序章 暗闇に眠る
ぐぉんっ、ガァーン! 空気を切り裂く重い音。装甲を砕く鈍い音。紅の輝きを纏う鋼鉄の大斧が、蜘蛛型鏡界獣大蜘蛛の胴を捉えた。
体長30メートルの大蜘蛛の断末魔が大気を揺らす。複眼の赤い光が消えてその巨体が第三区に落ちると、陰にあった道路や研究所第三棟が押しつぶされてしまった。自身よりも遥かに大きな鏡界獣を討伐したのは、20メートル級の二足歩行ロボット兵器赤い戦神だ。
獅子奮迅の活躍をした赤い戦神だったが、連戦に力尽きる。大蜘蛛が地上に落下した衝撃の余波に飛ばされて、燃える街の中で紅色の体を横たえた。
大蜘蛛の身体が光に溶けるように消滅していく。同時に、赤い戦神が握る大斧に宿っていた不思議な光も消えてしまった。斧の重さに引っ張られた鉄の右腕が嫌な音と共に外れて内部回路が露わになり、順に千切れて火花が散った。
そんな惨劇を映すのは、宙に浮く鏡だった。研究所敷地内南西部こと第三区に位置するこの鏡は、高さ2メートル地点から40メートルの高さがある巨大な鏡である。物言わぬ鏡は炎の中で力尽きた英雄をあざ笑うように見下ろした。
『リン! 応答してください、リン!』
機内スピーカーから響く声が応答を求めても、シートに沈む彼女の唇は動かない。光の無い瞳はまるで他人事のように、燃える街を眺めていた。
「紅い戦神、蒼い疾風、両機共に大破!」
オペレーターの悲鳴は主に司令官に向けられていた。彼女はこのオペレーションルームの中心、一段高い台に立って手すりを強く握っている。白と黒の軍服と胸元の勲章は彼女の階級と、とある特別な能力を示唆している。肩までかかる金髪の間に覗く顔はかなり童顔であり、実際に彼女は未成年だ。大げさな勲章も相まって、軍服に着られていると評されてもおかしくはない。だが、真剣そのもの、追い詰められている表情は眉間のしわが深いこともあり、年相応以上の険しさだった。
(まさか、これほどの規模の侵攻が行われるなんて。一体どうしたら……)
大きなモニターに映された紅と蒼の特殊搭乗者限定機体、通称特機の無残な姿に司令官の立花涼香は唇を噛んだ。
「司令、いかがいたしますか?」
声をかけられてハッとする。真剣な表情の部下達が、司令官の決断を聞き逃すまいと彼女に視線を集めていた。
緊張のあまり思わず息をのむ。乾いた口の中で必死に言葉を紡いだ。
「鏡の様子は!?」
「未だ健在!」
「集中光撃砲の照射を行い、直接鏡を破壊します」
「今回は鏡の位置が低すぎます! これでは、地面に倒れているとはいえ二機が巻き込まれる恐れがあります!」
「では、急いでパイロットを回収します。機体は多少巻き込まれても仕方がありません」
「それでは今後の防衛が」
「今はそれしかないんです!」
場が凍ったように静まり返った。タチバナは思わず叫んでしまった己の未熟さを恥じたが、それに気を取られる暇もない。
彼女は浅い息を吐く。
「至急通達してください」
動揺しながらも頷いた部下を見送って、深い溜息と共に椅子に座り込む。背中を丸めて俯くと髪が光を遮る幕になった。
暗闇の中でパイロット達を想う。二人は無事だろうか。返事がないのは通信系の不調のせいであってほしいが、これは明らかに楽観的な憶測であった。出撃前に元気に手を振ってくれた二人の姿が遠い昔に思える。もし二人が命を落としたら、それは未熟な司令官である私の――。
「新たな鏡界獣の出現を観測!」
いつしか両手で顔を覆っていたタチバナは、観測士の叫びを聞いて心落ち着く闇の中から苦難に満ちた光の世界へ視線を戻す。
皆が注目するのはモニターに映る鏡だ。この鏡は今から五時間ほど前に顕現し、計11体の鏡界獣をこの世界へと映し出している。
鏡界獣とは、巨大な鏡を通って現実世界に現れる怪獣である。その姿かたちは様々で、虫や動物を模した姿をしていることが多い。容姿や能力に大きな個体差があるが、共通しているのは文明を破壊する本能を持つこと。そして、通常の火薬兵器で駆除するのが極めて困難であることだ。唯一の弱点、『砕力』を用いた武器だけが、鏡界獣に致命傷を与えられる。大蜘蛛を倒した紅い戦神の大斧がその例だ。だが、強力な砕力兵器を扱う特機達は倒れてしまった……。
絶体絶命の危機に瀕した状況に皆が緊張し、鏡を観察している。すると、鏡面に波紋が広がった。
「き、来ます!」
