたビームも徐々に細くなり、最後はプラズマの残滓を残す。
恐るべき鏡界獣の壮絶な最期に皆が息を忘れて見守り、そんな脅威を打倒した実感が少しずつ湧いていく。昨日から続いた激戦は、あらゆるものを出し尽くしたまさしく総力戦。勝利と言う名の輝かしき戦果は皆の団結の賜物であり……。
最も早く正気に戻ったのはカツムラだった。緩んでいた表情が瞬時に強張っていく。
「……鏡ィ!」
そう、鏡である。鏡界獣をこの世界に映し出す鏡は今も空中に佇んだまま、沈黙を貫いている。ギガードンの存在感が強すぎて、巨大にもかかわらず気配を完全に消されていた。この鏡がある限り、次の鏡界獣がいつ押し寄せてきてもおかしくない。戦いの勝利とは、この鏡を打ち破って初めて得られるものだ。なにも落ち着いていい状態ではない。
「あっ、し、志村君!」
タチバナが慌てて指示を出す。慌てすぎて言葉が詰まり、具体性のない声掛けになってしまったが、その時には翠の城壁も動き出していた。
『わかってる!』
熱光線による損傷はやはり再生できない。結局、両盾の連結を解除することを諦めて、盾そのものの装着を解除した。腕パーツのつなぎ目に亀裂が入ると、がこんっ、と音がして肘の盾が外れた。これで多少身軽になる。主人に置いて行かれたボロボロの盾が哀愁を漂わせ、ようやく走り始めた少年の後姿を見送っていた。
傷だらけの翠の城壁は、各部に異常をきたしながらも懸命に走った。目指すは、翠の城壁の巨体をもってしても見上げる巨大な鏡。
射撃音がして、翠の城壁の足元が小爆発を起こした。見下ろすと、踏み込むつもりだった場所の建物、コンビニエンスストアが射撃により壊された。危うく転倒するところだったと肝を冷やす。
『へっ、気をつけろ。ド素人がよ』
RT-5は銃を下ろし、パイロットのイシガミは素人操縦を鼻で笑った。
(まったく、気を利かせやがって。俺がエースじゃなけりゃ助けてやれなかったぞ)
世話の焼ける切り札だ。口の悪さと裏腹に、借りを返したことで彼の心は軽やかだった。
『新たな鏡界獣を観測!』
『志村君、急いで!』
走る翠の城壁がついに鏡に近づいた。見上げると、既に鏡面に波紋が広がって、灰一色に染まっている。すると、鏡から大量の水が零れ始めた。
「水?」
足元に広がる水を見下ろす。水は勢いを増し、相当な力で翠の城壁を流そうとするが、鋼鉄の巨体はその重量でその場に立ち尽くしていた。水の勢いはさしたる脅威ではないと判断し、撃破を優先する。自身が放つ淡い光が翠の城壁に伝わって、エネルギーを右拳に集中させていく。
顔を上げて鏡と水に向き合った。鏡は翠の城壁を映して、ケイゴに激流の中に身を置いていることを自覚させる。水かさは増し、何時しか翠の城壁は渦の中に飲み込まれていく。
ケイゴは油断していた。トラウマはもう乗り越えたものだと思っていたし、こんな些細な重なり合いで蘇るものだとは思ってもいなかった。しかし、心の傷は治るものではなく、割り切ることができるようになるだけだ。きっかけさえあれば容易く傷は開くもので、年若い彼はまだそれを知らなかった。
過去の傷が脳を焼く。網膜に火花が散り、鼓膜の裏で恐怖が爆発した。無理もない。志村ケイゴにとって「水」と「鏡」は喪失の象徴なのだ。ケイゴはいつだって鏡を見ない。鏡の中の自分は、今でも涙を流していると思っている。自らの瞳が死んだはずの自分を捉えるのが、幽霊を見るようで恐ろしかった。
いつしか翠の城壁の動きは完全に止まってしまった。もし、彼が万能の超人で、他の追鎚を許さない孤高のヒーローだったなら、誰も彼を助けようとは思わないだろう。どんな困難も自らの意志で乗り越えられると信じられるからだ。しかし、彼は変わり者で、口下手で、無礼で、それでも目が離せない不思議な奴。決して完璧なヒーローではないが、だからこそ共に戦う仲間が、心を許せる親友が居る!
『落ち着け、ケイゴ! お前はもう大丈夫だ!』
「はっ!」
親友の力強い声援がケイゴの目を覚ました。既に水かさは翠の城壁の肩まで達している。だが、たった一度瞬きをすれば現実が見える。水かさはまだまだ膝にも達しておらず、翠の城壁は渦に飲まれてなんかいない。トラウマも幻覚もまとめて撥ね除けて、ケイゴはにやりと笑って見せた。
「ありがとな、タツロー」
鏡の奥、接近する巨大魚型鏡界獣は今にも鏡から飛び出しそうだった。だが、そんなことはケイゴと翠の城壁が許さない。背中のブーストと足裏のスラスターを吹かせば巨体が宙に浮き、水面に波紋を残した。今、飛び立つ巨体が鏡に向かって飛んで行く!
『お願いします、志村君!』
『いっけー! ケイゴ、エメライガー!』
タチバナとタツローの声援が轟く。それが何より心強い。友達が、仲間が自分をわかってくれる。恐怖を一人で抱えて生きる必要はない。過去から逃げるために、心を殺す必要はもうない。翠の城壁の瞳が太陽の光を放つとき、涙の渦を退ける。
……さあ、決着だ!