タチバナ達がいる富士砕力研究所の本棟を映していた巨大鏡は、波紋が広がると同時に一面をグレーに塗り潰した。着色された鏡の向こうで、少しずつ何かの輪郭が浮かび上がる。小さく見えた丸い姿はこちらに近づくにつれ大きくなり、少しずつその姿がはっきりと見えるようになった。丸い背中に刻まれた横筋が縦に回ってこちら側に向かって近づいてくる。勢いそのまま鏡から飛び出した鏡界獣は丸めた体を空中で広げ、無数の足で着地して地に衝撃を奔らせた。黒い背中に黄金の斑紋があり、いくつもの体節が連なってできた体はまさしく巨大なダンゴムシだ。地を這う長い体は体長約20メートル級で、赤い戦神とほぼ同格の体長である。
「鏡界獣大団子襲来!」
観測士が即座に命名する。
一体どんな攻撃を仕掛けるのか、皆が身を硬くして動向を見守る。しかし、大団子はその場で静止。不気味な沈黙を守っていた。
「何故、襲ってこない?」
タチバナの後方に控えている副官の葛村が眉間にしわを寄せた。
「砕力集中光撃砲の充填は?」
「90%!」
「もう少しですね。モニター、鏡界獣を拡大」
モニターに大団子の姿が拡大して映し出される。身体からはみ出た前脚が無数に見えて少々グロテスクだ。静止した大団子は足を止めているが、頭部にある二本の触覚が左右に忙しなく動いていた。
「触覚で位置を探っている」
司令官の推測を聞いて部下たちは唾を呑んだ。
大団子がわずかに体の向きを調整して、まっすぐ研究所本棟を見た。後ろの足数本を支えにゆっくりと身体を起こし、20メートル級の巨体を直立させる。それから、いくつもある体節を動かし、前屈するように身体を曲げる。……いや、丸めていく。
タチバナは、この先起こりうる攻撃を予想して背筋を凍らせた。
「緊急障壁展開!」
「了解、緊急障壁展開!」
防御担当が六角形の大きなボタンを慌てて押し込むと、研究所本棟正面の地面が開いて巨大な鉄の壁が現れた。聳え立つ壁に阻まれて大半のモニターが視界を失う。敵の姿が見えなくなったことで皆が不安を強め、オペレーションルームはしん……と、静まり返った。隣の人間の鼓動が聞こえる、そんな錯覚すら覚えるほど張り詰めた空気は、幸か不幸かそう長く続かない。
ゴロゴロゴロ……! という地響きが研究所に接近している。その衝撃を予感してタチバナは叫んだ!
「衝撃に備えて!」
司令官の慌てた声に反応して各自手すりを掴んだり、頭を庇ったりして防御姿勢をとった。……次の瞬間!
どっかぁああ! 鼓膜を揺らす大きな破壊音と同時に視界が開かれたかと思うと、砕かれた鉄の壁の破片が本棟を襲った!
「うわあああっ!?」
激しい衝撃がオペレーションルームを大きく揺らし、悲鳴が上がった。幸い、人にも建物にも大きな被害はない。本棟は特別頑丈に作られていたこともその助けとなった。
大団子は体当たりを止められた反動で後転し体を伸ばす。その道中にあった建築物は行きと戻り、二度の圧殺につぶされて原形を失ってしまった。二機の前線機体が回転体当たりの軌道上から僅かに外れた位置に倒れていたのは不幸中の幸いである。
鉄の壁に体を打ち付けても大団子には傷一つない。背中は相当硬いようだが、それだけではないことを皆わかっていた。
「充填は!?」
「97%!」
「集中光撃砲、発射用意!」
「了解、集中光撃砲発射用意!」
攻撃担当が記号の入力を行った。研究所本棟の前面、高さのちょうど中腹が開いて鈍色の砲台が現れる。続いてその上、右下、左下に砲台を囲むように、細長い、先端に球のついた鉄の柱のようなものが伸びていった。三柱が電力を帯び、やがてプラズマを発生させる。それらは互いに伝導線を導きあい、三点の中心、砲台の前にエネルギーを溜める。
再び様子見に入った大団子が行動を起こさないことを祈りつつ、タチバナは焦る気持ちを抑えながら充填を示すゲージの上昇を待つ。今か今かと待ち焦がれ、ついに小気味の良い音と共に充填完了を知らせた!
「エネルギー充填、100%!」
「砲撃手!」
司令官の命を受け、電子ゴーグルをかけた砲撃手が敵と砲台の位置関係を計算する。彼は緊張のあまり、口は半開きで冷や汗をかいていた。
「測的完了、右に十度、下に二度修正!」
「集中光撃砲、発射!」
「は、発射っ……!」
砲撃手が復唱すると共に、大きなボタンに震える拳を叩きつけた!
三本の支柱の中心に溜まったエネルギーに向かって、砲台は砕力ビームを撃ちこむ。ビームはプラズマを取り込んで、威力を数十倍に増強して放たれた!
ぎゅぉおおおん!! 青白いビームがまっすぐ伸びていく。その危険性に気が付いた大団子が悲鳴を上げたが、砲口よりはるかに広がったビームはその悲鳴ごと鏡界獣を飲み込んでいく。そして、その奥に佇む鏡へとぶち当たった!
鏡に波紋が広がっていく。大きな水溜りに飲みこまれるように、ビームを吸収している……!
「だ、ダメなのか?」
「いいえ、行けます!」
誰かが漏らした弱音をタチバナは即座に否定する。鏡に広がる波紋はやがて小さくなって、完全に消えた次の瞬間、鏡面にヒビが入った!
「出力最大!」
「了解、出力最大!」
砲撃手が赤いレバーを押し込むと、ビームは唸るような音と共に一度大きくうねり、さらに勢いを増す。徐々に広がるヒビがダメージの蓄積を示し、やがて鏡は粉々に砕け散った!
宙を舞う鏡の破片は陽の光を反射して輝いたが、時間と共に空気中に消えて行く。その一欠片も地上には落ちて来なかった。
「うっ、撃ち方やめっ」
鏡を砕いた余韻に浸る間もなく、タチバナは慌てて砲撃手に指示を飛ばした。
「撃ち方やめ」
レバーを手前に倒すとビームは勢いを弱め、やがて消えた。砲台と三柱の柱も元の場所に引っ込んでいく。
(何とか撃退できた……)
ほっと息を吐いて椅子に座り込みそうになったが、モニターに映る力尽きた特機達が目に留まって慌てて立ち上がる。
「パイロットの二人は回収できましたか!?」
控えていた副官の男性が歩み寄り、端末を閲覧しながら口を開いた。
「既に搬送中です。両名とも能力の多用による疲労、及び外傷により意識不明。命に別状はないと思われますが、現状復帰の見込みはありません」
「そうですか……」
今度こそ椅子に座り込んで目を閉じる。しかし、副官は立ち去らず眼鏡に手を当てた。
「司令、続いて機体の報告を」
「あっ、は、はい。お願いします」
パイロットと同様に、時にはそれ以上に機体の状態は重要である。当然残っている報告の途中で気を緩ませてしまった事を恥じ、司令官は顔を赤くした。
「ビームの直撃は避けましたが、余波で発生したプラズマが機体を火傷させています。それ以前に鏡界獣との戦いで損傷激しく、パイロットが復帰できたとしても当面の間戦闘行動は不可能です」
傷ついた紅と蒼の特機を見る。両機体とパイロットの活躍がなければこの研究所はとうに壊滅していただろう。だが、彼女たちが倒れた今、誰がこの研究所を守るのか。仮に日本正規軍に協力を要請したとして、正規軍の量産機とパイロットに同じ働きが可能だろうか。そもそも、今の正規軍にそんな余裕があるのか?
先を思うと気が重くて思わず項垂れてしまう。疑問に対する結論を出すのに、そう時間はかからなかった。
「代わりが……」
無意識に呟いた彼女の声が周囲から音を奪った。部下に指示を出していた副官が振り返る。彼だけでなく、全ての部下が司令官の次の言葉に注目する。視線の矢が彼女の心を冷やし、垂れ落ちた金の前髪が瞳に暗い影を落とした。
「彼女たちの代わりが必要です。この研究所を、人類の文明を守るための盾が」
追い詰められていく彼女に、副官は慰めと労わりの声をかけられなかった。その代わりゆっくりと頷いて了解を示す。
「手配しましょう。候補は既に見つけています」
モニターに表示されたのは一人の少年だった。茶色い髪と左耳の上部につけられた翠のピアスが目を引く、少し眠たそうな目をした少年だ。
「志村圭吾。彼が、次の盾です」
富士起動科高等学校二年。所属を見て、タチバナは目を見開いた。揺れる瞳は気の迷いを示していたが、目を瞑って頷く。
「整備班に翠の巨人の用意を進めさせてください。急がなくては」
司令官は決断を下した。もう、後戻りはできない。
副官の足音が早足で遠ざかっていく。タチバナは懐からスマートフォンを取り出した。朗らかに笑いかける中年の男性の写真が待ち受けに表示される。制帽と軍服に身を包んだ男は軍人だった。
(……お父さん。私は……)
ボタン一つで画面を落とすと、暗い液晶が鏡となって自分の顔を映す。今にも泣きだしそうな自分の顔が嫌で、彼女は直ぐに目を逸らした。
☆☆☆☆☆
巨大な鏡が映し出す怪獣が街を襲い、人々は混乱の世を逃げ惑う。
怪獣が人類の積み上げた歴史全てを破壊する前に、立ちはだかる者達がいる。この富士砕力研究所は、人類の脅威に対抗すべく日夜研究を続ける施設であるとともに、鏡界獣を引き寄せてそれを迎撃する平和の境界線であった。
これは、富士砕力研究所を襲った未曽有の危機に立ち向かった者達と、強大な鏡界獣との戦いを描いた物語である。
陽の光は地下に届かず、今はまだ目覚めない。だが、戦いの時はすぐそこに迫っていた。