『エメラルド・ブレイク!』
伸ばした右腕、光り輝く拳が鏡にぶち当たる! 光が拳から鏡に伝わると、一瞬、翠の光が鏡に広がり、研究所含む一帯を眩く照らした。そして……。
ぴしっ。最初の亀裂が入った。それは瞬く間に広がって、大きな音と共に鏡は粉々に砕け散った! 無数の破片が宙を舞い、その全てが瞬きする間に空気に溶けて消えて行く。鏡から流れ込んでいた水は弾けて空中に舞い、空に虹をかける。翠の城壁がゆっくりと着地すると、取り残された水だけが残っていて、じゃぷん、と足底を浸からせた。
「鏡、撃破!」
観測士の歓喜の声を皮切りに、歓声が上がった! ある者は立ち上がり、ある者は隣の者とハイタッチ、または抱き合ってまで喜びを分かち合っている。砲撃手はゴーグルをやっと外して深いため息をついた。攻撃担当は防御担当の首元に手を回して抱き着いたが、それは後ろから首を絞める仕草に似ていて、彼の丸い顔を青くした。
「やったぜ、ケイゴォ!」
やはり、一際大きな声を上げたのはタツローだった。タチバナも隣で何度も頷いて、手を合わせて喜んでいた。
「ああもう、本当に! ……あっ、翠の城壁、帰還してください」
「また指示忘れてんな」
「す、すみません」
タツローに笑って指摘されて、タチバナは顔を赤くしながら頬をかいた。今までは失敗を過度に恐れていたが、その恐怖心も幾分薄れているようだ。カツムラはそんな彼女の成長を知り、穏やかな気持ちになった。
彼女の副官となり一年と少し経つ。それからずっと、彼女の決断に従ってきた。年若いからと言って妥協せず、時に決断を迫り、プレッシャーを与えてしまった事もあった。すべてがこの研究所にとって、ひいては人類にとって必要な戦いだった。とはいえ、罪悪感もある。そんな重圧を背負いながらも、投げ出さず、懸命に戦い続けてきた。その成長と、一時でも心穏やかな時が訪れたという事実が、この冷徹な男の仮面を少しだけ剥がし、ほろりと涙が浮かんで……。
「うい、カツムラのおっさん! やったな!」
でゅくし。感傷に浸っていた所を、喧しい少年が台無しにする。わき腹をつつかれて、身体が僅かに揺れた。それでも大人は余裕を見せ、無言を貫く。
「へいへい!」
でゅくしでゅくし。調子に乗ってつついていると、カツムラの額に青筋が浮かぶ。しかし、鋼の自制心が自分を律した。落ち着け、葛村宗次。40にもなって、こんな子供の悪戯に声を荒げる必要もあるまい。
でゅくし! ところが、反対側からつつかれて文字通り不意を突かれた。思わず身体がくの字に曲がっている。そのことが無性に腹立たしくて、ついにその細い手首を掴み上げた!
「いい加減にしろ、この」
見下ろす先、掴んだ手首の主は、金髪をぼさぼさにして目を見開いていた。怯えて首が座り、涙目で子犬の様に叱られるのを待つ少女。我らが司令官、立花涼香。16歳。
「ご、ごめんなさい……」
戯れが過ぎたことを反省し、行いを後悔しているようだ。消え入りそうな声で謝罪する。カツムラは、上官への無礼を働いてしまったこと、それ以上に他ならぬ彼女の奇行に困惑した。
(まさか、自分の意志でこんなタツローと同じレベルの悪戯を? あのタチバナ司令が?)
そう思うと、この堅物の男にはもう何が何だかわからなくなって。
「くくっ、くくくくく」
左手で彼女の手首を掴み上げたまま、もう片方の手で眼鏡を抑える。そのまま、肩を震わせ始めた。
「か、カツムラさん?」
「お、おい、おっさん。そんなに怒らなくても。俺がそそのかしたわけだし」
「くはははははは!」
顔色を窺う二人だったが、大声で笑いだしたカツムラに驚いて身を引いた。周囲の仲間たちも驚いて振り返っている。
「笑ってるだけかよっ、こえーっての!」
タツローの指摘も意に返さず、カツムラは笑い続ける。
「ククク……」
「だからこえーっての!」
「うふふっ」
不気味な笑い方がおかしくて、タチバナもまた笑ってしまった。タツローは脱力する。
「ケイゴ、聞こえてんだろ。早く帰ってきてくれ、収拾つかねえよぉ」
『了解。帰還する』
ゆっくりと仲間たちの元へと帰る翠の城壁。その途中で、腕を組んで待ち伏せしていた白い機体を見つける。RT-5、イシガミだ。
『どうだ。生きるための戦いは』
『怖かったよ。けど、悪くない』
『へっ。スカしやがって』
悪態をつき、RT-5も並んで歩き出す。背の高さもスペックも遥かに違う二体だったが、どちらが欠けても勝利を得ることはできなかっただろう。
『助けられた。ありがとう』
『勘違いすんな。俺は奴に借りを返しただけだ』
『そうか。……そうかな?』
『そうだよ!』
何か言いたげな疑惑を振り切るために、イシガミは食い気味に言い切った。
機動兵器達は大きな歩幅でゆっくりと仲間たちの元へ帰っていく。その背にはまだ高く昇る太陽と、奇跡が生んだ虹の橋が背景を彩っていた。
眠りにつくには、まだ早い。